入団2年目「人は誰しも大人になる前に、青春なる期間を過ごす」Aメロ
前話の裏付けというか、良い訳みたいな話かと。
光一郎が金月に固執する理由は次話にて。
誤字・誤表記を訂正し、キャナルの選手を少し追加しました。御指摘に感謝を!(2021.07.01)
森山が名を昌彦から祇晶へと改名したのは1985年12月の第一木曜日、埼玉レイカーズ三人目の監督に就任した時であった。
球団オーナーの佃義明は最初、前年に引退した田原幸一に監督を任せる意向を持っており、森山には元スター選手を支えるヘッドコーチにと望んだ。
しかし森山がヘッドコーチを固辞した為に話題性優先の計画は、あっさりと頓挫した。
オーナーの意向とは異なり、堅実に常勝チームへの道を望む球団首脳部が提示した代替え案は、森山への監督要請である。
要請を二つ返事で受諾した森山の最初の大仕事は監督就任から一週間後、甲子苑のヒーローである金月和博の入団記者会見に同席する事であった。
ドラフトでの経緯もあり、難航するかと思われていた金月の入団が思いの外スムーズに進んだ事に球団首脳は一様に安堵したが、疑問がなかった訳ではない。
同じく疑問を抱いていた記者達がそれを尋ねるも、“親と相談して”や“色々と考えた結果”などという曖昧でありきたりな答えしか得られず仕舞いであった。
だが記者会見終了後、別室での休憩中に金月が漏らした呟きを森山と根谷管理部長は聞き逃さなかった。“絵本さんのチームメイトか”という一言を。
大仕事は無事終了したが、森山の仕事はそれからが本当の始まりである。
コーチ人事にシーズン中の方針の構築、自チームの利点と弱点の把握、他チームの戦力分析などなど。
部下となるコーチ陣とは秋季キャンプの内容を基に幾度も会議を重ねてはチームの強化策を模索し、一年間戦い続ける為に必要な事と不必要な事を選別する。更に新外国人選手の候補リストにも目を通さねばならない。
その他も雑事もあり、新年を迎える前から森山の日常は天手古舞であった。
年末が押し迫る頃、新シーズンのスローガンを“飛躍”と定め、チームの纏め役に伊倉選手を当てるのを決めた森山は、これで漸く一息をつく。
だが新監督に課せられた案件はまだまだあり、積み上がった課題の頂上が金月の育成方法をどうするか、であった。
超高校級の存在とはいえ高がアマチュアのレベル、ティーンエイジャーのトップでしかないのだ。
過去にも高卒ながら即戦力となり優勝の原動力となった選手は数多いるが、それ以上の無数の選手がプロとして活躍出来ずに引退を余儀なくされていた。
甲子苑では怪物やアイドルなどと讃えられていたのに、プロに入団した途端に怪我に苦しみ不調を脱せず、上と下を行ったり来たりのエレベーター生活に甘んじる者や、二軍で燻り続ける者。
例を挙げれば代々木スターズの斎藤圭一や安西大輔、数年前に引退した阪南ブルズの岡本幸司などがそうだ。
もしも金月が、結果を出す前に怪我でもしたら?
或いは万年二軍の選手となってしまえば?
球団オーナーはワンマン気質で有名な佃義明なのだ。機嫌が良ければ鷹揚な主君であろうが、気分を害せば即座に荒ぶる暴君と化すだろう。金月の育成失敗はオーナーの逆鱗に触れるに違いない。
荒ぶるオーナーの怒りの矛先は必ずや森山へと向けられる。下手をすれば押された監督失格の烙印は、未来永劫ついてまわる呪詛と成りかねない。
オーナーの機嫌を損ねない為に、何よりも球界人として球界の宝となるに違いない才能の塊を潰さぬ為に、どうすれば良いのか?
己だけでは正解を導き出せぬ大問題に森山は頭を抱え、そこで記者会見当日の事を思い出した。
金月がふと漏らした人物の名前を。
数日考え込んだ森山は選手寮へと電話をかけ、件の人物に命令を下す。
球界の宝を守れ、と。
通話を終えた直後には軽率な行為にも思えたが、決して愚かな行いではないという確信が森山にはあった。その確信が事実であったと安堵するのは、キャンプインしてからの事である。
キャンプ初日の夕食後、森山は伊倉と一対一での面談を行う。腹を割った話し合いに満足した森山は、翌日以降も時間を設けては投打の主力達との対話を続ける。
主力でもない光一郎に順番が回って来たのは意外と早く、キャプイン七日目の夜であった。
緊張した面持ちの光一郎は、何故か大きな風呂敷包みを抱えている。
日本シリーズ最終戦で魅せたあの輝きは何処へやら、まるで田舎丸出しの冴えない上京青年にしか見えぬその姿に、森山は軽々に命令を伝えたのは失敗だったかと疑念を抱くが、対話開始早々にその疑念は払拭された。
光一郎が明快に、己の長所と短所を審らかにしたからだ。次に野球に対しての考えと取り組み方を真摯に語り、今年の目標と課題を明確にする。
更に風呂敷包みから取り出したのは、プロ生活を続ける上で必須だと考え、学んでいた内容を書き記した十数冊の大学ノートであった。
一つ質問する毎に求める以上の答えを並べる光一郎。
森山はいつしか、相手が未だに一軍登板が30イニング以内という最優秀新人賞資格を有する者である事を失念してしまう。
日高並みに経験豊富な投手、或いは熟練のスコアラー、もしくは引き出しが豊富なコーチと相対しているかのような感覚に囚われてしまったからだ。
それも当然なのかもしれない。
光一郎の精神年齢が53歳プラス1年である事を、48歳の誕生日を迎えて一ヶ月しか経ていない森山が知る由もなかったのだから。
自分の子供世代である人物が実は年上であるのを知らぬままに、耳を傾け続ける森山。語られる内容が球団やチームへの要望に変わっていた事にさえ気づかずに。
最後に、と前置きをしてから光一郎が金月の名前を口にしたのは、面談開始から一時間半が過ぎようとした頃だった。
その瞬間、我を取り戻した森山は反射的に“どう育てれば?”と問うてしまう。
問いに対しての光一郎の回答は、明快であった。だがその内容は、実際に育成を担当する打撃コーチの職分に踏み込むものでもある。
少し考えに耽ってから、森山は何かを決断したようにテーブルに設置された電話へと手を伸ばす。
やがてノックと共に現れたのは、打撃コーチの大輝正博であった。
夜半に近い時間の呼び出しに何事かと思い、既に面談が終了していて可笑しくない室内に光一郎が残留しているのに首を傾げる大輝。
その首の傾きは森山が話し、光一郎が語る内容に深くなるが、理解が追いつくにつれて元へと戻る。
森山からの用件は起用法についてであった。二軍には置かず開幕から一軍ベンチに座らせるというもの。
大輝は危険ではないかと思った。プロの壁にぶつかっても潰れぬよう、二軍で時間をかけて育てるべきだと。
しかしその反対の意志は光一郎の語る内容、金月和博というひとりの人間の詳細な解説であっさりと覆される。スカウトが提出した調査書には記されていない情報が語られたからだ。
曰く、根は心優しく、真面目な小心者で、不器用なタイプである。
曰く、小心者であるが故に、虚勢を張り、高いプライドの持ち主である。二軍生活は、金月のプライドを酷く傷つけるであろう。
曰く、典型的なパワーヒッターであるが故に、バットを力任せに振り回す傾向がある。三振が多くなるが、それを咎めれば真面目であるが故に委縮する可能性が高い。
曰く、外角を打つのは得意だが内角を攻められると脆い。不器用であるが故に内角を克服しようとすれば、長所である外角打ちを狂わせてしまう。
曰く、体は大きくとも中身は野球少年のままであるから、社会人としての勉強をさせた方が良い。但し子供扱いされると拗ねてしまうので要注意。
曰く、全体ミーティングを利用して戦術ではなく戦略の一環として教育するのが効果的だと思われる。これは金月のみならず他の選手の発展にも繋がるだろう。
曰く、褒める時は皆の前で。叱る時は人の目の無い所で。怒るのも不満を言うのも逆効果。納得がいくまで言葉を惜しまず語りかける事。相手は未熟だが、聞き分けの出来ない子供ではないのだから。
曰く、理解させさえすれば自発的に成長するのは間違いない。どうか長い目で教育してやって欲しい。
臆する事無く語り続ける光一郎に、森山も大輝も呆気に取られた。その内容が聞き捨てならぬものであるのに気づいていても、咎め立てするのを保留してしまう程に。
大輝は後にその時の事を回想する度に、まるで催眠術にかけられたようだったと述懐する。相手がルーキー同然であるにも関わらず、年長者の訓戒を聞いているようであったと。
森山はといえば、ギャラクシーズの大エースであった倍賞毅彦に野球の何たるかを教わった現役時代初頭に意識だけ戻された気になった、と後年に出版する回顧録で書き記す事となる。
本人達を前にして堂々と要望と批判を行った光一郎であったが、傲岸不遜と叱責される事なく自室へと戻り、安穏と眠りにつく。
対して、要望を聞かされ批判もされた側は安穏となどしていられる筈もない。二人の意見交換はその後も続けられた。
その結果、森山と大輝は光一郎の言いたい放題を貴重な提言として受理するとの認識を共有する。何故ならば、退出間際の光一郎の発言が胸に強く響いたからだ。
“金月には是非ともホームラン王のタイトルを獲らせたい。
いや絶対に獲ってもらわなければなりません。
出来れば打点王のタイトルも併せて二度、三度と。
ルーキーイヤーの今年は難しいですが、プロの水に慣れた来年が最初のチャンスだと思っています。
首位打者が獲れるような安定性は望めませんが、二冠ならば可能性があります。
無冠の帝王、などと引退後に揶揄されないよう、私も全力で支援する心算ですので、何卒厳しくも温情ある御指導を宜しくお願い致します”
土下座せんばかりの勢いで頭を下げる光一郎の、あたかも未来を見て来たかのような断言を、二人は聞き流す事が出来なかったのである。
そんな馬鹿な、と一笑に付せぬ何かが光一郎の目と態度に現れていたからだ。
理由はそれだけではない。
光一郎の発言の中に一ヶ所、聞き捨てならぬフレーズがあったからである。
1961年、高卒で阪南ブルズに入団した大輝は、二年目から四番打者を任されるもタイトルには中々恵まれなかった。
初めて打撃タイトルを獲得したのはプロ生活14年目、埼玉レイカーズの前身である泰平倶楽部ライナーズに移籍してからだったのだ。
1975年、遂に念願の本塁打王に輝いた大輝。引退までに2400本以上の通算安打と465本の本塁打を放ったが、大輝が獲得したタイトルはその一つのみ。
“無冠の帝王”とは、阪南ブルズ時代の大輝を揶揄すべく某スポーツ紙が奉った渾名であったのだ。その屈辱的なフレーズが再び蘇って来ようとは!
過去の亡霊と再び対峙せねばならぬ事に慄然とする大輝の傍らでは、即答出来ぬ問題を突き付けられた森山が懊悩していた。
監督とコーチ、それぞれの立場から考えを整理し合った二人が、早急にスタッフ会議を開く事を決したのは夜明け目前の頃である。
そんな事などつゆ知らず熟睡を堪能した光一郎は翌朝、目の下に隈を作った森山に署名入りの趣意書を求められる。
少しお待ち下さいと言い残して自室へと戻った光一郎は小走りで戻って来るや、即座にクリップで留められた趣意書を提出する。用意の良さに感心するより呆れてしまった森山。
提出された趣意書を要約すれば、次の通りであった。
①故意に厳しい内角攻めを行い、精神的耐性をつける。
②死球から身を守る方法を習得する。
③内角への苦手意識は、継続的な練習をすれば必ず克服出来る。
事実として、投手が内角へと投じる球のほとんどがボールと宣言される事が多い。見逃されれば、打者有利のカウントとなってしまう。
ならば何故投げるのかという疑問に対しての回答は二つある。
人は手に道具を持った状態で物を投げられれば、無意識に道具で払いのけようとしてしまうもの。道具がバットで、投じられたのがボールであれば猶更だ。
況してや自分目がけて投じられるのだ、打ち返そうとしてしまうのは当然の行動といえよう。だが闇雲に振られたバットがまともにボールを捉えられる筈がない。
回答の一つは、空振りか打ち損じを大いに期待出来るからである。
そしてもう一つの回答が、趣意書の要旨であった。
人間が有する感覚は繊細であり、距離感はその最たるものである。些細な事で狂ってしまい、一度狂えば修正は中々容易ではない。
ストライクゾーンの幅はホームベースの幅と同じであるのに、内角を意識させられた打者は意図せぬ内に幅を広げてしまうのだ。感覚の世界で、無意識に外角を遠ざけてしまうのである。
実態としては、それまで踏み込めていた足が、内角を意識し過ぎるあまり僅かに踏み込めなくなった所為であるのだが。
難なく打てていた外角が急に打てなくなるのは、打者にとって恐怖でしかない。何とか修正しようとしても、踏み込んだ瞬間にボールがぶつかってきたらどうしようと考え怯んでしまえば、もう踏み込めなくなる。
内角球の多くがボールとなるという事実を言い換えれば、投手で抜群のコントロールの持ち主など、ほぼいないのだ。
極論を言えば、一切内角に手を出さずにそれ以外のボールを確実に打てるのなら、誰もが3割バッターに成れるのかもしれない。
苦手なコースに手を出し、打ちようのないボールを無理からに打とうとし、ボール球をストライクだと誤認する事で、打者は打者としての自覚と自信を容易に喪失するのである。
名投手と呼ばれる者は皆、打者にそれを強いる事が出来るのだ。
強打者もしくは好打者と呼ばれる者は皆、それから逃れる術を会得しているのであろう。
光一郎は名投手と呼ばれるには程遠く、強打者でもなければ好打者でもないが、前世において多くの優れた投手と交流し、打撃投手として多くの打者を相手にした経験がある。
その豊富な経験に基づいた趣意書の内容を重く受け止めたのは、森山よりも打撃の専門家である大輝であった。
現役時代は専ら内角打ちを得意としていた大輝。
得意であったが故に打撃コーチとしての指導法に、内角攻めに誰もが対応出来る訳ではない、という考えが抜けていた事に気づかされたのだ。
50歳を超えてからは“名伯楽”とも称された大輝であったが、この時点ではコーチ生活二年目の若き指導者でしかない。指導法が未熟であるのも当然であろう。
己の未熟さを自覚していた大輝は、名打撃コーチとして讃えられている奈良岡太や山野一弘の域に早く達したいと常々思っており、その為ならば何でもする意欲の持ち主でもあった。
どのような練習を光一郎が企てているのか、文字情報ではなく実地に検分しなければ、金月に課す前に先ずは己の身で体験しなければ、と考える。
そしてその機会が訪れたのは、キャンプ第一クール終了まで残すところ三日となった日の夜の事であった。
マウンド中央の投手板とホームベース間の距離、18.44mよりも数メートル短い距離からバッターへとボールを投げ続ける光一郎。
バッターボックスに立つ大輝はバットを構えたまま微動だにせず、遠慮無しに内角を抉って来るボールに身を晒し続ける。
見逃されたボールをミットで受け止めては光一郎へと返球しているのは、バッテリーコーチの楠正宏だった。
森山は左右に二人のコーチを従え、ホームベース後方のネット越しに現役投手対打撃コーチという一見奇妙な対戦を注視している。
感心したようにふんふんと首を振っている総合コーチの馬場章一の反対側で、投手コーチの弥永荘六はざわつく心を何とか鎮めようと苦慮していた。
次々と寸分の狂いもなく投じられる内角球。速球とカーブは高目に、シュートは低目に。ストライクゾーンをほんの少し外れた範囲への投球は、驚く程に正確な内角攻めである。
通常のヘルメットではなくアメフト選手用のヘルメットを被り、捕手用の防具を装着した大輝は、何事もないようにそれらのボールを見逃していた。
そんな大輝の姿に、弥永はある一人の打者の幻影を重ねてしまう。現役時代に対戦したブルズの助っ人、マコーミックの姿を。
70年代に川崎オーシャンズの主力投手であった弥永が引退の危機に陥った1979年の初夏、ホームランと打点でリーグトップであったマコーミックと対戦した弥永は、強打者を抑えようと内角攻めを行う。
その時、球史に残る事故が起こった。弥永の投じた内角高目の速球が、マコーミックの顎骨を粉々に砕いてしまったのだ。
担架で運ばれそのまま病院へ直行、緊急手術となったマコーミックであったが、たった14試合を欠場しただけで復帰する。そしてその後もホームランを量産して本塁打王を獲得、ブルズのリーグ初優勝の原動力となった。
マコーミックは翌年も本塁打と打点の二冠王に輝くのだが、それは奇跡的な回復力の御蔭であり、本来であれば引退の危機であったのも確かである。
投げ間違えれば、相手の選手生命を奪ってしまうという内角球の恐ろしさ。
実際、過去に何人もの強打者が死球による負傷で倒れており、復帰後も後遺症に悩まされる事例が幾つもあった。
尚、後遺症は打者だけではなく投手にも襲いかかる。過去には完全試合を達成し、名投手の一人であった弥永は意識下に恐怖が芽生え、それ以降は内角への投球がまともに出来なくなり、その年の内に引退を余儀なくされたのだから。
大輝の被るアメフト選手用のヘルメットは、復帰後のマコーミックが顎を守る為に被っていた物とそっくりであった。
古傷を抉られる思いの弥永は幾度となく練習中止を求めようと声を上げかけたが、飄々と内角にボールを投げ続ける姿に自制心を働かせる。
確かにこれは、必要な練習であるとも理解したからだ。
もしもあの時、マコーミックが踏み込んだ足を逆方向へと動かしていれば、せめて半歩引いてくれていたら、事故は起こらなかったのかもしれない。
投手のコントロールは絶対ではないのだ。投げ間違いは多々起こるもの、“精密機械”と称される名投手であっても100%などありえないのだから。
この世で最も正確な投球を行えるのは、恐らく経験豊富な打撃投手くらいのもだろう。それは全力ではなく、五分か六分程に力を抜いた投球をしているからだ。
今、目の前で投げている光一郎のように。
20球目を投げ終えたところで森山は終了を宣言する。部屋へと帰るよう告げられた光一郎は、労いの言葉に一礼をしてから去って行く。
静まり返った室内練習場の中、最初に口を開いたのは大輝であった。
この練習法であれば内角攻めを克服出来るのは間違いない、と断言したのだ。
「但し、練習相手となる投手は余程の度胸と技術がなければ無理です。
手抜きの死んだ球では意味が無く、正しく投げられた活きた球を投げられる者でなければ。
それと残念ながら、ウチには打撃投手は多くおりませんし、内角だけを投げ続ける技術は高いものではありません」
大輝は言外に、実行して見せた光一郎かもしくは内角攻めを得意とする日高クラスでなければ難しい、と感想を述べる。捕手を務めた楠も賛同の意を表明した。馬場は、必要以上に投手陣に負担を強いる練習への疑念を口にする。
自然とその場の視線が、弥永へと集まった。
投手陣を取り纏める立場であるのだから当然ではあったが、自分の意見で方針が決しそうな様子に居心地の悪さを感じたのも確かだ。
最年長で馬場の50歳、最年少の楠に至っては39歳でしかないレイカーズ首脳陣の中で、二番目に若い41歳の弥永は目を閉じ天を仰いでから、胸の内を吐露した。
「投手を預かる立場としては正直申しまして躊躇します。
……ですが、チームの未来を考えれば、金月が早く独り立ちしてくれるのは、有難い。彼が打線の中心となれば、それだけで先発は安心して投げられるし、中継ぎ投手達に無理をさせなくて済みますから。
日高にも手伝って貰いたいのは山々ですが、彼の例年のルーティーンを崩す結果になりかねません。
今回は絵本にだけ任せるのが宜しいかと。若いし、スタミナがありますから。
日中の投球練習を加減すれば、大丈夫でしょう。それでも毎晩となれば負担が大き過ぎますので、二日もしくは三日に一度のペースで、投球数は最大30球にして戴きたいです。
それと、絵本と金月の二人っきりでさせるのは問題がありますので、大輝さんと私が付きっ切りで行うのが宜しいかと」
弥永の発言に背を押された思いの森山は、光一郎提案の練習法を行おうと決意する。
吉と出るか凶と出るかは実行を許可した森山にも、支持不支持を表明したコーチ達にも判らぬ事であったが、少なくとも本人の与り知らぬところで、金月の運命が決したのだった。
キャンプ第二クール開始から五日目の夜から始められた特訓は、手探り状態であったが為にいつ頃にどのような形で結果が現れるのか、課した首脳陣には皆目見当がつかぬまま続く。
課せられた金月に至っては理解が追いつかず混乱したままであったので、シートバッティングでは快音よりも鈍い音を連発させる始末。
マスコミは、早やプロの壁にぶち当たったのかと憶測記事を掻き立てたりするのみで、それは取材する解説者達も同様であった。
野沢克也などほんの一部の聡い者だけが、泰然自若のポーズを崩さぬ森山達の姿勢に何かあるのでは、と契約するスポーツ紙で推論を述べていたが。
そんな中で、言い出しっぺが率先せよとばかりにピッチングマシン役を命じられた光一郎は、自身の特訓にもなるのだと嘯きながら嬉々として投げていた。
特訓を提案した光一郎が関係者の中で唯一人憂いなしでいられたのは、この特訓が正解である事を知っていたからだったりする。
前世で読んだ大輝正博の回顧記事にて、金月の教育をもっと厳密にしておけば、死球から逃れる術を伝授しておけば、繰り言が連ねられていたからだ。
金月への指導失敗を糧として大輝が後に編み出した方法が、三日に一度の割合で行われている特訓とほぼ同じものなのだから。
大輝が名伯楽となったのは考案した独創的な練習法で幾多の才能の原石を丁寧に研磨し、タイトルホルダーなる宝石に仕立て上げたからである。
要は光一郎の提案とは、カンニング的な先取りでしかない。成功する事が決定されているのだから、注意せねばならないのは怪我せぬ事とさせぬ事のみだった。
思い悩む必要のない光一郎と違い、金月の悩みは深まるばかり。
特訓に打ち込めどいっかな実感が湧かず、日中の練習にもどれだけ反映出来ているのかも判らず、はっきりとした成果が得られぬ事に一度ならず愚痴を零す金月だったが、大輝の返答は常に“大丈夫だ、安心しろ”であった。
その言葉が嘘でないと証明されたのは春季キャンプが終了し、オープン戦が始まってからの事となる。
オープン戦開始から10試合目のその日。
城南市民球場で開催された試合は、二人の主役とその他大勢にとって記念すべき重要な試合となった。
主役の一人目は、昨年に現役引退した江原豊である。
広島キャナル対埼玉レイカーズの一戦なのだが、実はその試合は江原投手のプレ引退試合でもあった。
何故プレかといえば、正式な引退試合はオープン戦の最終戦となる本拠地での試合と決定されていたからだ。
しかし、レイカーズ以外にも複数の球団に在籍した江原は、未だ広く野球ファンに絶大な人気を誇っている。売り上げを気にする経営側からすれば、最高の客寄せパンダだった。
特に熱烈なラブコールを発したのは、悲願の日本一を江原の活躍で達成した広島キャナルと東京ファルコンズの二球団だ。
どちらとの試合を引退試合にするかでレイカーズの球団幹部達は迷ったが、やはり本拠地で行うのが妥当として東京ファルコンズ戦を選択する。
代わりに遠征先となる広島キャナル戦では、江原による始球式を行う旨を打診し、合意に至った。
昨年までと同様、背番号18を背負った江原は現役時代と変わらぬ貫録満点のフォームで速球を投げ込む。
大入り満員のスタンドから送られる声援に大きく手を振りながら千両役者が場外に下がるや、プレイボールが宣言された。
先発は、キャナルが新人王候補の呼び声高い長嶝浩志、レイカーズが先発復帰を目指す徐泰源。
投手戦が期待された試合だったが、展開は真逆の点取り合戦のシーソーゲームとなる。
初回表、レイカーズのトップバッター立木安志がいきなり先頭打者本塁打をかっ飛ばした。
二回裏、中嶋清幸が放った2点タイムリーでキャナルが逆転。
四回表、新外国人のブロデリックが振り出しに戻す同点の犠牲フライを打つ。
五回から七回は両軍共に中継ぎが踏ん張り無失点で切り抜けるも、終盤に試合は再び動き出す。
八回表にレイカーズが連続タイムリーで2点を勝ち越したが、直ぐ裏に飛び出したベテラン安原浩二の3ランでまたもやキャナルが試合をひっくり返した。
そして九回の表、森山と同じく今年の新人監督である愛川準郎は中継ぎエースの川久保順に変えて、抑えである小池誠二を投入。
小松竹織前監督時代から先発完投が当たり前のチーム事情の中で抑えを任される小池は、登板数は少なくとも切り札的存在であった。
それもその筈、レイカーズに在籍していた四年前はリーグ優勝と日本一に大きく貢献した投手なのだから。二年前にドラフト4位で入団した古巣のキャナルに戻ってからも、決め球のパームボールを駆使して好成績を挙げている。
だが去年の夏以降から度々肘の不調を訴えるようになり、今年も万全に働けるのかは未知数であった。
投打共にベテランが多く、チーム再編が喫緊の課題であるキャナル。愛川はオープン戦の結果次第で大鉈を振るう算段をしており、小池の登板も戦力見極めの一環なのである。
案の定というべきか、愛川の危惧が現実のものとなった。ワンアウトから二安打一四球で満塁のピンチ。不安げな眼差しで小池はベンチを見るも、愛川は動かず続投を促す。
代わりに動いたのは、森山であった。二番笠原永時の代打として送り出したのは、それまで暗い顔でベンチを温めていた金月である。
オープン戦が始まっても打撃の調子は打球と同じく上向かず、ずっと低空飛行のままだった。
スターティングメンバーとして起用されても八番ファーストとして。ここ3試合に限れば代打での途中出場ばかりだ。
金月からすれば短いながらもこれまでの野球人生の中では全くの未体験である試合参加の仕方である。戸惑いばかりが先に立ち、バットのように空回りしていた。
プロの一員として試合に出場する事、プロの投げる実戦の球と対する事、ほぼ休みなく何週にも亘って試合が続く事など、何もかもがアマチュア時代と違うのだから当然であろう。
初めて尽くめに対応するのが精一杯の上、夜間の特訓も継続していた為に精神的には一杯一杯の金月。
しかし、それらは克服せねばならぬハードルであると理解する心理的余裕だけは失わずにいた。首脳陣が成長を期待し、尽力してくれている事に感謝する余裕も。
学生時代よりも“有難うございます”と言う回数が格段に増えた金月の毎日。
尤も、光一郎に対してだけは“勘弁して下さい”を連発するのだが。
軽く素振りをしてから歩み出す金月に、大輝が近づき何事かを囁いた。その瞬間、金月の背筋がピンと伸びる。顔色にも赤みが宿った。
己を鼓舞するように一言吼えた金月が足元を均し、バッターボックスで力強いスイングをするのを見て、小池はマウンド上から正捕手の滝口光男に素早くサインを送る。
頷いた滝口は主審が試合再開を告げると同時に、僅かに体をバッターボックス側へと寄せた。
初球のパームボールは内角高目に外れて、ワンボール。
二球目は真ん中低目のカーブが空振りを誘い、ワンストライク。
三球目は内角へのパームボールが外れて、ツーボール。
四球目はド真ん中の速球が打ち損じとなり外野スタンドへの大ファールで、ツーストライク。
五球目は内角を突いた速球が僅かに外れて、スリーボール。
そして六球目。
内角高目に投じられた速球をじっくりと見定めた金月は、自然な動きで一歩後ろに下がる。動かなければ顔に当たっていたかもしれないボールを、金月は平然と見逃したのだ。
腹の底からの安堵の息をついた金月は小走りで一塁へと進み、一塁コーチを兼任する馬場の手荒い歓迎を受けた。
そこで金月は初めて気づく。死球ではなく、冷静な判断で四球での押し出しを選んだ事に。
慌ててベンチを見遣れば森山が、大輝が、弥永が、笑顔で手を叩いて祝福をしてくれていた。特訓の成果を噛み締めながら、小さなガッツポーズでそれに応える金月。
もう一人の主役が実に地味な形で誕生した瞬間であった。
因みに試合は、引き分けでゲームセットとなる。
小池に代わり登板した辻谷恒美が景気よく剛速球を投げ込み後続を封じるも、光一郎ののらりくらりとした若々しくない投球の前にキャナル打線も沈黙したからだ。
試合後、レイカーズとキャナルで培った球友達を引き連れ夜の街へと繰り出していく江原。
日高修や肝付祥雄らと楽しそうに肩を組むその後ろ姿を、金月は光一郎と共に宿泊先のフロント前で見送った。
二十歳未満でなきゃなぁ、と口を尖らせる光一郎。
その仕草が年齢通りである事に、金月は思わず笑ってしまう。どれだけ偉そうな振る舞いをしていても、所詮は一歳年上の未成年なのだ。
「笑とけ、笑とけ、来年になったら蜂蜜味のレモンジュースをちびちび飲んどるキンタローの前で、ボディコンのねーちゃん侍らせて、100%麦芽のビールをガボガボと飲んだるさかいに」
「好きなだけ飲んだら宜しいがな。まだ一年先の話ですけど」
「おお、そうや。飲みモンで思い出したわ。寝る前に今日も、青汁飲んどけよ」
「え、今日は飲まんでもエエんと違いますん!」
「誰が飲まんでエエって言うたんや?」
「大輝コーチが絵本さんからの伝言やって、今日の試合中に……」
「アホ言え、俺がコーチに頼んだ伝言は、内角に手を出したり当てられたりしたら青汁1ℓイッキやからな、や。
言いつけ守ったんやから伝言通りに、1ℓイッキは無しや」
「せやったら」
「せやけど、一滴も飲まんでエエとは言うてへんで」
「サギや!」
「ほな、キンタローはカモやな。言葉の意味をキチンと理解せず早合点したそっちが悪い」
「ひっでぇー」
「ほらほらホテルで騒ぐんは周りの迷惑やで、早う部屋戻って青汁で乾杯すんぞ」
ケッケッケと笑う光一郎の背中に“ホンマ、勘弁して下さいよ”とボヤキをぶつけながら、金月は思う。
いつになれば目の前をわざとらしく闊歩する先輩と肩を並べられるのだろうか、と。
たった一年の年の差ながら、プロの世界で得た経験値は莫大な差となっている。
相手はルーキーの自分に近しい立場でありながら、監督を含めたチームの多くから絶大な信頼を寄せられているのだ。
結果を出して褒められる自分と、結果を出す事が求められる相手。
その差は果てしなく大きいが、これからも練習を続ければ、努力を怠らなければ、いずれはきっと、必ずや。
秘めた闘志を確認しながら金月は力強く足を踏み出す。
踏み締める一歩一歩が、千里の道を踏破する事に繋がるのだと信じて。
結論を言えば、前世での経験値が20年以上ある為にいつまで経っても光一郎には追いつけやしないのだが、それは……金月の知りようのない話である。
1986年に、サントリーが「モルツ」と「はちみつレモン」を発売。
ボディコンの女性が世を賑わせた頃でした。