二 老黒山
牡丹江省東寧県、白刀山子西方
小隊の士気は最悪だった。土砂降りだった雨は止んで来たが、却って隊員を意気消沈させる。行動を妨げるものがなくなったから歩き続けるしかない。疲労で重い足の運びが、泥濘でさらに遅くなる。空は暗く足元を見ていたから、上官の前を通り過ぎたのも失念したらしい。
「兵隊、どこへいく」
ぴかぴかの革脚絆が、顔を上げる大島伍長の目に入った。夏用軍衣を着た中尉が、岩の上に腰を下ろして煙草を燻らしている。
「満州第一五二八二部隊第七中隊、特設増強対戦車小隊、小隊長代理の大島伍長であります!本隊に合流するために、大喊廠へ行軍中であります」
「大喊廠?方角が違うようだが」
「はっ。石門子から城子溝へ抜けようとしましたが、敵軍の占領下であり、大肚川方面も抜けられません。老黒山から羅子溝へ山越えを考えております」
その中尉は、しばらく思案しているようだった。大きな眼から遠慮のない視線が注がれる。大島伍長は赤面の思いだった。半数が戦死して指揮官も失った小隊は、まさに敗残兵そのものだった。
近衛文隆砲兵中尉は、目の前の一団をどう判断したものか迷った。雨でびっしょりと濡れた軍衣はずたぼろで、前線から来たのは間違いないのだろう。しかし、小隊長も先任下士官も戦死した割りには、五十人もいる。上官を殺めて戦場離脱した脱走兵の集団に見えないこともない。
兵たちの中央には馬のない荷馬車があった。車輪は泥に喰い込んでいたから、かなりの重量があるらしい。防水布の代わりに雨外套がいくつも掛けられてあった。よほど大事なものなのだろう。
中尉の視線に気がついた伍長が合図した。兵隊が取りつき、荷馬車の固縛が解かれる。覆いを取るとき、兵隊は手を合わせた。
「え」
中には対戦車爆雷の梱包がいくつも重なっていて、一番上には、外套で包まれた骸があった。階級章は少尉だ。近衛は飛び下りると、最敬礼をする。
「小隊長の木谷少尉どのです。後方で荼毘にと思いました」
「そうか」
戦死者の死体は、五十を単位に焼くことになっていた。燃料がない時や作戦行動中は、形見だけ残して土に埋める。兵隊なら指を切り取り、士官の場合は首から切り残すのが通常で、後で焼いて遺骨とする。明日はわが身だ。
牡丹江省東寧県老黒山鎮
大島小隊は二棟をあてがわれた。満人の商家の入口には『満州国政府接収』と貼紙があった。火を起こして軍衣を乾かし、分けてもらった兵糧を炊飯する。米飯は三日ぶりだった。食事が終わって身奇麗になった小隊は集合し、少尉の遺体と戦友の形見を焼く。辺りの草木はまだ濡れていたので、敵戦車から抜いた軽油を使った。黒煙が濛々と上がり、兵たちの目を燻す。
宿舎に戻って整理しているところに、生嶋軍曹がやって来た。大島とは大村中学校の同級生である。本籍は山口県で、兵役は下関の重砲兵に入隊していた。配属された哈爾浜阿城の重砲兵第三連隊は昨年一〇月から下城子駐屯となったから、東寧で再会できた。それから図們へ移駐すると別れたのは五月だった。
「たいへんだったようだな」
「歩兵はこんなものだ。図們にいたのじゃなかったのか」
「それが、また下城子に移動となった。今月の話だ。本隊はもう向こうだ。俺たち第三中隊は、移動中に開戦となった」
「そうだったか。とにかく助かった。直撃弾で兵糧はすべて失った」
「山口も中島もだめだったか」
「中島は指揮班にいて蹂躙されてぺしゃんこだ。山口は五両目を狙って機銃にやられた」
大島らの第七中隊は、連隊から分遣されて、独混一三二と共に東寧要塞に残留していた。しかし、陣地内には入れず、開戦の日は再右翼の白刀山子にあった。すぐ北の石門子はソ軍大部隊の侵攻にあったが、どういうわけか、白刀山子には来なかった。
第七中隊は撤収して本隊に合流せよとの命令が来たのは、一昨日だ。小隊は、中隊本部から離れて対戦車配置にいたから、出遅れた。そして昨日、石門子に入ったあたりでソ軍戦車部隊に遭遇した。追撃されて全滅の危機にある中隊を見ては、退却も出来ない。作戦もなにもなく、特設増強対戦車小隊は戦闘を開始した。
「だが敵戦車を九両もやったのだろう」
「ああ、背後からの攻撃だったからな。最初だけだが」
「百人もいた小隊の半分が戦死か」
呟いた生嶋は、官姓名が書かれたドロップ缶や薬瓶に向かって合掌する。遺骨が入れてあった。大島が沈黙すると、生嶋は時計を見た。
「すまんが、中尉の前でもう一度話してくれ。この先の敵の状況も聞きたいそうだ」
「もちろんだ」
牡丹江省東寧県、興寧線老黒山駅近傍
機動第二連隊第八中隊長の小山中尉は、直属する第二大隊本部にいた。大隊長の石居大尉は仏頂面で、小山の意見具申を聞いている。
「連隊の本分は隠密行動での遊撃戦にあります。あんなでかい大砲に居座られては、迷惑なのであります」
「撃てば目立つか」
「二十四糎榴弾砲と聞きます。発砲の白煙は数十メートルも上がり、濛々と、しばらくは消えません。十数キロ先からも判別できるでしょう。ところが射程は十キロしかないのです」
「有利ではないな。貴公がソ軍だったら、どう攻撃する」
「はい。まず門数を確認します。真上から落ちてくる大口径榴弾の威力は絶大でありますが、射撃速度が遅いのが弱点です。陣地移転には一日を要します。野砲は移動展開が迅速で、低伸する射程は大口径に匹敵します」
「なるほど、その通りだ」
石居大尉が感心して身を乗り出すと、小山中尉は手帳を出して鉛筆を走らす。
「このように、野砲が発煙弾を撃った後、戦車を進撃させます。半分進んだ時、この場合五キロですが、戦車は停止して射撃開始。野砲の半数が前進し、半数は煙幕射撃を続行します」
「わが榴弾砲陣地からは見えない」
「はい。野砲が五キロ進出して射撃開始するまで十数分です。今度は榴弾を撃ちます。同時に戦車部隊が進撃再開です」
「まずいではないか」
「さらに、残っていた半数の野砲が前進、射撃中の陣地を跳躍してこのあたりまで」
「詰みだ」
「はっ、無念です」
小山の嘆息をよそに、石居は赤鉛筆を出して手帳に書き足す。
「これが老黒山の地形だ。左右に山が逼った狭い扇状地だ」
「その通りであります」
「それで、わが隊はどう防ぐ?」
「はい。敵作戦の弱点は十キロ陣地から五キロ地点までの進撃時にあります」
「おっ、そうか」
「はい。この五キロの進出速度が肝であり、それゆえ無防備となります。ここで敵が進撃できる幅は二キロを切ります。山地に陣取ったわが連隊の射程内であり、挺進攻撃も可能です。伏撃が有効でしょう」
「よし、もらった!その作戦を採用する」
「えっ」
小山中尉は中隊本部に帰って、呼集した小隊長らに訓示する。
「連隊は全力で重砲兵と協同する」
「えーっ。また作業に出るのですか」
「手伝いは出さない。重砲兵は勤務部隊を手に入れたもようだ」
勤務部隊には陸上勤務、建築勤務や兵站勤務などがあり、工兵隊や輜重隊の作業実務を担当し、軍属の比率が多かった。退院間近の傷病兵が、軍務復帰の前に配属されることもある。有体に言うと力仕事だ。
老黒山は東寧要塞の後方で交通兵站の拠点だったから、独立勤務中隊の本部や宿舎が多く置かれていた。開戦後、満鉄が撤収して連隊本部が移動すると、陸軍病院や兵器廠と共に各種勤務部隊もいなくなった。
数日前から、第八中隊は重砲兵中隊の支援に派遣されていた。支援とは陣地構築や弾薬の運搬で、つまり勤務中隊の代用である。立ち往生していた重砲兵第三連隊第三中隊は、老黒山に陣取ることになった。第三軍司令部命令の肝いりだ。よほどの事由があるらしく、独立重砲兵中隊の扱いである。近々、羽須美連隊長も出張って来るという。
「重砲兵の攻撃目標は、羅子溝攻略に向かうソ軍の戦車部隊と砲兵部隊だ。わが大隊はこのように布陣し、重砲兵陣地の前進防御にあたる」
中隊附少尉が作戦詳細の説明をはじめる。脇の椅子に腰を下ろした小山中尉は、わが作戦は完璧だと頷く。
牡丹江省東寧県老黒山鎮
大島伍長は、重砲兵中隊の士官たちの前で、ここ二日間の戦闘を披露した。見習士官たちは若かった。大島の方が年上らしい。全員が目頭を熱くして聞いていた。特に、山口分隊の全滅の段では嘆声が漏れる。山口兵長が最後に持った九九式破甲爆雷は不発だった。
羅圏周辺の状況を聞き終わり解散する。中尉の部屋には大島と生嶋が残った。中尉が声をかけると、当番兵が洋酒の瓶とコップを持ってきた。皿の上には炙ったするめがある。中尉はコップを目の前に掲げた後、呷った。二人も見習う。
「第三中隊は最後の組でね、本部が持ちきれなかったモノもあってね。これは連隊長の荷物さ」
「よろしいのですか」
革脚絆をはじめとして、中尉の軍衣には私物が多い。将校だからそれはいいとしても、上官の荷物を開けるのはまずいだろう。
「なに、親父から連隊長への付け届けなのさ。アカでも息子は可愛いんだな、あはは」
大島は何と答えたら良いのかわからない。生嶋を見ると、平気で飲んでいる。よくあることなのかも知れない。
「中隊長、山口兵長は一人息子だったのであります」
生嶋軍曹が山口のことを話し始めた。親は退役軍曹で、大村市内で工場をやっていること。中学を出ると東京の専門学校に入ったこと。軍隊が好きで教練はずっと優等だったこと。
「家業を継ぐために幹候を辞退したのか。いじめられただろうなあ」
「それでも兵長です。実力は無視できません」
「わかるよ。僕も幹候だから」
「古今の作戦を研究してました。よく聞かされたものです」
「ほうほう」
「大島、山口の軍人手牒はあるか。中に作戦図が入っている」
やはり来たかと、大島は思った。生嶋は酒はそう強くない。山口の奉公袋は個人壕に残っていた。大島は雑嚢から山口の軍人手牒を出し、紙片を取り出す。
受け取った方眼紙を机に開いて、中尉は腕を組んだ。
「これは、西正面だね。うん」
それきり黙って、熱中する。方眼紙には符号と矢印と数字がびっしりと書き込まれてあった。中尉は書かれた日付を見ながら、指先で矢印をなぞる。たしか三週間ぐらいの反撃作戦だったが、二人も本気で見たことはない。
「たいしたものだ。予備士官学校なら優等で通るよ。陸大出に見せてみよう」
「それほどのものでありますか」
「うん、下手すると陸軍刑務所だ」
「そこは大丈夫でしょう。山口の従兄弟さんは吉林憲兵隊の憲兵大尉であります」
「忠義の軍人一家だね。うちは不忠のアカ一家さ」
大島伍長は目を剥いた。
「ちょっと待ってくれたまえ、従兵に書き写させる。あれ」
中尉が紙片を返すと、裏にも作戦図があった。生嶋も、大島も知らなかった。最近、書かれたものらしい。
「東正面だ。オーストラヤ山奇襲って、すぐそこじゃないか」
「ええっ」