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栄冠は地味に輝く  作者: wildcats3
14/21

入団3年目「『おもちゃのチャチャチャ』という童謡がある」序奏

 お待たせ致しました。ネタはあれど、それを文章化する能力の劣化で投稿に時間がかかってしまいました。誠に申し訳無しです(平身低頭)。

 さて今日の午後は、今年のドラフト会議。何処が誰を指名するのか、今から楽しみです。

 競合したら絶対に当たりクジ引いておくれよ、ライオンズ!

 誤字誤表記脱字の御報告に感謝申し上げます(平身低頭)(2021.10.13)。

 『おもちゃのチャチャチャ』という童謡がある。

 元は昭和34年(1959年)に放送のとある大人向けのバラエティ番組の企画で作られた、使い捨て予定の一曲であった。

 その後、とあるラジオ番組で男性ボーカルグループが歌い上げた事が切っ掛けとなり歌詞を全面的にリニューアル。そして公共放送の子供向け歌番組で使用され、現在に至る。

 更に付け加えれば、“チャチャチャ”とは本来、50年代にキューバで誕生したマンボを母体としたリズムの一つであり、曲名からして日本的な要素は欠片もない。

 以上の経緯を鑑みれば、童謡の名曲とするには些か相応しくないのかもしれないが、何でもアリが当たり前を是とする日本では何ら問題無しなのだろう。

 しかし、本当に何でもアリなのか、といえばそうではないのが日本の現状である。

 例えば球界であれば“プロアマの垣根”なるものが、そうであった。



 さて“プロアマの垣根”を理解するには日本における野球の歴史を知っておく必要があるだろう。


 黎明は明治4年(1871年)、米国人教師による。東京大学の前身である東京開成学校で日本の野球は産声を上げたのだ。

 高等教育(=現・大学教育)を受ける学生と余程に親和性があったらしく、最初は“打球おにごっこ”なる名称がつけられた新規の球技“ベースボール”は瞬く間に全国へ広がる。

 明治27年(1894年)、中馬庚氏によりベースボールは“野球”と翻訳され、俳人の正岡子規が用語の多くを翻訳した事もその一助となった。

 因みに子規が訳した用語には“打者”(バッター)“走者”(ランナー)“四球”(フォアボール)“直球”(ストレート)などがある。

 明治の終わり頃にはとある全国紙が野球人気を非難する姿勢を示すが、ライバルの全国紙が擁護の論陣を張った事で、野球のネガティブ・イメージは沈静化した。

 尤も、非難的立場であった全国紙は、大正4年(1915年)に始まった全国高等学校野球選手権大会(=開催当初は、全国中等学校優勝野球大会)の主催をするのだから野球人気恐るべし、といったところであろうか。

 昭和2年(1927年)には、全国の名立たる企業が所有するクラブチームによる都市対抗野球大会、所謂“社会人野球”もスタートした。

 つまりというか当然というか野球は元々、アマチュアスポーツとして始まったのである。

 現在に繋がるプロリーグの発足は昭和11年(1936年)、日本職業野球連盟の設立を待たねばならなかった。


 アマチュアスポーツがそれだけで完結する世界であるのに対し、プロスポーツはアマチュアから選手の供給を受けなければ成立し得ない。

 力関係は、プロ野球発足時はアマチュアの方が上であったのだ。

 天皇が最初に野球を天覧されたのが首都圏での大学野球リーグの人気カードであった事でも判るように、野球の花形人気は大学生のリーグ戦であり、地方での人気は高校野球か都市対抗だったのだ。

 だが野球が趣味の延長だけではなく、給与の伴う職業として成立するという認識が広まるにつれて、力関係も少しずつ変化する。

 アマチュアがプロのへの選手供給源でありプロを引退した選手の受け皿となるといった協力関係は、やがて主にプロ側の事情で破綻を来した。

 昭和40年(1965年)にドラフト制度が成立するよりも以前、プロ野球は好きな時に選手のスカウトが出来たのだ。

 だが例えばそれが大会期間中であった場合、突然に選手を引き抜かれるアマチュア側は堪ったものではない。

 それ故にスカウトは大会終了まで出来ないといった協定は既に存在した。プロによる一方的な搾取を止める手段は講じられていたのだ。

 だが、引退選手が社会人チームに入部する事でアマチュアの出場機会を奪う懸念を払拭する対策は存在していなかった。

 プロOBの社会人野球登録に制限をかける規約を協定に追加しようとアマチュア側が提案したのは当然の措置だが、プロ側は拒絶。これにより協定が破棄されるに至る。

 そんな無協定状態の中で、とあるチームがひとりの社会人選手と契約した事をアマチュア側は問題視した。所謂“Y事件”だ。

 昭和36年(1961年)、社会人野球の理事会は緊急会議を行い、プロと断絶する声明を発表。高校と大学の学生球界もこれに同調し、ここにプロとアマの関係が断絶する。

 最初は断絶であったが、やがてそれは垣根へと変わる。

 無交流という越えられぬ溝が時間の経過と共に条件さえクリアすれば越えられるモノへとなったのだ。

 垣根越しながらの交流再開は、昭和48年(1973年)の大学野球界の条件付き指導許可から始まり、続いて昭和59年(1984年)の高校球界が条件付き指導者受け入れ制度を制定する。

 元プロによる指導を希求する学生球界と異なり、社会人球界は実害を被った過去の経緯から中々に頑なな態度を崩そうとはしなかった。

 理由の一つとして昭和59年のオリンピック、ロサンゼルス大会で公開競技ながら種目に野球が復活した事がある。

 オリンピックに出場出来るのは、アマチュア選手だけだったからだ。

 正式種目となったのは平成4年(1992年)のバルセロナ大会からであったが、新しい目標を得て意気上がるアマチュア球界。

 しかしオリンピック委員会がプロの参加を認めるようになると、社会人球界も考えを改めざるを得なくなる。

 90年代とは、日本国内にプロサッカーリーグが誕生した事と、とあるプロ選手が海を渡りメジャーリーグで一世風靡した事が、プロアマを問わず球界全体に危機感を覚えさせた時期であった。

 プロアマ双方が歩み寄り、段階的に垣根は低くなる。

 様々な努力の積み重ねの上、平成6年(1994年)に漸く日本で初めてとなる球界を統一する横断的組織の全日本野球会議が発足。

 更に平成22年(2010年)に学生野球憲章が60年ぶりに全面改正され、条件さえクリアすれば練習会や講習会のみならず、交流試合さえ開催出来るようになったのだ。


 一定の条件付きとはいえ2000年代の球界は随分と風通しが良くなったのだが、野球人生のやり直しに邁進する絵本光一郎の現在、つまり80年代は、プロとアマチュアの間の垣根は未だ遥かに高いままであった。



 生まれ変わって早や2年。

 振り返るには短すぎるような気がするが、一度総括しておこうと思い立ったのは寮長に怒られ、罰として金月和博ことキンタローと二人して便所掃除をしている真っ最中。

 学生でもあるまいし何でこんな事をと不平を漏らそうとしたら、球団の管理部に連絡したら相当な額の罰金を含めたペナルティ処分になると思うが、と睨まれた。

 なので俺もキンタローも“喜んで掃除致します”以外の返事は出来やしない。

 更に“黙ってやれ”との有難い訓示も賜ったので黙々と便器を洗い流していたのだが、ただ掃除するのも能がないなと思った俺は、これまでの来し方を点検しようとした次第である。

 レイカーズに入団して最初の一年は、前世での失敗を改める最適解は何かと模索するのにジタバタしっ放しであった。

 まだまだ不安は多いけれどどうやら方向性が定まったなと思ったら、今度は森山監督直々の命令でキンタローの面倒を見なければならなくなる。

 それは俺としても望むとこでもあったので僭越ながらと、ダメ元で強制改造……ではなく矯正を主目的にした育成プランを進言してやった。

 仮に通らなくともこっちで勝手にやれば良いかと考えていたら、あっさり通ってしまったのには驚いたけどな!

 ならば提案した通りにキッチリと仕上げて見せましょう、序でに自分のトレーニングもプラスアルファさせて戴きましょう、とあくせくした二年目。

 下手して潰してしまったらどうしよう、などと少しは心配もしたけれど。

 キンタローは史実通り、いや史実以上の活躍をしてくれたので何とか面目を保つ事が出来たのには正直、ホッとした。

 感謝すべきは俺の僭越を許してくれた森山監督と大輝コーチ、それに怪我せず一年を全うしてくれたキンタローの体と才能だな。

 本人に感謝しないのは、子供っぽさが全然抜け切らない精神性が理由である。

 早く俺を見習って大人になれよ。尤も俺は見た目がティーンエイジャー、中身は中年後期だがな!

 ……ガキだと断定する奴と一緒に便所掃除処分を受けている時点で、俺の大人っぽさもたかが知れているのかも。はっはっはっは、笑えねぇな、全く。

 まぁしかし、一先ずこれで安心だよな?

 やれやれ肩の荷が下りた気分だぜ……と思った途端、胸の中の引っ掛かりが疼き出した。同時に前世の記憶が、不意討ちで蘇ってきやがった。

 水商売の経営が漸く軌道に乗り出した頃の、とある夜の記憶が……。



 ちょっとすかした言い方をすれば、あれはそう、白人以外が初めてアメリカ大統領に就任した直後の事。

 ケンジがヒデさんを連れて俺の店に顔を出したのは、後もう少しで小正月が終了するって時刻だった。

 扉に“CLOSE”の札をかけた俺にケンジが“取り敢えずビール”とぬかしたので、“そんなエエもんあるかい”と返してから、アルコール度数も値段も少々高めのを三つのグラスに注いでやる。

 “長い東北出張、お疲れ様でした”とケンジの軽めの発声で乾杯する俺達。

 ヒデさんこと橋本秀樹さんは前年までの五年間、仙台イーグルスでコーチをしていた。初年度の前半は二軍の外野守備・走塁を担当し、後半からは担当はそのままで一軍の指導を。

 三年目からはヘッドコーチに昇格してチームの躍進に貢献されていたが首脳部一新に伴い退団する事になり、今年からは9年ぶりの解説者生活が決まっていた。契約したのはCSのスポーツチャンネルだそうだ。

 別の番組で既に8年も解説者を務めているケンジが矢鱈と偉そうに先輩面をするのをスルーしながら、俺達は楽しい時を過ごした。

 話す内容は昨今の事から次第に過去の事、現役時代の思い出へと移行する。

 語れるような現役生活がなかった俺は聞き役に徹し、二人の物語に合いの手を入れながら耳を傾けた。

 ケンジとヒデさんの共通項は、どちらも代々木スターズの一員だった事。現役時代は外野ポジションの定着を争うライバル同士だったのである。

 逆に不一致点はといえば、名監督として世に持て囃されている野沢克也氏との関係性だ。


 ヒデさんは野沢門下の優等生として誰よりも大事にされた選手である。

 昭和の低迷期が嘘のように黄金期を迎えた平成のスターズにおいて、ヒデさんは控えでありながら貴重な戦力として重宝された。

 金銭トレードで移籍した札幌ファルコンズでは一年目は代打の切り札として活躍したが、二年目は極度の不振に陥り引退の危機を迎える。

 そこに救いの手を差し伸べたのは、大阪サンダースの監督に就任したばかりの野沢氏であった。

 しかし残念ながら既に選手としては終焉していたヒデさんは二軍に居続けとなり、20世紀終了の年限りで引退されたのだが。

 引退後は自営業店主と解説者の二足の草鞋を履かれていたのだが、仙台イーグルスの監督に就任した野沢氏の要請に応えて再びユニフォーム姿となられた。

 ざっと振り返っただけでも、どれだけ野沢氏に愛され必要とされていたかが判るだろう。野沢氏の提唱する野球理論を完璧に理解した数少ない野球人なのだから、然もありなんである。

 では、ケンジはどうだったのか?

 ヒデさんとは真逆で、野沢氏とは全く反りが合わず嫌われたのが、ケンジなのだ。

 野沢氏の前任、関潤三氏が標榜したノビノビ野球では思い切りの良いプレースタイルで新人王を獲得したケンジ。

 もう少し頑張れば盗塁王とダブル受賞も夢じゃない大活躍だったのだ。

 だが野沢氏が就任したプロ二年目からはプレーに陰りが見え、出場機会が激減する。つまり、干されたのである。

 如何に名監督と讃えられようと、野沢氏とてひとりの人間だ。況してや好き嫌いを明確に発言し、それをマスコミに向けて大いに喧伝する人物だった。

 批判、いや徹底的に扱き下ろされたケンジの立場は所謂一軍半、一軍と二軍を行ったり来たりのエレベーターマニアとなり、やがて戦力外通告を受ける。

 チームには不必要だと宣告されたのだ。何処へなと好きにしろ、出て行けと。

 そしてケンジはなけなしの意地を見せて広島キャナルにテスト入団し、開幕スタメンに名を連ねた。

 しかし以前のような精彩を欠いたままではどうしようもなく、ヒデさんよりも一年早くに引退の時を迎えたのである。

 結局は一年目がケンジのキャリアハイ。現役生活のほとんどが燻り続けた不完全燃焼の時間であったといえようか。


 次第に口数が少なくなり追憶よりも沈黙が増え出した頃、ヒデさんがグラスを片手でもてあそびながら呟くように疑問を呈した。

 悔いはなかったか、と。

 問われたケンジは一瞬鼻に皺を寄せてから国産のシングルモルトのロックを一息に飲み干し、明快に答える。

 全然、と。

 ヒデさんは、そうか、と感想を一言述べてから席を立つ。そして会計を済ませると、またな、と言い残して店を出て行った。

 扉の向こうに消えるヒデさんの背に向かい、ケンジはスツールを降りて深々と頭を下げる。

またのお越しを、と同じく頭を下げながら俺は言わずにはおれなかった。


「強がるクセは昔から変わらんなぁ」

「うるせー、客に向かって喧嘩売るんかこの店は?」

「閉店の看板は一時間前に出しとる。此処におるんは店主と客やのうて、三十年来の腐れ縁や」

「さよけ」


 口をへの字に曲げながらスツールに坐り直すケンジ。

 更にグラスを突き出し“奢られてやるから”とおかわりを要求するので、俺は黙って先ほどよりも一段グレードの高い酒を選ぶ。

 芳醇な香りに満たされた新しい二つのグラスが軽くぶつかり、澄んだ音を立てた。


「今更やけど、ホンマに後悔してへんのか?」

「……さぁ、どうやろうな」

「……意固地にならんと学生時分みたいに柔軟な考えしてたら……そしたら野沢さんの下でもっと活躍出来たんと違うか……ヒデさんが言うてはったみたいに」

「それは結果論や。俺は俺の出来る限りの事を精一杯やった。せやけど俺のスタイルは野沢さんの野球観とは合わへんかった。

 せやから干されて、馘になった……ただ、それだけの事や」

「ほら、それや。その鼻に皺を寄せる癖。ケンジが鼻に皺寄せる時は、いつも強がってる時や。

 高校の地区予選でデッドボールを受けた時もそうやったし、ドラフト指名が3位やった時の記者会見でも……」

「うるせー、もっぺん黙れや、それ以上は言うな。それ以上言うたら明日、開店出来ひんくらいに暴れたるぞ」

「へいへい」

「……そら、俺かて柔軟な対応が出来るんやったら、とっくの昔にしとったわい……肩をいわしてへんかったらな。

 野球人生の絶好調がオリンピックで、最高潮が新人王をゲットした一年目。

 それ以降は鳴かず飛ばず、成績は笑う気にもなれんくらいの低空飛行。

 スターズをお払い箱になってキャナルに拾ってもろたけど、そこでも怪我に泣かされまくりで、どないもならん。

 プロになったはエエけれど、やわ。

十年間の現役生活の内、九年間は何してたんやと思うわ、クソッタレめ!

 そんな俺がコーチになったとてキャナルの若手に何を教えてやれる?

 何を教えられるんか俺にもさっぱり判らんかったから、コーチもたった二年でお終いやった。

 今じゃあ他人のプレーを他人事のように偉そうに、上から目線でエエとかアカンとか言うだけの評論家様や、恐れいったか参ったか、って……参ったのは俺やわな」


 カラカラとグラスの氷を八つ当たり気味に鳴らしながら遠い目をしたケンジは、野沢氏の代名詞のようなボヤキを天井へと吐いた。

 右肩さえ万全やったらなぁ、と。



 実際には思い出したのではなく、意識的に封印していた記憶……だけどな。

 理由はただ一つ、所謂“プロアマの垣根”だ。

 キンタローのように同じプロならば過剰なまでに干渉出来るのだけど、ケンジは未だ大学生である。干渉しようにも手の出しようがない。

 ならばプロになってから……では遅過ぎるのだ。

 今の俺に出来る事はないだろうか?

 焦燥感に駆られた俺はダメ元パート2を試みる事にした。

 チャレンジする相手は森山監督ら首脳陣よりも大物、球界に君臨する大巨人の根谷陸夫管理部長様だ。

 上手く行けばめっけものとばかりに、心中では滅茶苦茶ビビりながらも気力を振り絞ってポーカーフェイスを保ち、ともすれば震えそうになる声を押さえつけて、いざ勝負!

 結果は、まさかの大成功。

 吃驚どころではない驚愕の成果を新聞で知った俺は、思わず変な声を出してしまったが。

 史実通りにケンジが代々木スターズへ入団すれば強力なライバルとなり、ケンジの出場機会を奪ってしまう選手の人生を変えてしまったのだから仕方ないよな。

 岩永哲也。

 彼は俺と同じく入団すべきチームを違えてしまったのだ。

 違えたのは、東京ファルコンズに外れ1位されるはずだった西村幸広投手と、東京ギャラクシーズに入団する予定だった小野坂耕一もそうなのだったけれど……。

 俺の場合は……思いも寄らぬ神の配剤、なのかなぁ?

 神様がいるかどうかは判らないが、岩永ら三人の場合は俺の関与であるから……もしかしたら天に唾する行為なのかもしれない。

 チームに新規の……今の世ならば珍奇なのかもしれないが、トレーニングやストレッチの方法導入、いや布教かな、に積極的だったのは俺自身が怪我したくないからだった。

 もう二度と、野球人生を無為になどしたくなかったからだ。

 キンタローの改造もしくは矯正に尽力したのは、キンタローの将来を慮っての事である。俺の独りよがりと思い上がりが過分に含まれているのは否定しないが。

 だが岩永の件は全然違う。

 岩永の将来などこれっぽっちも考えずに、ただケンジの事情のみを念頭に置いて根谷管理部長に進言したのだから。

 他の二人は岩永の序で……みたいなものだったのだけれど。

 西村投手に関しては、前世の当時からの素朴な疑問を口にしたのだった。

 どうして獲れる逸材をスルーしたのか、森尾良二投手は幾ら密約があれど1位指名するような逸材じゃないだろうに、と。

 小野坂については勢い余って口にしてしまった感じである。

 史実での大活躍を思い起こせば、選手タイプとしては90年代後半からレイカーズを牽引した松岡稼頭央っぽいし、きっとチームの雰囲気に馴染むんじゃないかなと。

 それにしても、えらい事をしてしまった。

 これからどうしよう……いや、どうしようじゃないよな。

 岩永達の入団は既定の話。契約交渉はこれからだけど、プロ志望の強い選手達だ、絶対必ず入団するに決まっている。

 俺がグダグダしている間にも、彼ら三人はレイカーズの一員となる準備を始めているだろう。

 彼ら三人とは前世で直接言葉を交わす機会はなかったが、人づてに聞いた限りでは全員が至極真面目な性格であるようだ。見かけはチャラい西村投手ですら。

 ならば先輩として出来る限り以上の世話をするのが当然だよな。

 それが贖罪になるかどうかなど判らないが。

 無理からに関わってしまったのだ、関わらせてしまったのだ。

 彼ら三人が史実のように球史に名を刻む選手となるよう、俺に何が出来るのか考えなければ。

 ……西村投手だけは難しいかもしれない。

 向こうの方が年上だし、年少の俺がどうこうするのは嫌がられるかもな。同世代の桑島投手や若林投手に丸投げするのが正解かも?

 よし、そうしよう。

 基本的には岩永と小野坂には積極的に、西村投手は少し引いた立場で関わる様に心がけよう。

 そして何よりも、ケンジの事を考えねばならない。賽は投げられ……いや、投げてしまったのだから。ちょっと暴投気味だったが。

 これで臆せば俺は生まれ変わった此の世でも、一生涯後悔し続けるのは確定だ。俺じゃない他人の人生に干渉してしまったのだから、前世以上に悔いる羽目に陥るだろう。

 おっしゃ! 垣根が何だ! 憲章がどうした! 何もしないで嘆くなど馬鹿らしい限りじゃないか! 当たって砕けた方が絶対に気分爽快であるに違いない!

 それじゃあ、勇気を持って行動するとしよう、ビビるな俺!



「これって憲章違反とちゃうんか?」

「ちゃうんちゃうか」

「せや、ちゃうちゃう」

「ホンマに?」

「いや……そう聞かれると自信ないけど……ジッサマはどや?」

「先輩、ジッサマ呼びは勘弁して下さいな。俺、まだ二十歳になったばかりやのに、爺むさい扱いされるんは……ちょっと」

「実際、爺むさいやんか。キンタローがぼやいてたぞ、説教親父みたいやって」

「そらアイツがガキんちょやからしゃあないですやん。お目付け役としたら小言の一つや二つや百個くらいは言うたなりますやん」

「いや小言うんぬんやのうて、言い方が爺むさいって話や」

「まぁ自覚はありますけど、先輩にジッサマって言われると何や変な感じで」

「待て待て待て、兄貴もエホンも話がズレとる。エホンが爺むさいんは今更の話やし、ジッサマと呼ぼうがバッサマと呼ぼうがどっちでもエエねん」

「それはちゃうぞ、ケンジ。ジッサマは男やけど、バッサマやったら女になるやん」

「せや、俺にそんな趣味はないし、外国で工事する予定もあらへんぞ。まぁ、かくし芸大会で女装するくらいならやってもエエけど」

「だから脱線しとるって言うてんねや!」


 下手の考え休むに似たりを実践しながら年末を過ごした俺は年明け早々、頼もしい助っ人を連れてケンジを強襲してやった。

 助っ人の名は、戸松誠治。

 俺にとっては高校時代からプロ入り後の現在までずっと頭の上がらぬ先輩であり、ケンジにとっては仲の良い兄貴である。

 先輩と共に適当な理由で八王子駅前にケンジを呼び出すや、千葉県の筑波山麓に建つ大学付属の病院までまるで攫うように拉致ってやったのだ。

 するとまぁ、ケンジの怒る事怒る事。こんなに怒るとは思わなかったぜ、って当然か。お怒りご尤もと甘んじて罵倒を受けてやろう。

 しかしな、お前の為なんだ。だから、そろそろ黙って人の話を聞けや。


「おいおい、ケンジよ。病院前で騒ぐんはマナー違反やぞ」

「せやで、ケンジ。静かにせな」

「怒鳴りとうて怒鳴ってるんちゃうわ、ボケ! ……それよりもや兄貴、エホン。ホンマに大丈夫なんか?」

「……大丈夫なんか、ジッサ……判った判った、コーイチロー?」

「うーん、グレーゾーンやからセーフのはずですわ」

「その何たらゾーン、って何やねん? 子供の頃にやってたヒーローか?」

「それは流星人間や……って、あー、そうなんかー、まだ一般用語やないんかー、えーっとやな、白でもなけりゃ黒でもないってこっちゃ」

「つまり……どういうこっちゃ?」

「バレへん限り大丈夫、ってヤツや」

「それ、全然大丈夫とちゃうやんけ!」

「まぁ心配なんは判るし、ヤバイ橋を渡ってるんは俺かて自覚しとる。

 せやけどなケンジ、一番心配でヤバイんは、お前の右肩やで。それは判ってるやろうが?」


 俺の態度からおちゃらけた雰囲気が抜けたのを感じ取ったのか、ケンジの目が泳ぐ。


「此処は日本じゃ珍しい、スポーツに特化した病院や。俺のトレーニング技術の師匠の芝山先生も関与してくれはるしな!」

「ホンマはコーイチローやのうて、俺がやらなアカン事やってんけどなぁ。

 プロ野球の人間はアマチュアとは交流したらアカン、って学生野球憲章の文言に二の足踏んどったんが、返す返すも情けないわ。

 お前の兄やのに、前から気づいとったのに、見て見ぬ振りしとったんやさかいに……ホンマ勘弁な」

「別に兄貴が謝る事やあらへんし……それに肩の事は俺の問題やねんから」

「とはいうても此処まで来たら俺の問題……家族の問題や」


 先輩にガッシリと両肩を掴まれたケンジは強引に体の向きを変えられ、病院の玄関へと押し出される。

 渋々ってポーズを崩さぬ親友の後ろ姿が滲んで見えた。どうやら俺はおセンチな気分になっているようだ。

 これでケンジは救われる……かどうかは診断の結果次第ではあったが。

 少なくとも愚痴を聞くだけしか出来なかった前世と異なり、今の俺は親友の危機を未然に防ぐ事に成功したのだ……多分きっと。



 診断結果とそれに基づく療法の説明は即日ではなく一週間後。

 もどかしい思いで過ごした七日間は、バレたらどうしようとビクビクしっ放しの日々でもであった。

 垣根や憲章何するものぞと燃え上がった意気込みも、冷静になってみれば何て無謀をやらかしてしまったのか、と。

 “大事になったらどうしよう”“大丈夫だろうか”と、既に選手寮を卒業して都内でマンション暮らしをされていた先輩とは毎日電話で遣り取りし、余計に不安を駆り立てたりもした俺である。

 久々に生きた心地がしなかったぜ。前に体験した時はそのまま死んじゃったけどな、あっはっはっは、笑えねェな。

 でも終わってみれば結局は、取り越し苦労であった。

 全ては携帯端末の普及により誰もが即座にパパラッチと化す21世紀ではない御蔭、なのかもしれない。或いは俺達が世間を賑わすスターやヒーローでなかった所為かも……。嬉しいような悲しいような?

 何が幸いしたのかは判らないけれど俺達がした事、つまりプロがアマに過干渉したって事実はマスコミなどにはバレずに済んだのである。

 しかし隠し通すのは土台無理であったのも事実。ケンジは大学の野球部に所属しているのだから。

診察を受けたその日に、ケンジは兄の知人の紹介で診断を受けた、と嘘ではない事実を独断で大学側へ報告したのだとか。

 何て馬鹿正直なと思ったりもしたけれど、大学野球部に所属する選手の健康管理は大学側に一任されているのだし、些細な不調や怪我でさえ報告義務が発生するのは当然であるのだから、誤魔化す方が間違いだよな。

 結果として、ケンジの独断は大正解であった。

 正直者のケンジに対し、大学側はペナルティを課すのではなく謝罪をしたのだそうな。肩の不調を深刻に受け止めず申し訳ない、と。

 大学側、特に野球部の監督さんはケンジの才能を随分と高く買っているようで、だからこそ選手生命を座視しようとはしなかったようなのだ。

 二年後に迫ったソウル五輪の日本代表に何としてでもケンジを送り込んで大学の名を高めたいって欲もあるのだろうが、それは俺達にとっても勿怪の幸いでしかない。

 事態は、ケンジの肩に関するアレコレは既に俺の手を離れ、大学側へと委ねられた。監督さんのみならず野球部の総責任者たる野球部長らがケンジと一緒に担当医の診断を聞きに行ったのだそうな。

 その気になる診断結果だが所謂“野球肩”、正しくは“腱板損傷”というものらしい。

 腱板とは、棘上筋(きょくじょうきん)棘下筋(きょくかきん)小円筋(しょうえんきん)肩甲下筋(けんこうかきん)の四種の筋肉の腱が集合したもので、その腱板が肩関節と衝突を繰り返す事で損傷が起きるのだそうな。

 何故それが起きるのかは肩の回旋運動、つまり繰り返される投球動作が過剰であった為だとか。損傷が酷くなれば、痛みで腕が上がらなくなったり、眠れなくなるそうで。

 ケンジの場合は体のケア不足、そして守備の仕方に問題があったとの事だ。

 生まれつき左利きであったケンジは、内野守備の際は本来の利き手ではない方でスローイングを行い、外野守備の際も同じ利き手ではない方で投げていたのが、影響したらしい。

 なまじ器用であったが為に右肩を痛め、更に己の身体能力を過信したが故に悪化させたのだそうな。

 つまるところ、ケンジの右肩痛はそのツケが回った所為か。

 ツケはアカンぞ、ツケは。いつもニコニコ現金払いが明朗会計の基本だからな。

 それは兎も角、幸いにして右肩の損傷度合いはバッドであれどワーストではないそうだ。

 何の手当てもせずに使い続けていたら重篤になったかもしれないが、芝山先生とその同僚達が考えた治療法に従えば今以上に悪くなる事はないだろうとの事。

 淡々と説明し、懇々と説諭する診断医と芝山先生に対してケンジは素直に頭を下げたらしいが、ケンジ以上に監督さんと部長さんは重く受け止められたらしい。

 声を大にして指示に従い治療法に徹する旨を、その場で約束されたそうだから。


 以上全てが又聞きっぽく伝聞形式であるのは、俺は先輩から聞き、先輩はケンジからではなく戸松家のお父さん経由で聞かされたからである。

 ケンジからの直接連絡でなかったのは……俺と先輩の関与を疑われない為であった。

 大事な息子さんを預かっておきながら斯様な事態になり申し訳ない、と突然の連絡を受けた戸松家のお父さんは寝耳に水と吃驚したそうだけど、大学側の対応に誠意を感じたのだとか。

 良い大学を選んだよな、ケンジ。

 選手に限らず人の命運って、時の指導者もしくは教育者が握っていたりするのだ。

 プロの世界などそれが如実で、監督やコーチとの相性次第で選手生命が伸びたり縮んだりするのだから。

 一先ずこれで、ケンジに関する危惧は払拭されたはず。

 もうこれ以上の事は、今の俺には出来やしないし。

 ……まだ出来る事があったな。

 出版されている野沢氏の著作物を幾つかチョイスして、送り付けてやろう。

 高校時代から文武両道タイプであったケンジの事だ、野球にも野球なりの理論があるのだと今以上に理解しておくべきだからな。

 現役生活において、感性だけで能力を発揮出来る時間は本当に短い。俺はそれを、前世で嫌という程に味わったのだ。経験者は語るぞ、語らせてもらおう。

 もっと勉強しろ、野球脳を鍛えて誰よりもいち早く野沢氏の考えを理解するんだ。

 そして野沢氏が監督になった時、ヒデさんよりも可愛がられる選手になって、野球人生を最大限にまで伸ばすんだ。

 この世界では意固地にならず、素直に頑張れよ、判ったな、ケンジ!


 さて、実はもう一人、人生を改めさせてやろうと考えている奴がいる。

 そいつはケンジと違ってとっくにプロだし、尚且つ同じレイカーズの一員なのだった。

 自分自身やキンタローやケンジでなまじっか上手くいったものだから、ちょっと調子に乗っている気がしないでもないけれど、多分上手くやれるに違いない。

 だってなぁ、秘めたポテンシャルを発揮出来ずにウダウダしているのを間近で見ていて、出来れば何とかしてやりたいと思ってしまったのだ。

 去年、アメリカでの武者修行を体験した結果、そのポテンシャルはかなり向上したように見受けられる。体の動きやキレが以前とは段違いに良くなっているのだから。

 頭の方は格別優れているとは言い難いが、決して地頭は悪くないと判断している。でなければ後年、コーチや監督を要請される訳がない。

 悪いのは、入団2年目も過ぎようとしているのに未だ進むべき方向性が定まらず、漠然とした未来像しか思い描けていない点だろう。

 このままでは史実通りに使い辛い選手として森山監督に愛想をつかされ、他球団へ放出されるのは決定的だよな。

 俺の記憶では確か、移籍先のギャラクシーズでは長門監督に可愛がられそれなりに名を売ったりしたけれど、直ぐに大袈裟なくらいに集められた巨大戦力に埋没してしまい、引退も早かったはず。

 いつかはユニフォームを脱がなければならないとしても、俺よりも優れた体格と能力に恵まれながら不本意な形で現役引退する姿など、出来れば見たくない。

 それが親しい球友であれば猶更だ。

 ならば同期として一肌脱いでやろうじゃないか。

 野沢氏が江原さんに進むべき道を提示したように、俺も今の時代では実施されていない新たな試みを彼に提示してみるとしよう。


 なぁ、小野寺博元よ。

 俺専属のリリーフキャッチャーにならないか?

 絶対に落とさず、決して後逸せず、どんな球でも確実にストライクだと思わせる捕球術を習得すれば、日高修投手達ベテラン勢にも重宝される事請け合いだぜ。

 リードなんか実践の中でおいおい学べば良い。

 抑々が、リード面を含めた総合力では池澤勤捕手に敵いっこないだろう?

 これからも捕手として生きて行きたいのなら、何か一芸に秀でないと一軍定着など夢のまた夢だぜ。

 俺が投げる時は小野寺じゃないとダメだ、って首脳陣に認識させるのはどうだ?

 俺と一緒に、一軍で良いトコ見せようぜ!

 今回は、野村監督の懐刀その2であった橋上秀樹氏の著作をかなり参考させて戴きました。

 どうしてライオンズは、橋上氏をコーチから外してしまったのだろうか?

 現監督は今年で退任、次期監督は未定のライオンズ。

 新監督が誰であろうと、是非とも橋上氏の再入閣をお願いしたい今日この頃です。

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― 新着の感想 ―
[一言] ケンジってオリキャラだと思ってたので、笘篠賢治がモデルと知って驚いた。ということは、彼とチームメイトだったジッサマは江本晃一がモデルなのだろうか。
[一言] ドラフト会議、この時期はまだ「寝技」が使われていた頃ですから、前話の様に囲い込みもまだ有効でしてが、令和の現在は公平感を出す為にそれも出来なくなりましたからね。隠し球的選手が大分減った 笘…
[良い点] 次回以降はデーブさんの覚醒回かな? 覚醒することによってトレードされる時期が早くなる可能性もあります(フレーミングとブロッキングの鬼でありそれがファーストにも活かされる上にバッティングも…
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