一 虎頭
東安省虎林県虎頭鎮、猛虎山
朝からぱらついていた雨は本降りになっていた。暗い空からしゅうんと空気を引き裂く音が落ちてきて、近くで爆発が起きる。軍衣をびっしょりに濡らした少年兵が叫ぶ。
「四発目です、曹長どの!」
「よし」
敵の迫撃砲の弾着は近くなって来ていたが、砲座の前にわずかばかり残った立ち木が命中を拒んでいる。しかし、銃弾は木々の間をすり抜けて来た。砲の前盾に命中弾が連続して音を立てる。
「重機も来たようです、中隊長」
「ああ、まもなく突っ込んでくるか」
ソ軍の迫撃砲射撃は三発が一単位だ。砲弾携帯箱が三発入りで、一門あたり二箱の割り当てだからだ。六発撃つ間に機関銃班が前進し、狙撃兵は突撃の準備を整える。そう、歩兵中隊長が言っていた。もう、一分もない。
左手に閃光が走り、爆風に追われるように数十名の一団が交通壕を走って来る。弾薬が尽きた三十榴小隊が砲を破壊して撤収して来たのだ。
「止まるな、そのまま走れ。頭を上げるな!」
最後尾を走って来た少尉が、壕の中から申告する。
「二門とも破壊を確認しました。戦死なし!」
「ご苦労、少尉。中まで走れ!棲息所で休息せよ。復唱不要!」
「はっ」
背後で爆発が起きて、振り返る。
「五発目ーっ」
「曹長、撤収する。砲を破壊する前にあれをやろう」
すでに二四榴小隊も残弾はなかったが、曹長は笑って答える。
「二門とも装薬三包です、中隊長」
「よし。目標敵兵、弾種なし、装薬三号、距離零、撃て!」
限度まで俯角を取った四五式二十四糎榴弾砲から閃光が迸った。砲口から放たれた数十メートルの火炎は、その高温で進路にあるものを燃やし尽くす。雨水で濡れた地面から水蒸気が上がり、あたりは白く濛々となった。
ソ軍の攻撃は数分の間、中断した。その隙に、猛虎山の南東面、虎東山との谷間にいた砲兵第二中隊は、砲を破壊し撤収する。中隊長の川崎中尉は、一番最後に東入口を潜ると、壁を背に息をついた。隣にいた兵隊が煙草を差し出す。
「どうぞ」
二四榴小隊の谷川曹長だった。
「ありがとう。よくやったな、曹長」
これで、中隊の砲はすべてなくなった。この後、どうやって戦うのか。歩兵銃での夜襲斬り込みか、爆薬を持たされて戦車に突撃か。だが、それは歩兵の挺進であって、砲兵の戦いではない。それぐらいなら、さっき砲を破壊した後に突撃した方がまだましだった。なぜ許可されなかったのか。
もとより虎頭要塞は攻勢作戦用の要塞である。それも開戦奇襲を前提としていた。劈頭の大口径砲の斉射によってソ国境陣地の重砲を沈黙させる。シベリア鉄道とスターリン街道を破砕し、ソ軍の移動と増援を不能にする。そこへ一気に大兵力を渡河投入して、ハバロフスクとヴォロシロフの連絡を断つのが作戦の要諦だった。
要塞の中心部である猛虎山陣地は厚さ二メートルのベトンで囲まれているから、もちろん防御も固い。しかし、黒河や海拉爾などと違って縦深がなかった。地勢的に、虎頭は重湿地帯に浮かぶ孤島であり、東安と往来できるのは鉄道と街道だけだ。路を外れれば、歩兵でも行軍は困難であり、迅速な機動はとれない。
要塞の存在はあくまでも大口径砲にあり、それゆえに重砲兵のための永久陣地だった。早くも開戦初日からソ軍の包囲下におかれたが、砲撃は続行できていた。しかし、備蓄した弾薬には限りがあって、三〇榴と二四榴は撃ち尽くした。第一中隊の四一榴と一五加は、あと数日分はあるらしい。
煙草を踏み消した曹長が顔を上げた。
「中隊長、今夜の夜襲に同行したいと思います」
「まだ早い。一晩ぐらいはゆっくりしろ」
「ありがたくあります」
そこで曹長は声を落として言う。
「敵さんの野砲を偵察しようと思ったのであります」
川崎は目を丸くして、曹長を見つめる。てっきり斬り込むのかと思ったが、早とちりだったようだ。曹長はソ軍野砲の鹵獲を考えているらしい。
「牽引車も燃料もあります。要塞に引き込めなければ、その場で撃ってもかまわない。失敗に終わっても、砲兵らしく死ねます。どうでしょう」
「げふん。砲兵隊長に上げる前に、虎嘯山に分遣した速射砲隊に聞いてみよう。向こうからがよく見える。闇雲に探しても無駄足を踏む。まず見当をつけてからだ」
谷川曹長は敬礼した。
「ありがたくあります」
ソ連は奇襲に失敗した。八月七日開戦の噂は本当だった。モスクワでソ連外相が宣戦布告を告げたのは六日の夜七時過ぎ、日本時間では七日零時になっていた。
実際にはソ連の攻撃は六日の朝に始まったのだが、それでも奇襲とはならない。前日の越境騒乱事件を受けて、国境線はどこも厳戒にあったからだ。新兵と住民を加えて二千名となった第一五国境守備隊の全員も、すでに陣地に入っており、戦闘配備で夜を明かした。
「すると、ソ連は慌てて宣戦布告を出したというのか」
「はい。本来の計画は八日払暁、それ以降だった可能性もあります」
「黒山頭と于匣屯で引っ込みがつかなくなったか」
「それはありません。開戦を早めたのは広島の新型爆弾でしょう」
「なんと」
「日本も満州も、関東軍さえ、ソ連の眼中にはありません」
「あるのは米国と米軍だけか。ふん。愉快な話ではないな、アレクセイ中校」
「くやしい話です。西脇隊長」
たしかに、六日朝のソ軍の砲撃は散発的だった。野砲や対戦車砲など十門ほどの小口径砲によるものと思われた。大口径砲が加わって苛烈になったのは、正午をだいぶ過ぎてからだ。ソ国境陣地守備隊が持つ、20榴二十六門、15榴四門、10加四門が一斉に間断ない射撃を始めた。砲撃は猛虎山に集中した。そしてソ軍の渡河が始まったのだが、濛々たる噴煙の中で、反撃できる状況にはなかった。
虎頭要塞は猛虎山を中心として、北に虎北山、東に虎東山、西に虎西山と虎嘯山とに陣地を持つ。南は虎頭街と飛行場の間に辺連子山陣地があったが、部隊は引き揚げていた。ソ軍の渡河は南西の飛行場、南の虎頭街、そして虎北山の北方に向けて行なわれた。虎東山の東はウスリー川だから、つまり要塞はほぼ包囲された。
虎北山西方から虎西山北方にかけては、猛虎山を狙うソ軍重砲の射線にあたる。味方射ちになるから、この方面にソ軍が進出するためには、まず重砲射撃を中断する必要がある。一五国守隊長の西脇大佐はそれを持して、ずっと反撃を禁止していた。守備隊は各陣地の穹窖内で反撃命令を待った。
「大木大尉、入ります」
「おう」
「三〇榴と二四榴の弾薬が尽きました。そこで敵野砲の鹵獲を計画しました」
西脇隊長が頷くと、大木大尉は会議机の上の要塞地図上で指差す。
「この砂利取山あたりにソ軍野砲大隊の陣地があります。このように虎西山を経由して鹵獲部隊は陸軍病院まで進出、虎嘯山からの陽動攻撃を待ちます」
虎西山の南にある砂利取山と陸軍病院の間には、要塞内を東西に結ぶ道路が走っていたから地面の状況はいい。その南方、ソ軍にとっての背面も虎頭飛行場から連花河と一直線で、補給にも都合がよかった。ここにソ軍は76ミリ野砲十二門を据えて、猛虎山を挟撃していた。
「今夜か」
「できれば今夜にも」
西脇はしばらく考える。たしかに猛虎山の南と西にはソ軍が蟠踞していた。特に西は大きく喰い込まれて、四一榴砲塔陣地が視認される怖れがある。しかし、今夜の夜襲斬込は虎頭街のソ軍戦闘指揮所に決定していた。虎嘯山の陣地も単独で陽動攻撃を仕掛けるまでの余裕はない。
「歩兵隊長と協議する。一八〇〇に出直してくれ」
「それでは」
「今夜はない。まだ一週間も戦っていないぞ」
「はっ」
「それから。出撃する以上は、四門は持ち帰ってもらう。砲兵のくせに討ち入って死ぬなど、許さん。作戦を練り直せ」
「はっ。再考します!」
「よし」
砲兵隊長が出て行くと、西脇は椅子に座り込んで煙草を咥えた。アレクセイ中校がポケットからライターを出して火を点ける。
「なかなか、持久は難しいものです」
「ああ。下から突き上げられたのだろうが」
「孤立無援なのは間違いありません」
「貴公らはやって来たではないか」
「任務ですから」
「そう、任務だ。虎頭要塞の任務は持ち堪えることだ」
「必要とされています」
返事の代わりに、西脇は煙草を深く吸い込んだ。
紅潮した大木大尉は、砲兵棲息所に入る前に主窖通路で水筒の水を飲んだ。士官室に行けば、日の丸食堂の主人が作った代用コーヒーが飲める。だが、今は頭を冷やすのが先だった。要塞の各部室は暖房が入っていたが、直径八メートルもある主窖は涼しく、寒いくらいだ。大木は、西脇隊長の言葉を噛み締めた。
一ヶ月は戦わなければならない。砲兵隊では指揮官の意図を徹底するのが疎かになっていた。それは、他ならぬ大木の責任であり、失策だ。だが、まだ取り返しはつく。そして歩兵との協同だ。野戦ではない。要塞内で砲兵と歩兵がばらばらに戦ってどうする。歩兵砲も速射砲も、ただ歩兵小隊に分遣するだけでは十分ではない。
大木の頭の中には、これからの行動予定が浮かんできて形となった。まず、二人の中隊長を殴る。それから一ヶ月の持久戦闘を再度徹底する。殴る前に一応は、隊長の訓示を復唱させてみよう。それから、歩兵隊長の元へ行く。よし。大木は歩き出した。
西脇隊長の決心は果断で的確だった。開戦初日の夕方、虎頭要塞は反撃を開始した。それまでの沈黙を破って、四一榴、一五加、三〇榴、二四榴の巨砲群が一斉に火を吹く。そして、二時間足らずで、在来シベリア鉄道の旧イマン鉄橋、迂回線の新イマン鉄橋、さらにスターリン街道のワーク川木橋群をすべて砲撃した。ソ軍は要塞が健在だったことに驚愕したであろう。
さらに、上陸したソ軍の中へ夜襲斬り込みが決行された。工兵隊は虎頭街を爆破焼却し、虎嘯山の速射砲と歩兵砲は虎頭街道を破砕する。ウスリー対岸から砲撃があったが、すぐに止んだ。夜間、敵味方混在の中に重砲を撃ち込むとは、よほど混乱したのだろう。味方射ちを怖れたソ軍上陸部隊は、反撃よりも退却を優先した。
明け方、斬り込み部隊は将校を含む十数名の捕虜を引き連れ、悠々と凱旋した。報告を受けた第五軍司令部は、情報将校を派遣すると確約した。満州国軍のアレクセイ中校を長とする特務通信隊が到着したのはその夜だった。まるで、近くで待っていたような早業だ。中校は第五軍司令官直筆の命令書と入窖許可証を持参していた。要塞に入るには、軍人でも特別の許可が必要なのだ。