入団3年目「『おもちゃのチャチャチャ』という童謡がある」間奏2
一ヶ月もかかってしまった。なので予定の二倍の分量に!
開幕前には投稿しようと頑張ったのですが、御彼岸の法要がありましたんで……。
来月は、頑張ろう、頑張りましょう、頑張れる?
誤字・誤表記を訂正させて戴きました。御指摘に感謝を!(2022.03.30)
光一郎が小野寺博元と共に根谷陸夫の自宅に呼び出されたのは、本拠地で迎えたシーズン前半最終戦を勝利で締めくくった後であった。
前半を総括するミーティングに参加した後、慌ただしく支度を整えた二人は迎えのハイヤーへ。
後部座席に乗り込むやいなや直ぐに鼾を掻き出した小野寺と異なり、心中穏やかならざる光一郎はまんじりともせずに夜景を見詰める。
根谷が格別に目をかけた若手を自宅へと度々呼びつけるのは、チーム内では有名な話であった。
少し前までは桑島公康がその対象であり、最近は専ら小野寺である。
呼びつける理由は腹を空かせた食べ盛りに御馳走を振舞うことと、若手ならではの悩みに耳を傾けることだ。
もっとも、振舞われる料理が“牛乳ベースのすき焼き”であったので、真っ当な味覚の持ち主には些か有難迷惑な行為なのかもしれない。
現に一度で音を上げた桑島は、二回目の呼び出しからはステーキを所望したりしている。腹いっぱい食べられれば何でも良い小野寺は特異な例だといえよう。
光一郎の眉根が僅かに寄っているのは、饗される珍味への忌避感からではない。別の理由があってのことだった。
入団して以来この方、光一郎は根谷に目をかけられていると感じたことは一度もない。この二年間で根谷と対話した機会は、シーズンオフの契約更改の時だけだ。
その際も膝を交えて親しく、といった雰囲気ではない。
過去の遣り取りを思い返せば、目をかけられているというよりも、目をつけられている、であろう。
であれば、今日の呼び出しは如何なる理由によるものか、と考えれば、決して宜しくない理由であるに違いないのは容易に察せられる。
武蔵野球場から所沢市内にある根谷の自宅までに要する時間はおよそ20分。根谷とどう接するべきかを考えるにはあまりにも短い。
結局は出たとこ勝負しかないと光一郎に覚悟を決めさせたのは、到着を告げる運転手の言葉である。
或いは、小野寺の鼾と鼻提灯が割れる音に、真剣に悩むのが馬鹿馬鹿しくなった所為でもあったが。
「まぁ、坐れ」
特製すき焼きが用意された居間へいそいそと赴く小野寺と別れ、光一郎が案内されたのは根谷家の書斎。
机だけではなく床にも乱雑に書類が積み上げられた書斎は、根谷の頭の中を具現化したような部屋であった。
促されるまま大人しく部屋の隅へ正座した光一郎を見下ろす根谷の目は、常になく厳しい光を宿している。
頭を一刀両断してごっそりと抜き出した中身を吟味するかのような鋭い眼光を浴びせられた光一郎は、根谷の次の言葉を聞くや早々に白旗を上げることにした。
「去年のことがどうにも気になってな、周辺に色々と探りを入れたんだが……どうにも合点がいかねぇんだ。
だから直接、問い質すことにした」
逃げも隠れも出来そうにない、正直に全てを暴露するしかない、そう悟らされたからだ。
「お前ぇは一体、何者だ?」
誰に聞いたのかは忘れてしまったが、人体の構造上、物を投じるという行為は全く合理的ではないそうだ。
合理的ではないとは、物を投じる際に使用する腕全般に不必要な捻じれが発生し、過度の負担がかかるということ。
腕全般とは、肩を構成する筋肉群である腱板、肘の内側の靭帯、尺骨神経などだ。
投球動作には人体から発生するパワーに遠心力が加わる為、肩から指先に至るまで隅々に張り巡らされた毛細血管は深刻な悪影響に晒される。
そんな悪影響が数え切れぬ程積み重なれば、声を持たない筈の肉体も何れは悲鳴を上げるだろう。
事実、私の右肩は随分と前から現在に至るまで悲鳴を上げている。
いつから悲鳴を上げていたのかは判らない。声なき悲鳴だからだ。注意深く耳を澄ませていればもっと早くに判ったのかもしれない。
だが私は耳を澄まさなかった。己の肉体に耳を傾けるより大切なことがあったからだ。
東京ギャラクシーズのマウンドを守ること。
私は、プロ野球創成期から球界の盟主として君臨し続けている銀河軍のエースである。
例えどれほど辛かろうと、苦しかろうと、弱音を吐くなど絶対に許されないのだ。
言い訳も妥協も許されない。泣き言が許されるのは心の中だけ。
特に私の場合は入団の経緯もあり、尚一層それらが許される立場になかった。
世間的に嫌われ者となり、ギャラクシーズのユニフォームに袖を通したからである。
強い者は皆の憧れの対象であるが、強過ぎる者は悪し様に罵られる存在に為り得ると学んだのは、プロになってからだ。
過去に日本シリーズ9連覇を達成し、それ以前もそれ以降も何度もリーグ優勝とシリーズ制覇を成し遂げているギャラクシーズは、ファンでない人々には強過ぎる者なのだろう。
だからこそ私はギャラクシーズを応援してくれるファンの為に、死力を尽くして勝利を捧げ続けなければならなかった。
嫌われ者であったからこそ、常に勝たなければファンの声援を得られない立場であると様々な場面での経験により、自覚させられたからだ。
登板の度に全力でライバル達に勝負を挑み、数限りなく捻じ伏せた結果、私はギャラクシーズのエースと成り果せた。
ライバルは他球団の打者ばかりではない。ギャラクシーズの名の下で協力し合う仲間である筈の投手達もまた、そうである。私は彼らにも勝たなければならなかったのだ。
子供の頃から憧れた球団に入る為にドラフト制度という壁に抗い、その代償として貴重な時間も浪費した私は、他者よりも勝つことに貪欲でいなければと焦燥感にも苛まれた。
来る日も来る日も、絶対に負けてはならぬ、今日も明日も明後日もその先も、投げる試合は必ず勝たなければ、と。
そんな心理状況と取り巻く環境で、体の発する声なき悲鳴が聞こえる筈がない。
右肩の痛み、という無視出来ぬ現実を目の前に突き付けられたことで、私は漸くにして悲鳴を耳にしたのである。
知る人ぞ知る話ではあるが、プロになる前の大学2年生の時に一度、私は利き腕である右肩を疲労骨折していたのだ。
当時はリーグ戦の最中でもあり、私の負傷は外部に伏せられた。治療が上手くいき予後も良好であったので問題視されなかったが、もしも今であれば大問題であっただろう。
医者の診断も投手生命に危機的だとはならなかったので、私も些細なことだと軽く流していた。
その右肩が再び痛み出したのは四年前、入団五年目の夏である。
高校生の時は“怪物”と称された私だったが、プロ生活四年目には“百球肩”と揶揄されるようになり、怪物の皮を脱いで唯の人間となった。
しかし唯の人間であることに我慢出来なかった私は、鍼灸治療を頼みとしながら“強者”であろうと必死に足掻き、懸命に努力する。但し、人知れずにを条件としながら。
エースとは、努力する姿を見せるものではないからだ。
ギャラクシーズの歴代エース達は誰しもが、如何なる苦境に喘ごうとも常に一張羅ですまし顔であるのを矜持とされていた。
私も彼らの生き様を手本としたが、倣わなかった点がひとつだけある。
ギャラクシーズのエースナンバー、栄光の18番をつけなかったことがそれだ。
球団からは幾度か打診されたのだが、その都度辞退させて戴いた。
既に私は悪名を背負っているのだ。私の背に、18番は相応しくない。
30番という投手とも打者ともつかぬ、中途半端な数字が似合っている。
だが、エースという立場まで手放す気はない。
これだけは何としても、選手生命が尽きるまで死守してやろうと心に誓っているのだから。
それ故に、悲鳴に耳を塞ぐことに決した私は、数年に亘り二桁勝利を掴み取る。負け数を一桁に抑えながら。
今年もこれまでの成績は、9勝1敗。通算でなら131勝68敗となる。
順調にいけば年内で後5、6勝は稼げるだろう。来シーズン終了時には、150勝の大台へ手が届くに違いない……。
ところが、だ。
今年になってから悲鳴とは異なる別の音が聞こえるようになった。
何かが引き千切れるような音が、投げる度に聞こえるようになったのだ。
単発ではなく、プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ……といった具合に。
私以外にも聞こえるような音量ではなく、意識しなければ聞こえぬ程度の音である。
最初は気のせいだと思った。ユニフォームの縫製が弱っているのかと。
やがて私は理解する。
鼓膜を通して聞こえているのではなく、頭で直接受信しているのだということに。
恐らくそれは、毛細血管が断裂する音なのだろう。そしてきっと、幻聴なのだろう。そんな微細な音が聞こえる筈などないのだから。
全ての試合の全投球で聞こえた訳ではない。だが何かの拍子で不意に聞こえるのだ。
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ……と。
何度も聞かされる内に私は理解した、いや、させられてしまった。
それは声なき悲鳴などではなく、肉体がゆっくりと死んでいく際の断末魔なのだということを。
右肩が限界だと……もうこれ以上の負担には耐えられないということか?
そう覚ったのは前半戦最後の登板の時のことだった。
快調に首位を走るギャラクシーズを追いかけ、広島キャナルと激しく競っている名古屋ドルフィンズとの試合。
初回にウォーレン・クローザースの3ランで先制したものの、下位打線の大木康徳さんと川原米利に連続でホームランを打たれてしまった。
投球動作の途中で突如あの音が、途切れることのない断末魔が頭の中で反響したのだ。
折角の先制点を無にする打球の飛んで行くさまを見送りながら、私は思ってしまった。
ああ、もう駄目なのかもしれない、と。
その瞬間、背中から何かがズルリと落ちるのを感じた。
ギャラクシーズのエースとしての矜持、だったのだろうと思うが定かではない。
慌てて振り返り足元に目を凝らすも、そんなものは何処にも見当たらなかったからだ。
視界に映るのは踏み荒らされたマウンドばかり。燦燦と降り注ぐ夏の陽光に照らされたロジンバッグの粉が、草臥れた女郎の白粉のように辺りに散っている。
何だったのだ、とは思わなかった。
何だそんなものだったのか、と漸く気づいただけだ。
広い広いグラウンドの中に築かれた、僅か5メートル半ほどの小さな土盛り。陽が落ちればカクテルライトを浴びて輝くダイヤモンドの中央の、小さな小さな狭い世界。
名前をコールされ、マウンドに上がる度にいつも、エースであれ、球界の紳士たれ、王者の如く振る舞え、そう己に言い聞かせていたのであったが、こんなにも小さく狭い世界であったのだなぁ。
憑き物が落ちた気分とは、当にその時の私が感じたものだった。
少なくとも気負いが無くなったのは確かだ。それが良かったのか悪かったのかも判らないが。
後続を断ち、六回まで投げた私は3失点のままで勝利投手の権利を得る。
チームも二桁得点を挙げて、県営球場に集まった富山県のギャラクシーズファンを大いに喜ばせられた。
それで十分じゃないか。
北陸遠征で得られた解放感は、東京都に戻ってからも続いていた。
右肩の痛みが雲散霧消した訳ではないにしろ、そちらも幾分か軽くなったのは確かだ。
今日はきっと良い球が投げられるに違いない。
いつになく軽やかな気分でグラウンドの土を踏んだのだが、監督には“明日の先発を頼む”といわれてしまった。
残念だが仕方がない。前回登板から中三日、監督として無理はさせられないのだろう。起用するのが他球団の監督ならば猶のことだ。
オール・エキサイト、全エを指揮する広島の愛川監督に承諾の旨を告げた私は、明日の登板に万全を期す為、走り込みを中心のトレーニングを始める。
孤高、といえば格好良いが実のところは悪名の所為でリーグ内では孤立気味であったので、誰かと連れ立つことなく一人きりでのランニングだ。
今年で50年目の節目を迎えた我がギャラクシーズの狭い本拠地と違い、開場してから十年も経っていない武蔵野球場の外野は広々としており、ランニングをするには最高の環境である。
広々としているといっても、規模としては此処と水戸園スタジアムの違いなど数メートルしかないだろう。
しかしスタンド越しに見える風景が全く違う。都会のど真ん中にある水戸園は林立したビル群に囲まれているのに対し、武蔵野球場は都会から大きく離れた田舎にある。
見渡す限りの景色は多彩な緑色で染まった野山、見上げる大空も薄雲がなければ遮るもののない一面の青だろう。
汗水流して練習に励んだ、栃木県の母校のグラウンドで三年間毎日欠かさず見続けた風景を思い出す。いやいや、宇都宮の方が都会っぽさでは上か。
違いは他にもある。
母校のグラウンドには懐かしむべき良い思い出が沢山あるが、此処には思い出すのも悔しい苦い記憶しかなかった。
今から4年前。広川監督率いる埼玉レイカーズと対戦し、第1戦と第5戦と第7戦の三試合に先発したのだ。
水戸園での第5戦は勝ち負け無しであったが、此処を舞台としたシリーズ初戦と最終戦ではスコアブックの私の名前に負け投手の記号が黒々と記された。
散々に打ち込まれた此処での二試合で、私は先発の役割を果たすことが出来ず仕舞いであったのだ。
あの屈辱は未だに忘れられない。
一日でも早く雪辱したいものだが、こればかりは己一人の力ではどうしようもなかった。そもそも此方と彼方が共に優勝せねば無理なのだから。
出来れば今年こそは、と心密かに期しているのではあるけれど。
そんな純粋とはいい難いノスタルジーを額に吹き出た汗と一緒にタオルで拭いつつ内野方向を見遣れば、敵地である此処を本拠地とするユニフォームを着た凸凹コンビがちょろちょろとしていた。
凸の方には見覚えがある。去年の新人王の金月に違いない。長身に見合う肉体が発展途上である点からしても見間違いようがない。
では新進気鋭の若手スラッガーをお供にした、シルエットに見覚えのない凹の選手は誰だろう?
あの背の低さは日高さんや伊倉などではなさそうだが。
何かを渡しては何かを受け取りながら、あっちでペコペコ、こっちでペコペコ。どう見ても中堅ベテランの仕草ではありえない。
何をしているのかも然りながら、42番という日本人が好んで付けたがらない背番号が何者なのかが妙に気になる。
その素性を私が知ったのは、試合の後半になってからのことであった。
神戸ブレイザーズの堀江伸之とキャナルの大林豊による左腕対決で始まったオールスター第1戦。
先制打は“銀河の若大将”こと長谷辰徳の放った2ランだった。
全エが幸先よく初回に2点を挙げたがワイルド・リーグ、全ワも黙ってはいない。直ぐさまに反撃を開始。追いつかれてなるものかと、此方も加点し、三回終了時点で3対2の点取り合戦となる。
だが六回裏にオール・エキサイトの二番手として登板した名古屋ドルフィンズの小杉辰雄が打者一巡の猛攻を許し、一挙に5点も奪われ試合を引っ繰り返されてしまった。
七回表に、ギャラクシーズの女房役である山野井和博のタイムリーで1点を返すも、点差は3点。
八回表の全エの攻撃は四番、三回表にタイムリーを放っているドルフィンズの主砲の折笠博満さんから始まる好打順である。
誰が登板しようが同点もしくは逆転を期待したとしても、特に可笑しくはないだろう?
2イニングを投げた堀江の次は、南紀ハリアーズの藤谷修二が3イニングを投げ、3番手で登板したブレイザーズの山本久志さんも既に2イニングを無失点ピッチングで抑えていた。
ベテランである山本さんの続投はないだろう。全ワの抑えは、川崎オーシャンズへ移籍してもリリーフ・エースとして活躍している牛山和彦が務めるのだろうが、八回からの登板は幾ら何でも早過ぎるだろう。
全ワの監督がイベント好きな人物であれば、トレード相手同士の因縁対決などと話題作りの為に早々と登板させるかもしれないが、慎重居士だといわれる森山監督がそれをするだろうか?
などとベンチの隅で他人事のように考えていたら、ホーム側のベンチに動きがあった。やはり投手交代を主審に告げるようだ。
「ピッチャー、神戸ブレイザーズの山本に代わりまして、埼玉レイカーズの絵本。ピッチャーは埼玉レイカーズの絵本、背番号42」
お、アイツか!
そうかエモトというのか。エモト、エモト……絵本と書いてエモトと呼ぶのか。変わった苗字だな。どこかで聞いたような……ああ、無四球記録の達成者か。
随分と若いんだな……ボールは若々しさが感じられないほどに遅いが。いや、堀江もそうだったな。ということは球速よりもコントロール重視のタイプなのか。
さてどんな投球をするのだろう?
……蠅が止まりそうな低目へのスローカーブ。折笠さんのバットがピクリとも動かないのだからボールだからか、と思ったら判定はストライクだった。
ということは判っていて、わざと見送ったのか?
二球目は何だ? 軽く仰け反ったから胸元への速球か、それともシュートか?
あれあれ、たった二球で折笠さんを追い込んでしまったぞ。
三冠王三度の大打者を相手に臆さずテンポ良く投げ込むあの投手は、試合前に米つき飛蝗のように頭を下げ捲っていたのと、本当に同じ人物なのか?
呆れるやら驚くやらをしている内に三球目が投じられ……折笠さんはバットを振ることもせずにバッターボックスを離れるや、三振のコールを背中で聞きながらスタスタとベンチへと戻って来る。
しかも、楽しそうに笑いながら。
球界を代表する大打者のまさかの行動に私も含め、全エのベンチは呆気に取られた。スタンドの観客もどう対応していいのか判らぬようで、奇妙な空気でざわついている。
勝負事には厳しい“燃える男”が代名詞の保志仙一監督がベンチ内にいれば一騒動起こりそうなものだが、生憎ドルフィンズは前年度四位なので此処にはいない。
笑顔のままで、呆然としている選手達の間を抜けてベンチ裏へと立ち去ろうとする折笠さん。
咄嗟にその背を追いかけたのだが、これまで面と向かって折笠さんと会話した機会を得なかったことに今更ながらに気づき、思わず動揺してしまった。
どう声をかけたものか、そんな私の逡巡に気づいたのだろう。
ベンチ裏の通路へ降りる階段の途中で立ち止まるや、手に下げたバットを肩に担ぎ直しつつ此方へと振り返る折笠さん。
「面白い投手だろう?」
そう問いかけられたものの、心の準備も侭ならぬ私が口に出来たのは“ええ、まぁ”という出来損ないの返事であった。
「アイツはな、俺の天敵なんだ」
「そうなんですか?」
「まぁ、気づいている奴はほとんどいないだろうがな」
「……どうしてですか?」
「あまりの遅さについ目で追ってしまう低目いっぱいの山なりのスローカーブ、思ったよりも食い込んで来たシュート。
どっちも傍目には簡単に打てそうなボールに見えるんだろうが、スローカーブは打ったところでバットの先っぽ、精々がキャッチャーフライにしかならん。
シュートは体を思いっきり開けば打てそうだったが、ヒットにするのは難しいだろうな」
「三球目は打ちごろの投げ損じに見えましたが」
「まぁ、そう見えるよな。実際、打ちごろの球なんだ。軽くバットを振っただけでボールはスパーンと飛んで行く。見事に綺麗な、本当に美しい放物線を描いてスタンドまで飛んで行くんだ。
年に一本打てたら最高の一本となる、後々一週間くらいは手に感触が残っているくらいご機嫌な気分になれる球なんだけどな……」
「だけど、何々です?」
「俺のホームランコースからはボール一個分くらいズレているんだ」
「は?」
「去年の四月の開幕間もない頃、6点差つけられた八回ランナー無しの場面で同じ攻め方をされて、失投だと思ったんで素直にバットを振ったら綺麗に飛んで行ってな、もう少しで場外になりそうなホームランだったよ。
日程の都合上次の試合まで中四日も空いたんだが、それでも手に感触が残っていてな、今日も気持ちよく打てそうだと思っていたら……大間違いだった。
チームは南紀ハリアーズに二連勝したが、俺は二試合連続で無安打だった。悉く絶好球を打ち損じてしまった。
何でだ、と考えてみたらアイツの投球の所為だった。
目線が狂わされて、軸がずらされていたんだ。そんな状態で最高のホームランを打ったもんだから、狂いとズレが固定されてしまっていたんだな」
「……本当ですか?」
「嘘だよ……といえたら良いんだけどな。あのホームランも、打ったんじゃなくて打たされたんじゃねぇか、と思っている。
狂いとズレを治すのに十日もかかってしまった。
だからそれ以降は、アイツからホームランを打たないようにしたよ。また狂わされたら堪ったもんじゃないからな。
序でにアイツの投球をよくよく観察するようにした。するとな、まるで俺のことを知り尽くしているような攻めをしているのが判ったんだ。
打つ気がないとみれば平気でひょいっとど真ん中に投げるし、ヒット狙いをすれば投げるテンポと呼吸を変えやがる。
しかも俺のホームランコースには、唯の一球も投げて来やしない。
球速は二線級なのに、コントロールは超一流とまではいわないものの一級品であるのは確かだ。球種も多いしな。
……打撃投手がバッターに気持ち良く打たせるのを止めて、本気で殺しにかかったらアイツみたいになるんじゃないかな」
「……なるほど」
「後半戦も打ちたいからな、だからあの三球目を打つのを止めたって訳さ」
「そうだったんですか」
「お祭り試合でもシーズン中と同じ攻め方をして来るとはなぁ、大した魂消た奴だぜ、アイツは!」
カラカラと笑いながら去って行く折笠さんを見送ってからグラウンドに目を遣れば、ドルフィンズのケーシー・Kの代打として松野匡史の名が呼ばれたところであった。
チームメイトとして折笠さんから聞いたばかりの情報を伝えようとしたが、松野はホームランバッターじゃないから無意味かも、と思い止まる。
松野のような強振しないタイプにはどんな投球をするのかが気になったからでもあった。
初球は高目に外れた速球系を見逃してボール、二球目のスローカーブはバックネットへのファール、三球目は落ちるボールを空振り、四球目は明らかに外れたのだろう平然と見送ってボール。
2ストライク2ボールからの五球目、松野は外へのカーブらしき球種を踏み込んで流し打ちを試みるが、打球は三塁線を切れてファールに。
そして六球目、松野のバットは三球目よりも落差のあるボールに空を斬った。
折笠さんのいう通り、確かにストライクゾーンを目一杯使って投げる投手のようだ。球種も多いらしい。コントロールは悪くはないが、格別良いようには見えなかったが。
もしかしたら、打席での感じ方は違うのかもしれないな。
大阪サンダースの増岡明信さんに代わって打席に立った代々木スターズの檜山克己が初球を簡単に打ち上げたのを見て、ふとそう思う。
フラフラと上がった打球は、ほぼ定位置のセンターがガッチリと掴んでいた。
私が絵本と言葉を交わしたのは翌日、横浜に移動しての海浜スタジアムのグラウンドであった。
今日の先発を任されていたのでランニングは軽めにし、ベンチ前でストレッチをしていたら向こうから近寄って来たのだ。
「初めまして、江守さん。お忙しいところを失礼致します。レイカーズの絵本と申します」
帽子を取ってペコリと頭を下げる姿は、前人未到の大記録を打ち立てた大物にも見えなければ、折笠さんの天敵にも見えやしない。
仮にギャラクシーズのユニフォームを着ていたならば、玉川で球拾いをしている二軍選手レベルか。一軍でバリバリの活躍をしているならば、もう少し迫力があっても良さそうなものだが。
後ろで紙袋を両手で抱えている金月が自信満々の雰囲気を醸し出しているので、余計に小者臭く感じてしまう。
不作法とは思いつつも良い機会だと思い遠慮なく観察するが、鈍感なのか然して気にする風もなくニコニコとしている。
何とも不思議な選手だ。
「すみませんが、サインを戴けませんか?」
……サイン?
すると金月が紙袋から新品のボールを取り出し、差し出して来た。いつの間に用意したのか絵本の手には油性ペンがある。ご丁寧にもキャップを外した状態で。
断る理由もないので受け取ったボールに油性ペンを走らせている最中に気づく。昨日のアレはサインボール集めだったのか、と。
コイツはプロの恰好をした野球少年なのか?
満面の笑みでサインしたボールを半紙でくるみ……って、半紙まで用意しているとは周到だな、驚くよりも呆れたぞ流石に!
有難うございました、と90度に腰を曲げて一礼する絵本と、その後ろで苦笑いしている金月。
何とも変わった凸凹コンビだなと思っていたら、不意に凸の方の顔が強張った。
どうしたのかと視線を右に動かせば其処には、私がいうのもどうかと思うが、入団時に色々と物議を醸した男が立っている。
ギャラクシーズの本来のエースナンバー、18番を背負った男、草尾真澄。
新人だった去年と違い、今年は前半だけでハーラートップの12勝を挙げているのだから、当然の如くオールスターの一員に選ばれている。
金月もまた選ばれているのだから二人がグラウンドで顔を合わせるのも、また当然だ。
しかし二人の入団の経緯を知っていれば、その顔合わせが実に宜しくないのも当然な訳で……。
気まずい、非常に気まずい。どうして当事者じゃないのに気まずい思いをしなければならないんだ?
……そろそろブルペンで……そうだ、投球練習でもするとしよう!
後はさりげなくこの場を離れられれば……。
カラカラに乾いた喉が変な音を立てないように気をつけながら動き出そうとした瞬間だった、場違いな明るい声が鼓膜に届いたのは。
「久しぶりだな、草尾。丁度良いや、サイン頂戴♪」
はぁ!?
馬鹿じゃないか、馬鹿なのか、コイツは!?
呆気に取られたのは私だけではなく、金月も草尾もポカンとしていた。
いそいそと紙袋から新しいボールを取り出した凹の方、絵本が油性ペンを差し出せば、機械的な動作でサインをする草尾。
やはりそれを半紙で大切にくるむと、絵本は棒立ちの金月から引っ手繰るように奪い取った紙袋に仕舞い込むや、何故か先ほどよりも笑みを大きくした。
「キンタロー、いいたいことがあるんやったら、いうたらどないや?」
……何を考えているんだ、コイツは?
火に油を注ぎたいだけの愉快犯なのか?
動くに動けぬ私を巻き込まないで欲しいんだけどな!
「おい、草尾」
「何だ?」
「いつ投げるんや」
「……多分、明日」
「ほんなら明日、ワシと勝負しろや」
「……判った」
「逃げんなよ」
「……ああ」
これは任侠映画のワンシーンか、それとも巌流島的な何かなのか?
刻々と変わる状況に理解が追いつかないが、それは私の能力不足の所為じゃないだろう。
身軽になった金月がフンッと鼻息を鳴らすや、大股で立ち去って行く。
決定的な瞬間を見せられた、といっていいのか判断に悩むが、そもそも私が見る必要性があったのか?
突然に貰っても困るプレゼントを渡された気分を持て余していたら、更に困惑する言葉を聞かされる羽目となる。
「すまんな、草尾。面倒やとは思うけど明日は勝負したってくれや。それでアイツも気が済むやろう」
「……ストレートの真っ向勝負をすればいいんですかね?」
「いや、真っ向勝負やのうて、真剣勝負で頼むわ」
「……ストレートじゃなくて良いんですか?」
「ストレートで抑えられる自信があるんやったら別にエエけど……自信あるんか?」
「内角高目だったら抑えられると思いますけど」
「ほな、それで」
「良いんですか、金月が得意としている外角じゃなくて」
「エエねんエエねん、真剣勝負やねんから。絶対に打たれへんトコをズバッと突いて、キリキリ舞いさせたれ」
「……チームメイトでしょ、絵本さん」
「うん、大事な後輩やけど、キンタローはバッターで、俺はピッチャーなんや。
それにな、プロのピッチャーは勝負するなら真剣勝負やないとアカン。
真っ向勝負をするんは気持ちエエけど、負けたら一生舐められんで、そんなん嫌やろ?」
「……そうですね」
「ほな、宜しく!」
お騒がせしました、と再び深々と頭を下げてから小走りに駆けて行く絵本を何となく見送りながら、私は草尾に問いかけた。
「草尾は絵本と顔馴染みだったのか?」
「ええ、まぁ……高校時代の練習試合の時に、確か一度だけ会話したことがあったような」
「それは顔馴染みとはいえないなぁ」
「ですよねぇ」
奇天烈なコントを見せられたような妙な気分を振り払えぬままに時は過ぎ、試合が始まる。
幸いにして投球には影響せず、私の先発登板は三回を1安打無失点であった。しかし後続が12安打2ホーマーを許し、昨日に続き連敗してしまったが。
移動日を挟み、第三戦の舞台は甲子苑球場。
全国の多くのファンに選ばれたのに一つも勝てませんでしたでは申し訳ないと、全エのベンチは試合開始前から燃えていた。
特に燃えていたのは、必勝を期して先発を託された草尾だっただろう。初回から飛ばしに飛ばして三者連続三振を奪ったのだから。
特に、三番バッターの金月との勝負は圧巻であった。
速球にだけ狙いを絞っていた金月を嘲笑うようにカーブの連投で2ストライクと追い込み、内角高目をズバッと突いた速球で三球三振に斬って取ったのだ。
スタンドに詰めかけたファンの誰もが待ち望んでいた対戦。
且て、方やチームのエースとして、方やチームの主砲として、この甲子苑を幾度も沸かせた二人の高校球児がチームを違え、宿命のライバルとして戦うのだ。
盛り上がらない方が可笑しいというもの。
そんなビッグイベントがたったの三球で終わってしまったのに、スタンドの何割かは肩透かしを食らったみたいだが、それでも十分に見応えのある勝負であった。
任された3イニングをパーフェクトに抑えた今日の草尾は、金月よりも千両役者であったように思う。
四回から登板したキャナルの家弓和久も草尾に負けじと気迫の投球で、オール・ワイルドの強打者達を捻じ伏せる。
一方で相手の先発である阪南ブルズの天野秀幸も、新人王候補の呼び声に相応しいピッチングであった。
天野の後を受けた神戸ブレイザーズの山田之彦は少しフラフラとした感じであったが、長身から投げ下ろすボールで要所を締めて失点を許さない。
五回終了の時点でスコアボードに並ぶのはゼロばかり。
このまま1点を争う展開になるのかと思いきや、両軍共に三人目の投手の出来がいまいちで、六回からは一転して乱打戦となってしまった。
ドルフィンズの菅田孝政が4点を失えば、ハリアーズの山崎和宏も4点を吐き出す。
七回に登板したサンダースの夏八木清起が二者連続でホームランを浴びれば、初戦に投げた疲れが抜けきらないハリアーズの藤谷も2ランを献上する始末。
八回はギャラクシーズの風間義隆がソロアーチの1失点で切り抜けたので、さぁ一打同点、あわよくば逆転しようぜと私達はリーグを代表する主砲を盛大な拍手で送り出す。
だが、其処に立ちはだかったのが小さな精密機械、絵本であった。
四番打者、サンダースのグレッグ・バーガー。五番打者は途中出場の、キャナルの肝付祥雄さん。期待の二人があっという間に討ち取られる。
次はキャナルの滝口光男だから万事休す、最終回に望みをかけるかと思ったところで、代打に指名されたスターズの山谷幸雄さんが三球目を叩いて出塁する。
更に途中出場の松野が起死回生のセーフティバントでチャンスを広げた。
ヤンヤヤンヤの大騒ぎとなった全エのベンチ。打順は八番ながら打者は途中出場の、キャナルの小杉毅彦。
一発が出れば大逆転の大一番の対決にベンチの誰もが声を張り上げる中、最も大声を発しているのはキャナルの面々だ。
滝口を中心として、家弓に辻谷恒美に山形隆造に肝付さん、普段は控えめな塩屋耕三や大林までもが口々に叫ぶ内容を集約すれば、“去年の借りを返せ!”だった。
どうやら絵本に日本シリーズで手酷くやられたらしい。
「此処で打ったら、M・V・P!」
小杉と同世代の夏八木が一際はしゃいだ声で囃し立てれば、増岡さんが即座に同調し、更にドルフィンズの内田勝と横浜ウィザーズの佐藤明夫も唱和する。
いつしかベンチからの声援は“M・V・P!”の三文字だけとなった。
普段は敵味方に分かれて意地と意地とのぶつかり合いを繰り広げる者同士ではあるが、リーグの誇りを賭けて肩を並べれば呉越同舟となる。
今シーズンの優勝を掴む為に蹴散らさねばならぬ強敵のキャナル。その若き大砲を、両手を振り上げて熱心に応援する長谷や塩沢利夫の姿を見るにつけ、過去のオールスターのことを思い出してしまう。
監督推薦で出場した三年前のマウンド。八人連続で三振を奪い、九人目としてブルズの大原大二郎を迎えた時も、私はこんな感じの声援を受けていたのだろうか。
今となっては思い出せやしないが、きっとそうであったに違いない。そう信じる。
私達は敵であるが味方でもあるのだから。個人の成績で鎬を削りつつも、チームを組んで争う者達なのだから。
泥に塗れながら体を鍛え、血の汗を流しながら真剣にプレイするのが本分であり、生き甲斐とする人間達なのだから。
……出来ることなら、来年もこのベンチにいたいものだ。来年のオールスター戦が何処の球場で行われるのかは知らないが。
そんな感慨に耽っていた間に、グラウンドの一騎打ちは残念な形で決着してしまった。
力み過ぎたのか、声援によるプレッシャーに負けたのか、目一杯振られた小杉のバットは普段よりもアッパースイング気味。アレでは打てない。
打ち損じた打球は転々と絵本の前に。そして無情にも一塁を守る金月に転送され、ビッグチャンスはあえなく潰えてしまった。
一転して落胆の空気に支配される全エのベンチ内。私も皆と一緒に溜息を吐く。
意気揚々と足取り軽くベンチへと帰還する全ワの選手達の中ほどで、ピンチを切り抜けた凸凹コンビが笑顔で握手をしていた。
ああそういえば、金月が今日のMVP候補の最右翼だったな。
一打席目は草尾との対決に屈したものの、その後の打席で鬱憤を晴らすかのような特大のホームランをレフトスタンドへと叩き込んでいたからなぁ。
風間に浴びせた本塁打は、このままだと決勝点になりそうな塩梅だった。
それにしても何とも掴みどころのない投手だな、絵本という選手は。一筋縄ではいかないというか。
敵である草尾に金月退治を依頼した時は、何を考えているのかと吃驚したが……アレはもしかしたら金月を慮ってのことだったのかもしれない。
望んでも叶わなかったギャラクシーズのユニフォーム、それを着ている草尾へ過度の敵愾心を抱き頭に血が上り過ぎていた金月へのショック療法的な。
考え過ぎだろうか?
いや、折笠さんの発言を勘案すればそうともいえない。
著名な将棋打ちのように、目先のことに捉われない長期的視野で行動しているのかも。
だとすれば、そら恐ろしい若者だ。
言動のちぐはぐさには些か首を傾げるが……修羅場を潜り抜ける力量を備えたプロフェッショナルであると記憶すべき人物か。
だけどなぁ……出場選手のみならず、取材に訪れた球界OBや女子アナウンサーにまでサインを強請っていたのはどうかと思うぞ。
日本初の女性スポーツキャスターって触れ込みの板野ケイ嬢は美人さんだから、気持ちは判らないでもないけどな。
初戦を再現するように最終回を牛山が無難に抑えたことで、プロ野球の華やかな宴は全ワの三連勝で幕を閉じた。
その三日後、シーズンが再開する。
後半戦最初の試合。サンダースの本拠地に乗り込んだギャラクシーズは優勝戦線の独走を目論見、先発にエースの江守卓を立てたのだが、非常事態に見舞われた。
右肩の違和感を訴えたからだ。
深刻な症状ではないにしろ楽観視は出来ず、降板やむなしとなったのである。
江守はすぐさま医務室で専属医の簡易検査を受ける。検査結果は、二軍にて暫くの休養させるべき、であった。
しかしオーナー命令で今季の優勝を義務付けられていた球団首脳の判断は、一軍に帯同させながらの様子見となる。
貴重な先発要員である江守の存在なくしては、優勝は達成出来ぬと考えたからである。江守もまた登録抹消しての二軍行きを望まなかった所為もあったが。
四回2失点でエースが途中降板を余儀なくされた後、二年前の日本一など忘れてしまったかのように低迷するサンダースに、9対1とまさかの大敗を喫する。
八月は負け先行となってしまったが、それはいわば優勝旗を掴む為に与えられた試練であると、ギャラクシーズは容認するしかなかった。
苦戦するギャラクシーズとは対照的に、レイカーズの独走態勢は盤石である。強力な投手陣を擁しているのだから、当然だといえよう。
当に順風満帆であるにも関わらず、根谷球団管理部長の顔は何故か険しく、眉尻に刻まれた皺は極めて深い。
部下のみならず家族でさえ気易く声をかけるのを憚るほど、怒気を露わにし続けていた。
強面ながら至ってフレンドリーな人物である根谷が、まるで別人のように他者を寄せつけぬ空気を醸し出したのは七月の末、自宅へ呼び出した若手二人を帰らせてからである。
より正しくは、光一郎との対面を終えてからだった。
後半戦開始直前、根谷は森山へ直々にひとつの命令を下す。光一郎を二軍に落とせ、と。
前半戦に上々の結果を出し、オールスター戦でも全ワの勝利に貢献した投手を登録抹消にしろとは、しかも指示あるまで昇格を許さずとは、どんな逆鱗に触れたのだろうか?
森山はチームを指揮する監督という立場であれど、管理部長である根谷の発言に逆らうことなど出来やしない。
根谷の上には球団社長や代表がいるものの、実質的に埼玉レイカーズの全権を掌握しているのは根谷なのだから。
咥えたパイプから噴煙の如く紫煙を吹き、歩く活火山と化した根谷に物言える者がいるとすればオーナーの佃義明ただひとり。しかし佃はこと球団に関しては全て根谷に一任であった。
森山の本音としては、いざとなれば頼りになる投手を一人でも多く常時ブルペンに置いておきたかったが、上司の厳命とあれば逆らえやしない。
渋々ながら二軍行きを通達する森山に対し、然も当然といった顔で従容と受け入れる光一郎。
さっさと荷物を纏める光一郎に、金月や小野寺だけではなく一軍の誰もが慰めの言葉をかけた。
だが “秋になったら戻って来ますから”という返事を残して去って行くその後ろ姿に、慰めの言葉を口にした全員が頼もしさを感じると同時に疑問を抱く。
“どうしてそんなに自信満々なんだ?”と。
さて、レイカーズが後半戦開始直後から五連勝を果たしても解消されなかった根谷の不機嫌が、一転したのは8月9日のことであった。
名古屋市のナカガワ球場で行われた、ドルフィンズ対ギャラクシーズの試合中継を自宅のテレビで観戦し終えた直後、根谷の額から深く刻まれた皺が一瞬にして消滅する。
代わってその強面に浮かんだのは困惑の色であった。
「……アイツは本当に、未来を見通す予言者だったっていうのか……」
火の消えたパイプを盛んに吹かしながら腕を組み、低い声で唸り出す根谷。
その唸り声は、テレビ画面がザリザリと砂嵐のような白黒映像を流し出しても止まず、偉大なプロ野球記録が達成されたことを報じる新聞記事を目にするまで、口から発せられ続けたのだった。
連勝でロケットスタートするチーム、連敗でいきなりドツボのチーム。
開幕早々に飛躍する新人、期待外れの烙印を早くも押される選手。
今年も悲喜交々のシーズンになりそうで。
因みに私の「今の」予想は、①M②Bu③L④E⑤H⑥F、です。