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栄冠は地味に輝く  作者: wildcats3
4/21

入団1年目「星屑達にはそれに見合ったステージが」Track①

 つらつらと適当に書いていますので、実際の野球史とは大きく異なる点が多々あります。

 一部改訂致しました。(2023.06.18)

 一軍でバリバリ活躍するスター選手達にはそれに相応しい舞台が用意されるように、スター未満の星屑達にはそれに見合ったステージが与えられる。

 華やかさの欠片もない、泥臭いステージが。

 1985年2月初旬。

 スポーツ紙に“球春”の二文字が踊るのと同時に、12球団は一斉にキャンプインとなる。


 広川達朗氏が監督に就任して以来、レイカーズは二年連続で日本一の栄誉を手にしていた。だが昨年の順位は3位。

 Aクラスを死守したのだから決して悪い成績ではないのだが、球団のオーナーはあまり良い顔をしなかった。

 シーズン終了の報告をした広川監督に対し、労いの言葉を発したオーナーはにこやかな顔のままに厳命する。来年は再び栄誉を、と。

 チャンピオン・フラッグの奪還を課せられた広川監督は、即座に戦力の再編成に着手する。

 その第一弾はトレードであった。

 貴重な先発左腕である鈴木正と正捕手候補であった大坪友好を放出し、名古屋ドルフィンズの主力外野手である立木安志を獲得。

 続けて東京ファルコンズのベテランである色川弘昭を打撃コーチ兼任で獲得、戦力の底上げを託した。

 戦力の底上げ、それが広川監督の急務である。

 それを成し遂げる為にコーチ陣も大幅に刷新された。三人が解雇され、四人が配置転換となり、三人が新規採用される。

 スローガンとして掲げられた“爽球”とは裏腹の激しさで、レイカーズはキャンプインしたのだった。



 二軍選手は、気楽な稼業ときたもんだ♪

 実際には気楽とは真逆の日々だが、二度目の人生だからこそ言える戯言だ。

 前世での二軍生活は散々だった。何もわからずコーチに言われるままに過ごした一年目。自主性を持てと始終怒鳴られてばかりの二年目。このまままでは引退だと朝から晩まで尻を叩かれ続けた三年目。

 引退後、何度も思い返しては悔やんだ三年間。

 打撃投手となってからは、毎年誕生する新人達に反面教師とするよう俺の失敗談と後悔を飽きずに話してやったっけ。

 だから新人の一人として臨んだ今年のキャンプからシーズンインした今に至るまで、何をどうすれば良いのかを己に問いかけながら過ごして来たのだ。

 先ずは二月のキャンプ。

 俺は、寒風吹きすさぶ埼玉県所沢市の第二球場でのトレーニングに参加する。

 二月とはいえ多少は暖かな宮崎県日向市で行われている一軍キャンプを羨みながら。

 やはり体を動かすには、寒いより暖かい方が当然ながら望ましい。寒い中での運動は筋肉と筋に負担がかかるからな。

 怪我を防ぐには入念なストレッチが必須である。

 同じ高卒組である小野寺博元などは早く打撃練習がしたいと、矢鱈と不平を溢していた。宥めすかすのに苦労したっけ。

 小野寺に比べれば高山徳雄は真面目タイプだったので、ひたすらに黙々とメニューをこなしていた。手のかからない存在の何と有難い事か。

 二人揃って問題児でなくてホント良かった!

 俺達とは異なり即戦力扱いの田村郁夫投手は、一軍キャンプに招集されている。

 それは当然の事。田村投手はノーブルホテル時代、既にレイカーズの練習生となっていたのだから。


 平成からのドラフトしか知らなければ驚くような事が、昭和の頃のドラフトでは多々行われていた。その一つが“練習生”なる存在だ。

 練習生とは元々、公式戦に出場出来ずともチームの練習には参加可能な、支配下登録されていない選手を意味する。

 上限六十人と設定された支配下登録選手枠を超えて尚、選手を確保したい場合に適用される制度だ。プロ球界の門戸を狭めぬ為の制度として活用されてきた。

 ところが1981年、とある球団がとある高校球児を定時制高校へと転校させた上で、球団職員として雇用し、練習生にするという裏技を使う。

 ルールの盲点をついたほぼ反則技で、将来性を認めた高校生を囲い込んだのである。

 過去に例を見ない形で練習生となったのは、池澤勤捕手。制度の隙間を無理からに広げたのは、根谷睦夫。

 こうして埼玉レイカーズは他球団に手出しさせないように策を弄し、黄金時代を築く基となる正捕手を同年のドラフトで獲得したのだ。

 レイカーズ初代監督にして現球団管理部長である根谷睦夫のドラフト戦略は、それだけに限らない。

 情報戦を仕掛けて他球団の眼を誤魔化してドラフト外で獲得したり、世に知られていない無名校から原石を掘り出して来たりと、何でもござれ。

 優れた手腕は球団の運営にも如何なく発揮される。

 昭和30年代は強豪チームであったものの、時を経る毎に力を失った博多ライナーズ。

 運営権が北九州鉄道から泰平倶楽部、そしてブラウンライターへと譲渡されても低迷期を抜け出せずにいた。

 それが電鉄と不動産業を主体とする武蔵野グループに買収され、埼玉レイカーズに名称が変わるや否や、短期間の内に往年の強さを取り戻す。

 豊富な資金力をバックとした根谷部長の才覚の賜物である。

 現役時代は東京ギャラクシーズの名ショートとして有名だった広川監督を、自身の後任に据えたのも根谷部長の類まれなる業績だった。

 当に、“根谷マジック”!

 過去に類をみないチーム強化策は他にもあった。シーズン中に実施される、アメリカのマイナーリーグへの“野球留学”がそれである。


 マイナーリーグは3A、2A、1A、A、A以下、ルーキーリーグの六段階に分かれており、1Aは中間層だが野球をする環境としては決して恵まれたものではない。

 食事は主にファストフード。移動はどれだけ長距離であろうとも常に球団所有のバス。ハンバーガーやホットドッグで腹を満たしながら、数百キロ離れた場所へバスでガタガタと。

 レイカーズの野球留学は精神的・肉体的に飛躍を促す為に、日本の二軍とは違い過ぎる過酷な日々を過ごさせるのを目的としていた。

 21世紀の視点で振り返れば、“虎の穴”モドキのスパルタ特訓だろう。

 田村投手は練習生だった去年夏に、その“虎の穴”モドキの洗礼を受けている。一緒にアメリカへと派遣されたのは、桑島公康投手と他数名。一昨年には浅川幸二内野手も送られていた。

 その甲斐あってか、ハングリー精神を叩き込まれた桑島投手は帰国後直ぐに先発ローテーションに加わり、浅川選手は主力として五番サードの重責を担っている。

 スパルタ特訓も時と場合によっては、有効なのかもしれないなぁ。

 競争社会の最たるものであるスポーツ競技において、ハングリーさがなければ即落伍者となるのだから。

 “レッツ・エンジョイ・スポーツ!”と公言出来るのは、不動のレギュラーを勝ち取った者か、最初から競争に参加するのを諦めた者だけに違いない。

 じゃあお前も武者修行に参加したいかと問われたら?

 勿論嫌だよ、御免だよ、と俺は答えるけどな。

 ハングリー精神なら他人よりも二十年分以上も持ち合わせているし、別にアメリカくんだりまで行かずとも国内で出来ることは山ほどあるのだし。

 春季キャンプからほぼ毎日欠かさず、怪我をしない体、フルシーズン戦えるだけのスタミナをつける為のトレーニングを行っていた。

 バランスが崩れぬように体幹を鍛え、肩回りの駆動域を広げるストレッチをし、投球動作に重要なインナーマッスルの強化を図る。持久力と心肺能力を高めるランニングは言わずもがなだ。

 それらを意識して行うのに必要だと考え、専門家にも教えを乞うていた。


 最初に訪れたのは、同じ埼玉県内にある私立の社会体育専門学校。

 球団首脳の許可を取り、練習が休みの日毎に通っては勉強勉強と聴講を重ねる。

 お気に入りは若き俊英である、芝山仁講師の授業だった。

 ところがその芝山先生が今年の春から筑波の国立大学へと勤務先を変えるという。

 これには正直困った。

 埼玉県内なら電車とバスの乗り継ぎで行けるのに、行き先が茨城県新知郡桜村となれば移動だけで大ごとだ。一泊でもしなければ、ゆっくりと受講するなど出来やしない。

 車が使えれば良いのだが、残念ながら免許は未取得。

 球団の制度で、来月の五月中旬になれば短期集中の詰め込み教育で普通免許取得の機会が与えられるのだそうだが、生憎今は四月になったばかり。

 こんな事なら冬休みの間に自費で免許取得の合宿にでも参加しておけばと思っても、いやいやあの頃はそれどころじゃなっかたし。

 プロで大成する為の方針を立てるので精一杯だったからなぁ。

 しくじったかと懊悩したが、案ずるよりも産むが易しとはよく言ったもので、彼方此方に相談していたたら何とかなってしまったよ。

 悩みを解決してくれた恩人は樋浦茂・二軍監督、二木三雄・二軍投手コーチ、鷲尾博実・二軍バッテリーコーチの三人である。

 三人が三人共に、不思議なくらいに寛容であったのだ。

 何故だろうと思い訊ねてみたら、二年ほど前から国が定めたスポーツドクター制度に基づき、チーム改革を始めていたのだそうな。

 我ながらやり過ぎかなと思う独自のトレーニング方法が黙認されていたのも、チームの方針に沿っていたからだそうで。言われずとも率先してやっている俺はある意味、テストケースとされていたのだとか。

 道理で放任、っていうより野放しにされている訳だ。

 俺の行動は小野寺や高山にも良い影響を与えているとかで、今年の新人は見所があると専らの評判であるらしい。

 二軍の練習に支障をきたさぬ限り、積極的に勉強しろと逆に発破をかけてくれたのだ。

 他にも恩人がいる。

 球界では生ける伝説と化している大ベテラン、優勝請負人として昨年に三顧の礼で迎えられた、江原豊投手だ。

 何故か俺は江原投手に可愛がられた。理由は、入団記者会見が面白かったからだそうな。


 昨年末に行われた入団記者会見。

 東京六大学の花形打者であった檜山克己を1位指名した代々木スターズや、夏の甲子園を沸かせた志垣章弘が入団した大阪サンダースとは違い、世間の耳目を集めるような目玉のいないレイカーズは実に地味な記者会見だったっけ。

 其処で俺は演台に置かれたマイクに向かい、“背番号と同じ年齢になってもレイカーズのユニフォームを着ていられるような選手になります”と答えたのだった。

 どうやら俺が“なりたいです”という漠然とした希望ではなく、“なります”と決意表明したのがお気に召したようだ。

 俺の背番号は、42。所謂“死に”番である。

 しかも与えられたものではなく、幾つかある候補の中から選んだ数字だったりする。

 根谷部長は、他の数字にしろ、と言葉強く再考を進めてくれたが、俺としてはこれほどに相応しい番号はないと、無理からに頂戴したのだ。

 一度死んだ身であるし、打撃投手を止めてバーを開店した年齢でもあるし……などと他人には言えない理由で選んだ数字だから、俺の拘りは誰にも理解されないだろうけど。

 それはさておき、そんな若者らしくない言動がどうやら江原投手の反骨魂にフィットしたようで。

 世の中何が幸いするのやら。全くの棚ぼた的ラッキーであった。

 実は江原投手、昨シーズンの終了後に引退を考えていたらしいのである。

 理由は幾つもあったが、請われてレイカーズ入りしたものの思うようなパフォーマンスを発揮出来ずに二軍で燻っていた事、入団を懇願した当の本人である広川監督と性格的に反りが合わなかった事、その二つが主な要因。そりゃあ最悪の状況だ。

 やぶれかぶれでメジャーリーグにでも挑戦しようかと思っていた矢先にオーナーが鶴の一声を発し、現役続行と残留が己の意志に寄らず決せられた。

 “外聞が悪いから何とかしなさい”という御言葉を賜った根谷部長が和解の場を設け、ドタバタは未然に封じられたのだとか。

 元々がお互いの野球観、野球人としての実績を認め合った者同士。相手への不信感は払拭出来ずとも、意思の疎通は図れるのだから。

 その辺り、プロがプロと呼ばれる由縁なのだろうな。

 こうして引退の危機は回避出来た江原投手であったが、エースの日高修投手を筆頭に一軍投手陣が順調であるが為に、今期も二軍での生活を余儀なくされていた。

 “極東超特急|<アジアン・エキスプレス>”の異名を持つ徐泰源投手が台湾球界から入団しなければ、一軍昇格の芽もあったのかもしれないけれど。

 さて、やむなく二軍選手に混じり汗を流す江原投手であったが、決してそれを甘んじて許容するような人物ではない。

 今までの遣り方でパフォーマンスが上がらないのならば、新しい事をやらなければならないと考える柔軟性を持たれていた。

 36歳という年齢はスポーツマンとしては下り坂でも、一般社会ではまだまだ若造なのだから。

 そんな時に、今までにない独創的な練習方法をしている俺に目をつけたのだそうな。

 何故そうするのか、どうしてそれを行っているのかを、コーチや小野寺達に解説しているのを耳にし、その理論が腑に落ちたのだそうな。

 未だ根性論がメインストリームである現在の球界においても、名を上げ功遂げた選手には芯となる独自の理論がある。

 ファンの期待に応える活躍が出来ているのは、それなりの理由があるからだ。

 その理由を言葉に変換出来る人は全て、名指導者となり、名解説者となっている。

 惜しむらくは、これまでの江原選手は言語変換能力を疎かにしていた。その事に今、漸く気づかれたのだそうな。

 言葉を疎かにしていたが故に、対人関係で無駄な衝突を繰り返していた事に。

 俺が聴講して来た内容を、江原投手は頻りに聞きたがった。

 気づけば練習中の休憩時間、俺は小野寺や高山だけではなく江原投手にも聞きかじりの知識を伝達するようになっていた。

 通称“ジッサマの青空教室”である。

 “ジッサマ”とは江原投手が言い出した俺の渾名だ。記者会見での事、二軍での行動、何よりも俺の喋り口調が若々しくないからだとか。

 だってそりゃ、精神的には50歳を超えているからなぁ。


 野球関係以外にも恩人は数多いる。

 モデル業をしている貞本拓也氏、ボディビルダーの小松原裕史氏、都内のスポーツジム勤務の大津幸一氏、都内でフィットネスクラブを経営する箕輪英治氏。

 全員が今の俺よりも十歳前後年上の人達だ。

 普通であれば出会う事がなかった人達であったが、トレーニングに関する今の最先端を学ぼうとした結果、巡り合ったのである。

 特に、貞本拓也氏は昭和が平成になった後、“デューク”の通称を名乗りつつ独特なウォーキングエクササイズでお茶の間を席巻するのだが、今はまだ無名のイケメンでしかない。

 そんな別世界の住人である彼らと俺を結び付けてくれたのが、芝山先生だ。

 貞本氏はよくスポーツカーで送迎をしてくれた。貞本氏が多忙な時は、小松原氏が大きな体に似合わぬ軽自動車で所沢と筑波の間を走ってくれた。

 大津氏や箕輪氏は毎週のように研究レポートのコピーを選手寮へと郵送してくれる。

 どうして彼らがそこまでしてくれたのか?

 もしかしたら、今まで成し得なかったプロスポーツにコミットする望外の機会を逃すまいと思われたのかもしれない。

 彼らの意図は正確には判らないが、好意は好意である。俺は有難く甘受した。

 何れ一軍の試合で登板し結果を出せたのなら、それが最高の恩返しになるのだと信じて。


 因みに、広川野球は俗に“管理野球”だと言われている。

 日々の食事から試合後の過ごし方に至るまで、徹底的に管理するのが広川監督の大方針であると。

 チームの規律なくして勝利はあり得ない、それが大方針の中核だった。

 自分自身が未だ何者かが判っていない若手には、軍隊式の徹底統括が合っていたかもしれないが、既に己の理論を確立させていたベテラン選手らには大不評である。

 田原幸一氏や山田裕之氏が昨年末で引退した理由も、もうこれ以上は付き合っていられない、だったのかも。

 禁酒、禁煙、禁麻雀。当然ながら夜遊びも禁止である。玄米を食べろ、肉を食べ過ぎるな、野菜をもっと食え。

 平成になれば食べる事もトレーニングの一環、パフォーマンスに差し障りとなる行為は慎むべきであるのは当たり前だが、今は昭和である。

 二日酔いで出場する選手がいても、へまさえしなければ非難の的とならないのだ。

 よく言えば古き良き時代、厳しく言えばだらしない時代である。

 鯨飲馬食で偏食が常態化している当世において、病院の食事療法が如きシステムを導入されれば、そりゃあ反発必至も当然だ。

 広川監督の大方針に非難を浴びせたのは、チーム内だけではなく球界全体、いや社会の至る所からもであった。

 特に肉食を批判されたと受け止めた東京ファルコンズの親会社である扶桑ハムは、広川野球を徹底的に罵倒する。

 実は、広川監督も言葉の足りない人物だった。

 己の理論を言葉へと変換する手間を惜しむ人だったのだ。

 一を聞いて十を知れ。知れないのならば、従順せよ。それで納得出来る者が果たしてどれだけいるのやら。

 “肉ばかり食べるな”と言いたいが為に“肉は腐った食べ物”と言ってしまっては、望んで舌禍を起こしていると取られても仕方がないよな。

 若輩の身で失礼極まり評価をすれば、官僚や学者に多い“頭の良い馬鹿”タイプなのだろう。

 理解してくれる人は手放しで称賛するのだろうけれど、万人には受け入れられない人、それが広川監督であった。

 そんな広川監督は現場主義でもあり、二軍にもよく足を運ぶ人物でもある。

 考えずとも判っているべきだったけれど、俺も要監視対象となっていた。幸いにして要注意人物とはならずに済んでいたのだが。

 理由は、春季キャンプ期間中に提出を求められたレポートが丸優だったかららしい。

 レポート内容が、キャンプにおける自己目標とその達成方法だったから、別に難しくはなかったのだけどな。

 入団が決まってから今に至るまで考え続けていた事を文字に起こしたら、必要枚数だった400字詰め原稿用紙一枚などあっという間で。

 四苦八苦する小野寺や高山を横目に、調子に乗って十枚も書いたのはやり過ぎだったかな。

 あまりにも鉛筆を握り締めたまま天を仰ぐ姿が哀れだったので、アドバイスをしてやったら随分と感謝された。それ以来、二人には兄貴分扱いをされているのが、居心地良いやら悪いやら。

 そういった事も含め俺のアレコレは全て樋浦二軍監督から報告されており、それが広川監督のお眼鏡にかなったようである。

 どうやら俺が好き勝手していられるのも、広川監督の指示であるようだ。

 玄米中心で野菜多めの食事に満足そうな表情で、酒も飲まずタバコも吸わず夜遊びもせず、黙々と与えられたメニューをこなしつつ、更に自主的に体だけではなく頭も鍛える日々を送る。

 酒も煙草も前世で十分に嗜んだし、肉と油分過多の食生活が生活習慣病を招き易いのも前世で経験済みだもの。

 遊びが人間を大きくする、って考えを間違いとは思わないが、下手すれば身を持ち崩す事もあるのを知っている。

 怠惰な生活をしたくて、再チャレンジの今を生きている訳じゃない。

 今度こそ、俺は一人前のプロ野球選手になりたいのだ!

 ストイックだと笑えば笑え。事実、一部の選手からは“管理野球の申し子”とか言われているみたいなのだけど。

 何だかんだと一緒に過ごす時間の多い小野寺や江原投手からは、逆に野生児扱いされている。

 ジッとしていられず、目を離したら何処かで何かをしでかしていて、一つ事に没頭し出したら周りの事などお構いなしだからだそうな。

 何とも納得いかぬ評価だよな!



 そんなこんなで始まった俺のプロ生活は、やがて夏を迎える事となる。

 遣り直しの人生において最初のターニングポイントとなる、夏を。

 改訂作業も、自転車操業にて。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いやー、どこかで見たり聞いたりした選手がどんどん出てきてたのしいです。 [気になる点] 田淵、、もとい田原選手は引退させちゃったんですねー。
[良い点] こりゃおもしろい。野球全く知らないからこそ新鮮に読めます
[一言] 続きを楽しみに待ってます 85年ですから既に79年に鳩山由紀夫が野球のオペレーションズ・リサーチの論文を発表してますね 現代のセイバーとほぼ同様の結論を導いているので主人公の参考になるかも
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