入団3年目「『おもちゃのチャチャチャ』という童謡がある」Cメロ
次回はもう少し早く投稿しようと、思って数年。思うだけでは世界は変わらないもので。
早く、停戦・終戦となりますようにと願う今宵です。
趣味に没頭するも読書に耽溺するも、平和であってこそですから。
戦争など、史書か物語の中だけで十分ですから。
誤字・誤表記を訂正し一部加筆致しました。御指摘に感謝を!(2022.03.01)
「……虚偽記載に……御同道願い……」
会合へと向かう車中でハッと目を覚ました男は、口の中でまたかと呟いた。
僅かに霞む目で前方を見遣れば、運転手も助手席の秘書も後部座席に独り座す男が転寝していたことに気づいた様子はない。
眉根を揉みしだきながらそっと溜息をつき、男は膝の上の書類に目を落とす。だが集中力を欠いた意識は、再びあらぬ方へと引っ張られる。
転寝の度に見てしまう、悪夢の方へと。
朝の目覚めの際にはほぼ忘れてしまう程度の他愛のない内容の夢とは異なり、胸にしこりが重たく残る悪夢。
転寝の際に夢を見ることは以前からあった。しかしそれは目覚めと共に晴れがましい気持ちになるようなものであった。で、あったのだ。
それがいつしか高い所から引きずり降ろされるような気分になるものに変わってしまったのである。
しかもそれは、自分自身の行いの結果であるという自覚付きで。
よくいえばロマンスグレー、悪くいえばすっかりと色が抜けきってしまった白髪頭、衰えて弛んだ顔には無数のシミが散らばり、張りのなくなった手は皺だらけ。
こんな筈ではなかったと後悔の念に苛まれる背の曲がった男の姿に、飛ぶ鳥を落とす勢いであった往年の威勢の良さは微塵も感じられない。
そんな老いぼれた存在が自分であると理解させられるのが、男のみる悪夢であった。
たかが夢、ただの夢だと己に言い聞かせるも、見てしまう夢はまるでドキュメンタリーのよう。それが男の心に微かな不安を抱かせる。
そんな心境ではまともな思考が出来る筈もないと、書類を傍らに置き、男は車窓越しに街の風景へと視線を移した。
其処彼処で古いビルが解体され、新しい高層ビルが建築されつつある街、東京都新宿区。
とりわけ大掛かりな物は、来年の春に着工開始予定の新都庁舎であろう。老朽化著しい千代田区丸の内から脱却し、新宿副都心計画の目玉となる超高層ビル。
男がこれから出席する会合は、新宿副都心計画についての都知事主催の諮問会議であった。
出席する理由は、男がトップを務めるグループの傘下企業の一つが、新宿を拠点としているからだ。
好景気の時世によって大きく変容しつつある街並みは、男が率いるグループにも明るいものをもたらすに相違ない。
だが不意に日差しが陰っただけで空は色を失い、車窓に映る己の顔が土気色に褪せて見えた。
華やかである筈の近未来が一瞬でモノトーンになってしまったことに、男の胸中が激しくざわつく。
果たして十数年後に完成する予定の副都心を、自分は見ることが出来るのだろうか、と。
もしも私が自叙伝を書いたとすれば、起伏も少なく平々凡々な一般人の生涯を綴った物となるだろう。特に書くこと無しばかりでページを埋める日記の様に。
そんな面白みに欠ける物語の主人公である私の生き方は、昨年の選挙で当選した現役の漫才師が掲げたスローガンみたいなものか。
“百年先は見えないけれど、目先の一歩をコツコツと”。
私がこれまでコツコツとしてきたものは勉強、特に算数であろうか。
数学でも物理学でもなく、算数であるのが如何にも私らしいと思う。
自画自賛するほどの成績を残せた訳ではないが、それなりの成果を上げられた御蔭で国立大学に進学し、卒業後は関西でも有数の銀行に勤める事が出来た。
電卓での計算が苦行よりも楽しみごとであった私は行内で、同僚よりも“数字に強い”と評価され、早々に融資業務に就かされた。
とはいっても、先輩や上司の供をして得意先を回り、先輩や上司が取り纏めた融資を数字に変換する作業担当としてだ。
対話能力が秀でていた訳ではない私にとり、ひとりで営業するよりもそれは天職であったといえよう。
花形ではなく裏方として誰かを支える仕事は、とてもやりがいのある仕事だと思っていたからである。
大口の契約を纏めて昇格する同僚を見ても、特に羨ましいと感じなかったのは自分自身の得意分野を理解し、高望みをする性格でなかった所為もある。
一部の者達が私のことを“使い勝手の良い便利屋”扱いしていることも知っていたが、気にもしなかった。
真面目に働けば確実に昇給し、残業をしてもキチンと残業代を受け取れるのだ、何の文句があるのだろうか?
私は毎日、決まった時間に起きて出勤し、その日の業務を終えたら帰宅する。
時々、気の合った仲間と夜の街へと繰り出しもするし、接待ゴルフへも数合わせで顔を出すこともあったが、基本的には8時出勤21時帰宅を繰り返す日々を過ごしていた。
私の人生における最初の起伏は、妻と結婚して家庭を持ったことだろう。
上司の薦めで見合いをした相手は大阪市内で幾つものマンション経営をしている、上流未満の資産家のお嬢さんであった。
京都の美術大学を卒業後は実家にて家事手伝いをしていた妻であったが、義母の躾が行き届いていて家事全般が得意という触れ込みである。
事実、結婚してからも炊事洗濯などの家事は十分に満足出来るものであった。
しかも良い所のお嬢さんにしては贅沢したがる性格でもなく、中堅サラリーマン宅の奥さんの立場に満足しているようである。
趣味は気が向けば美術館や博物館やクラシックコンサートへ行く程度のもので、偶に学生時代の友人と一泊旅行に出かけるくらい。
近所迷惑になるような夫婦喧嘩をするでもなく、家庭内離婚のような無関心でもなく、お互いにそれなりの敬意と愛情で接する、実にありきたりな家庭を築けたのは望外の幸せであったのかもしれない。
私の人生における次の起伏、今にして思えば実に大きな起伏であったのは、子供が生まれたことであった。
功助と光惠の間に生まれたので光一郎と名付けた長男は身長48.7㎝、体重2928gという見事に平均的な体で此の世に誕生する。
親の贔屓目を抜けば、実に特徴のない目鼻立ちの我が息子。特徴らしい特徴は、大病をすることもなくスクスクと育ってくれたことだろう。
そんな息子が“ああ、私の息子なのだ”と実感させてくれたのは、四歳を過ぎた頃であった。
梅雨明けの日曜日、麗らかな午後のこと。
特に用のなかった私は、大阪郊外のベッドタウンにローンで購入した小さな一戸建ての我が家の書斎で、のんびりとしていた。
ふと目を向けたのはガラス戸の向こうにある我が家の小さな裏庭、そこには一心不乱にゴムボールを投げている息子の姿が。
お隣との境に巡らしたブロック塀に跳ね返されたボール、息子の小さい手で漸う掴める大きさのボールは数回弾んでから、息子の足元へと転がって来る。
息子はボールを拾うとまた投げて、を繰り返していた。
時々ボールの跳ね返る角度が変わり、小さい足をチョコチョコと動かして明後日へと転がったボールを拾いに行き、また元の場所へと戻って来るやコテンと首を傾げてから再び塀へと投げる。
数回に一度、離れた所へとボールを拾いに行き、元の場所へと戻って来るなり首を傾げる息子の姿は、何故か見ていて飽きなかった。
何をしているんですか、と妻が湯呑とコップを運んで来たのにも直ぐには気づかないほど、ずっと見入っていたようだ。壁の時計を確認すれば凡そ1時間も息子を見詰めていたらしい。
いや何でもない、そう答えた私は妻の淹れてくれた茶を啜る。妻はガラス戸を開けて息子を呼び寄せ、オレンジジュースを両手に持たせた。
「ボールがいうこときいてくれへん」
コクンとジュースを一口飲んだ息子が、足元に転がるボールを見詰めて不思議そうに呟き、何でやろう、という。
困ったボールさんね、と息子の頭を撫でる妻に向かい、息子は再度疑問を呈すが、妻に答えられるはずもなく困ったように微笑むのみ。
幼子ながらに埒が明かないと思ったのか、息子は私を真っ直ぐに見上げた。
息子が混じり気のない目で純粋な質問を呈するならば、相手が幼子だと無下になどせずキチンと答えてやるのが父親の務めであろう。
そう思った私は、真っ直ぐに向けられる視線を正面から受け止め、理解し易い言葉を探しながら答えを渡してやった。
「同じように投げていないからだろう」
「おなじように?」
「そうだ、ちょっと力が入ったり、ちょっと投げ方が違ったり、どこかがちょっと違うのだろう。
同じ投げ方で、同じ所に投げてごらん。
一回一回投げる度に、何が正しいかを考えながら投げてごらん」
「うん、わかった」
コップを妻へと返した息子は、ボールを拾い上げ、何事か考えてから徐にボールを塀へと投げた。そして転がって来たボールを拾い上げ、何事か考えてからまた投げる。
それからずっと日が暮れるまで、息子はボールを投げては拾い、拾っては投げるを繰り返していた。
翌日の夜、帰宅後に妻が可笑しそうに報告してくれるには、息子は保育所から帰るなり草臥れるまでずっとボール投げをしていたそうだ。
それは次の日も、そのまた次の日も、繰り返していたとのことで、流石にそれが三日も続くと妻も心配になったらしく、医者に見せた方が良いのだろうかと表情を暗くする。
だが私は、心配するな、とだけいった。何故なら、私の子供の頃にそっくりだったからだ。
子供の頃の私は、四則演算のドリルを毎日解き続けていたからだ。一冊まるまる解き終えたら全ての答えを消してまた一から解き始める、をしていたのだ。
親が新しいドリルを買ってくれるまで、私は同じドリルを飽きもせず解き続けたのである。
私は計算をコツコツとし続ける習性があったが、息子はボールを投げることをコツコツとし続けるのが習性なのだろう。
妻の心配を笑い飛ばした私であったが、全く心配がなかった訳ではない。ボールを投げること以外に興味を持たない、歪な性格になるのではという疑念があったからだ。
幸いにして、私の疑念は妻の心配と同等であった。
近所や保育所でも友達を作り、一緒に良く遊んでいると妻が話してくれたからである。どうやら私よりは社交的であるようだ。
保育士の先生のいうことを聞く素直な子で、家では妻の手伝いを率先して行っているとのこと。
妻がボール投げは一日1時間にしなさいといったら、それを守ってもいるそうだ。
小学生になると投げるボールが軟球になり、いつの間にやら地元の少年野球チームにも入会していた息子。
お弁当作りやチームの雑事の世話が大変だと妻が零していたが、元来の世話好きなのでそれが面倒事だとは思っていないようなので、私は金銭面での手伝いのみを行うように。
常に一定以上の職務を果たしていた私は、同僚からは遅れつつも昇給昇格をしており、休日も仕事で潰れることが多くなっていたのだから。
モーレツではないにしても私もまた、仕事第一主義のサラリーマンの一員だったのだ。
やがて平均身長よりも少し小柄な中学生になった息子は、当然のように野球部に入り、益々投げることに熱心となる。
すると三年生になって間もなく、大阪でもかなりの野球強豪校からスカウトがやって来るように。
甲子苑大会に幾度も出場経験のあるその学校は私立であったが特待生として迎えるので、入学試験の点数も入学金もそれなりに優遇するという。
財政面で困るような生活ではなかったが、優遇という打診が有難いのも確かである。
だがそれよりも、息子がコツコツと積み上げて来たものが全くの赤の他人に好意的に評価されたことが嬉しかったのだ。
私としては二つ返事で答えたいところであったが、評価の対象は私ではなく息子である。
先ずは息子の意志を確かめねばならない、これからも野球を続ける意志があるのか、と。
尋ねてみれば、これからもボールを投げ続けたいと、息子は逡巡することなく即答した。
あまりにもはっきりというので、私の方から二度も聞き返してしまったほどだ。念には念を入れて問いかけるも、息子の意志は変わらない。
そして一年後、息子は高校の野球部員専用の寮で寝起きをするようになった。
決して野球バカというタイプではなく、読書も好きでそれなりに勉強も出来た息子。
残念ながら野球部員として甲子苑大会に出場することは叶わなかったが、地方大会での活躍は万雷の拍手で讃えるべきものであった。
さてその後の進路はどうするのか、どこか野球の強い大学にでも進学するものだと思っていたら、まさかまさかドラフト会議で指名されるとは!
あの日、一心不乱にゴムボールを投げていた幼子が、プロ野球選手になるとは!
想像だにしていなかった事態に私も妻も狼狽えてしまったが、ドラフト指名後に帰って来た息子は平然と宣言する。
“今度は失敗せぇへんから、大丈夫や”と。
何が今度なのか皆目判らなかったが、自信満々な息子の態度で最初に立ち直ったのは妻の方であった。
“それなら大丈夫ね”と妻はいったが、何が大丈夫なのか私にはさっぱりである。
なるほど妻のいう通りだったな、と理解したのはその年の秋だった。
公称175㎝、実際には172.4㎝とプロ野球選手としては随分と小柄であるにも関わらず、サンダースの強打者達を相手に仁王立ちする息子。
今までにない雄姿を、妻と一緒に招待されたスタンドで私は呆然と見入ってしまった。エールを送るのも拍手をすることすら忘れてだ。
どうやって家に帰ったのかすら覚えていない。多分、妻がタクシーに乗せてくれたのだろう。
翌朝のテレビのニュースで息子のことがちらりと紹介されたので、ああ夢ではなかったのだと理解したのだったが。
その後の活躍はスポーツ新聞のベタ記事や、深夜のスポーツニュースで伝えるもので知るばかりであった。
何せ息子が入団したのは関東の球団、それもワイルド・リーグに属する埼玉レイカーズなのだ。
野球といえばエキサイト・リーグの大阪サンダースのことしか報じぬ大阪では、レイカーズのことなど、まともに報じてくれるはずもない。
況してや中継ぎ投手でしかない息子のことなど、詳しく知ろうにも手段がほとんどない現状の何とも歯がゆいことか。
しかしそれにしても、仕事上の雑談における話題の一つでしかなかったプロ野球がここまで日常に大きく関与してくるとは、人生とは判らぬものである。
仕事といえば、息子関連で大いに影響があった。いや、反響というべきであろうか。
レイカーズの親会社の配下にある関西のノーブルホテルや、江州交通の営業マンが、私を名指しで融資の依頼をしてくるようになったからだ。
基本的にデスクワークばかりであるのに大口契約を幾つも結んだことで、親の七光りならぬ息子の尻蛍などとも陰口を叩かれもしたが、私は有難くその恩恵を受けることにした。
誰のコネであろうが、それもまた実力の内だと理解していたからである。
親の力を借りて業績を伸ばすのと、何の違いがあるのだろうか?
但し閉口したのは、新たな取引相手となった営業マン達から、どのように息子さんを薫陶されたのか、と散々聞かれたことである。
どのようにも何も、私は息子を導きもしていないし、薫陶などした覚えもない。
それでもしつこく尋ねられるので仕方なく幼少期のエピソードを話すのだが、その度に“なるほど!”と勝手に合点されるのも不思議でしょうがない。
ドラフト会議の後から急に大人びたような息子の態度に、同年代よりも一足先に大人の階段に足をかけたのか、と安心と寂しさを感じていたのは確かだが……。
もしかしたら、それどころじゃない何かが埼玉であったのか?
そういえば偉そうに私の仕事に注文をつけたり、契約金という思わぬ大金の使い道をさっさと決めたり、あろうことかそれまで興味のそぶりも見せていなかった株式投資にも言及したり。
しかも株式投資はまるで先読みをしていたかのようにズバズバと当てて、高額配当を手にしていたな。
大学進学を選ばずプロ野球選手となったのにも関わらず、入団1年目は関東の大学の聴講生になったのを聞かされた時は、高卒という学歴に思うことがあったのかとも思ったが、どうもそうでもないらしい。
妻にいわせれば、“積極的ねェ、良かったじゃない”だった。
恐らくはそうなのだろう、心配する必要はないに違いない、多分。
そう思えども埼玉で寮生活をしている息子と、出張もままならぬほどに内勤が繁多になって来た私とでは、積もる話をする暇もない。
そのままズルズルと月日が経ち、気づけば息子は日本一の栄冠を担う一員にまで上り詰めていた。
私としては、良くぞそこまでコツコツと積み上げたものだ、と半ば呆れた感じで見上げる気分である。
広島キャナルを倒した後に一時帰宅をしてくれたが、その時は金月選手を、あのスーパールーキーの金月和博選手を伴っており、私は目をぱちくりとするしか出来ず仕舞いで。
二頭上腕筋がどうとか、脊柱起立筋がどうとかと謎の単語を立て板に水のように語ったかと思えば、“国鉄が分割民営化する影響で経済が大きく動くで”と言い出す息子に、妻は“あらあら大変ね”と返すのを黙って聞いているだけだった。
帰り際、“冷戦体制が、米ソの関係が大幅に変わるで”などと予言めいたことを言い残す息子に私がいえたのは、“そうか”の三文字だけである。
正月に帰って来た時こそ対話の機会を、と思ったのだが息子は御節料理と雑煮五杯を平らげるなり、“行って来る!”と何処かへと飛び出して行った。
妻に聞けば、高校時代の野球部仲間である戸松君の所へ行った、とのこと。
戸松君は確か、東京で大学生をやっているんじゃなかっただろうか?
そう問えば、妻は呑気に“それじゃあ東京に戻ったのかしら”というではないか。
微妙ながら絶妙に擦れ違ったまま春になると、息子の名がサンダースべったりの関西マスコミのスポーツコーナーでも何度か取り沙汰されるようになる。
何でも息子は現在、ある日本記録に挑戦中とかどうとか。
……どうして私も妻も、息子に関する重要案件を人づてに知らされるのだろうか?
親ならば、イの一番に知っていても良いことなのではなかろうか?
何故に教えてくれないのだ、息子よ。
だが待てよ、と不意に思ったのだが……もしかして息子は大した記録だと思っていなかったとか、そもそもそのような記録があること自体気づいていなかったのでは、と。
……ありうるな。
私の推論が正解かどうかの答え合わせの機会が訪れたのは六月末のこと。
何年振りかの出張先は東京であった。日帰りではなく三泊四日の予定であったので、息子に会えないかと連絡を取れば三泊目の夜ならばという。
その日は八連戦最終日の夜で、翌日は全体練習がないので一番都合が良いそうだ。
さて当日。出張案件で赴いた赤坂のノーブルホテルでの会合が終了したのは夜七時。さて息子との待ち合わせ迄どこで時間潰しをしようかと考えていたら、ノーブルホテルの担当者に“折角ですからナイター観戦をしませんか”といわれる。
有難い申し出に御礼をいえば直ぐにハイヤーが用意された。
担当者が一緒に行くのかと思っていたら別の者が同行するという。
はて同行者とはと首を傾げれば、相手は何とレイカーズの管理部長の根谷氏であった!
息子が入団する際に大変お世話になった御方である。
ハイヤーの中では当初恐縮しきりであったが、根谷氏の鷹揚な態度と如才ない話術の御蔭で、緊張感からは程なく解放された。
面白おかしく話される球界の裏話にすっかり引き込まれてしまった私は、問われるままに我が家の事情も詳らかに開陳する。
根谷氏との楽しい語らいは武蔵野球場に到着しても続けられた。
初めて入場した武蔵野球場で案内されたのは、まさかまさかのVIP席であった!
バックネット裏のガラス越しから見下ろしてのナイター観戦は、しがないサラリーマンには贅沢過ぎると遠慮すると、“貴方の息子さんには十分儲けさせて戴いているので”といわれる。
いえいえ、いやいやと少し遣り取りした後、私はビール片手に豪勢なソファーへと座らされた。
遥か向こうのバックスクリーンを見遣れば試合は六回表を終了して3対3の同点、ハイヤーの車内と同じく隣に越し掛けられた根谷氏がパイプに火を点けながら笑顔をみせる。
「良い日にお越しになられましたね。上手くいけば息子さんが大記録を達成するところが観られそうですね」
そういえば、息子の連続無四球記録は現在98イニングだったな。今夜に登板機会があり、それが2イニングならば通算100イニングとなる。
加算される数字が2でも、二桁が三桁になるのだ。当に桁違いの大記録だといえよう。
根谷氏の言葉で改めて息子の偉業を理解した私の手が微かに震える。半分も飲み干していなければ、ソファーに大きな染みを作っていたに違いない。
七回表、先発の増山博久投手が降板し、代わって場内放送で呼ばれたのは予想通り……希望通りに我が息子の名前だ。
思わず身を乗り出してしまった私の右手の中で、大きめの紙コップがグシャリと音を立てたような気がするが、それは些細なことであった。
「まぁ、こんなもんやわ」
ナイター終了後の午後11時過ぎ。深夜営業をしている球場傍の中華レストランで落ち合った息子の第一声は、実にサバサバしたものだった。
さてこんな時、男親としては息子にどう声をかけるのが正解なのだろうか。
残念だったな、か? よく頑張ったな、か?
悔しさよりも安堵したような表情に、私は迷うことなく後者を選ぶ。
「小学1年生時の担任の先生が仰った言葉をお前に贈ろう。“数字は嘘をつかない”。お前が積み上げた99イニングは誰も到達したことのない遥かな高みだ」
「……正確には、99イニング2/3、やけどな」
照れくさそうな顔をした息子はまるで子供の頃に戻ったように口を尖らせてから、小さい溜息と共に聞き捨てならぬことをいい出す。
「せやけどホッとしたわ、記録が止まってくれて」
「……どういうことだ?」
「いやな、個人記録ってな、チームに貢献出来るヤツと出来ひんヤツがあるねん。俺のは出来ひん……とまではいわんけど、チームの為にはなり難いタイプやってん」
「……すまん、私にはさっぱり判らん。四球を出さないのは良いことなのだろう?」
「基本的にはそうや。四球は出したらアカン。アカンねんけど出さなアカン時もあるねん。敬遠がそれや」
「敬遠か、なるほどな。つまりお前が記録を更新中は、ベンチが敬遠の指示を出せなかったということか」
「せや、理解早いな、親父」
「ついさっき、根谷管理部長に教えてもらったからな」
「管理部長と? 何でや?」
「いや、私にも判らんが……もしかしたら接待の延長だったのかもしれない」
「そうなん? まぁエエか。とまぁそんな訳で、俺としては記録が止まってホッとしてるんやわ。記録を気にして投げるんもしんどいし」
「そうか、素人には判らぬ苦労があるんだな」
「まぁな。親父の世界も同じやろう。給料もらう為に働く世界はどこも一緒なんと違うかな」
「かもしれんな。……ならば素人質問だが、お前が四球を与えた東京ファルコンズの九番打者、名前は何といったかな」
「高田幸雄選手やな」
「えらく投げ辛そうな感じだったが、体は細いしパワーもなさそうだったし、二死ランナー無しならば、あそこまで警戒する必要がないように思えたのだが」
「いやいやそれがそうでもないねん。今はキンタロー……金月と同じ二年目のペーペーやけどな、何れは二千本安打を放って天球会入りするような大打者になる……ような風格があるねん、多分何となくやけどそう感じたんやわ」
「ほう、そんなもんか。やはり素人には判らないものがあるのだな。
ところで、光一郎」
「うん、何?」
「お前、正月に会った時よりも体が大きくなったんじゃないか?」
「え、そんなことないやろ」
「いや、今日会って直ぐに思ってから何度も目測していたが、大きくなっているのに間違いない。上半身が少し、特に右手側の方が大きくなっている。
疑うなら後で計測してみると良い。私の目に狂いはない筈だ」
何故かビール臭い親父の右手に背を叩かれて健闘を称えられた翌日、球団マネジャーの手を借りて計測してみたら何と吃驚!
親父のいった通りに身長が伸びていた。2センチも!
上半身も細かく計測すれば左肩よりも右肩の方が僅かに盛り上がっており、腕の長さもやはり2センチの差があったのだ!
前世ではプロとして過ごした短い期間に身長の伸びは全くなく、引退後の打撃投手時代も腹回り以外は体格の変動がほとんどなかったので、今世でもそうだろうと思っていたのだが。
レイカーズ入団後に始めた効率的なトレーニングが、気づかぬ内に結果を出していたらしい。
道理でコントロールに狂いが出ていた訳だ。
打撃投手時代のイメージで投げても、ボールをリリースする場所がイメージからずれていれば、キャッチャーがミットを構える18.44メートル先では随分と変わる。
スローボール系であれば誤差の範囲だと思えるが、速球系だと誤差の範囲を超えてしまうのは自明の理となるのは当然か。
ああ良かった、ホッとした。
さっぱり判らなかったコントロールミスの原因がやっと判ったのだ、これを喜ばずして何としよう。
……まさか親父に指摘されるとは思いも寄らぬことではあったけれど。
さぁ、これでコントロールを調整出来るぜ。だが一軍では難しいな。
うーむ、ならば二軍に落としてもらうとするか。
どうせ来月になればオールスターがあるし、その所為で日程の都合上今よりも登板機会が減るのは確実だし。
来月早々にでも直訴して、二軍行きを命じてもらうとしよう。
そう考えた俺は早速、弥永荘六投手コーチに申し出た。
“先発陣が充実している今、出来れば二軍で調整させてもらえませんか?”と。
決して登板機会が少ないから、などと首脳陣批判に繋がりそうな単語は極力排除してである。
ところが弥永コーチの返答は芳しいものではなかった。
理由は“一軍ブルペンで一番成績が良いのがお前だ”だったからで。
確かに先発陣が滅多矢鱈と完投してくれる御蔭で、中継ぎ陣は相変わらずの開店休業を余儀なくされ、登板機会が減った結果として中継ぎ要員は軒並み実戦勘に狂いが生じているのは事実。
そんな中継ぎ陣の中で、連続記録の為に俺の成績が一番良いのも弥永コーチのいう通りであるのもまた事実だった。
さて困ったな。仕方がない、取り敢えず応急処置として自主練習とブルペン投球での球数を増やすとしよう。
後は、どうせ選ばれる訳がないオールスター戦とその前後の休みを利用して、何か工夫をするしかないか。
そう思いながら過ごした七月は実に苦しいものだった。
数少ない限られた登板機会を最大限に活用しつつ、練習の時間を倍にする。
但し投球数は過度にしない。投げなければ練習にならないが、投げ過ぎれば肩に負担がかかり過ぎて怪我を招いてしまう。
そこは前世の知識で補った。ボールを投げないで行うスローイングの練習を増やすことで。
更に預金を下ろして20万もの大枚をはたいて購入した、発売されて間もない8ミリビデオカメラで投球フォームを前と左右から撮影し、ビデオテープが擦り切れるほどに再生しては寝る前に頭へと今の姿を叩き込む。夢でうなされるほどに毎晩観返した。
以前のイメージを記憶から完全消去するのは困難であったが、上書きしなければ引退の二文字が押っ取り刀でやって来るのだから必死も必死である。
そして実戦登板の際には、前世も含めたこれまでの人生でもしたことのないレベルの精神集中を行うことにした。常に一球入魂だ。
肩を壊す前に頭がいかれるんじゃないかと思うくらいの意識で、俺はキャッチャーミットへとボールを投げた。丁寧に、大切に、無駄球はゼロで、力まず、根性に頼らず、気合を込めて。
だからお願いだ、パンクする前に早くオールスター休みを!
などと心底願っていた七月の半ば過ぎ、試合前のランニングを終えた俺の元に森山祇晶監督がいつも以上に重そうな空気を背負って近づいて来た。
何をいわれるのだろう、まさか先の申し出が首脳陣批判だと受け取られてしまったのか?
身構えた俺に、森山監督はぼそりと告げる。
「ガメが肉離れを起こした」
え、笠原永時選手が!?
「折角ファン投票で選ばれていたのにな。無理はさせられん」
そうですね、ガメさんには日本シリーズで活躍してもらわないといけませんからね。肉離れは選手生命に直結しますから無理は禁物。欠場はやむなしでしょうね。
「他所の外野手に出てもらおうとも思ったんだが……良い選定が出来ずに困っている」
なるほど、ワ・リーグ代表監督は大変ですね。
「ウチの不始末を他所に押しつけるのもどうかと思ってな」
他所には他所の都合がありますからね。本当にお疲れ様です。
「そこでだ、代わりにお前を推薦することにした」
え!?
「以上だ」
ええッ!?
先ごろ完結しましたが、nama様の『いいご身分だな。俺にくれよ。』https://ncode.syosetu.com/n9350eg/ は面白かったです。最終話でタイトル回収する鮮やかさに脱帽です。
甘岸久弥様が連載中の『魔導具師ダリヤはうつむかない』https://ncode.syosetu.com/n7787eq/ と書き下ろしで出版の『服飾師ルチアはあきらめない』も面白い! コミカライズも最高です。
何れも一気読みしちゃいましたよ、先月から。
未読の御方様は是非御拝読あれかし。