入団0年目「まるで猫目石の輝きのように」Track①
さて、始めてしまいました。
何故に転生物なのかと言えば、その方がやり易いからで。
更新は遅めですが、良ければお付き合い下さいませ。
誤字誤表記の報告に感謝を!(2021.05.03)
カーテンの隙間から差し込む光は、まるで猫目石の輝きの如く。
霞がかかったようにぼやけた視界を一瞬だけ、鮮やかにした。
更に光を求めようと男は瞼に力を入れようとするも果たせず、男はかさついた唇の隙間から僅かに吐息を漏らす。
全てを諦めたかのような吐息は直ぐに室内の空気に溶け込み、何処へかと消えてしまった。
もっと光を、って誰の言葉やったっけ?
まぁ誰でもエエか。
男は仰臥したまま目を閉じる。その眦から一筋の涙が零れた。
俺の人生では終ぞ見た事のない光やったなぁ。
いや、そうでもあらへんか。
18歳の時は……あんな風に光輝いとった筈やけどな。
出来る事ならあの輝きを……二十代でも三十代でも手にしていたかったなぁ。
何で手放してしもうたんやろう、ホンマ勿体ない事したわ。
もっと体を大事にしていたら、つまらん怪我ばっかせぇへんかったら、もうちょい真面目に練習しとったら、今も二ヒッと笑えていたんかなぁ?
その日、ひとりの男が病院で息を引き取った。
1984年のドラフトにおいて名古屋ドルフィンズに4位指名され入団。一軍デビューはプロ二年目に中継ぎ要員として。
小柄ながら強気のピッチングスタイルで期待されるも度々怪我に悩まされ、現役生活は僅か三年であった。
通算成績は2勝8敗。防御率は6.33。
引退後は打撃投手を、ドルフィンズを皮切りに埼玉レイカーズ、東京ギャラクシーズ、阪南ブルズ、横浜ビッグスターズとエキサイト及びワイルドの両リーグで計20年勤めた後、故郷の大阪市内でバーを経営。
マウンド以外では温和な人柄で多くの球界人に愛された男は、昨年の8月に癌を発症する。約1年の闘病の末、死去。享年53歳。
近親者はおらず、高校時代からの友人が喪主となり、多くの知己に見送られた男の死亡記事は、プロ野球選手としての実績は乏しい割には決して小さくないサイズで、スポーツ紙に掲載されたのだった。
思いつきとノスタルジーだけを頼りに、知識は泥縄方式で始めましたが、気力と体力に難ありで暫く滞っておりました。ちょこちょこと書き直しをさせて戴きます。