三 新京
国都新京、洪熙街
満映撮影所第三スタヂオの関東軍総司令部では、中佐の階級章をつけた作戦参謀の戦況報告が続いていた。
「北西方面。海拉爾要塞は健在です。敵第36軍の主力は今、鳥奴爾から博克図まで六十キロの峡谷に渋滞しています」
「おおむね索倫の防衛陣と同じだね」
「はっ」
閑院少将宮春仁王は地図を見て頷いた。鳥奴爾から博克図は大興安嶺が最も険しい辺りにあり、その谷は索倫のそれよりも深かった。また、博克図が抜かれることがこの先あっても、索倫や興安を守る第四四軍と連結することが出来る。その場合は、斉斉哈爾から白城子の前面に防衛線が構築されるだろう。
「思い切って引き込んでみて、正解でしたね」
「ま、ほかに選択肢がなかったのも事実だ」
これまでの戦訓と哈特の分析からソ連侵攻軍には補給に難があるとわかると、関東軍は内線作戦への移行を模索した。国境線で弾薬を消耗した敵を引き込み、複数の補給線を伸長させる。それだけでは量の問題となるが、内線の関東軍とて補給が潤沢なわけではない。特に兵員と重装備は限界だった。しかし、思わぬ収穫があった。
「北です。孫呉は抜かれておりませんが、敵の一部が東へ迂回中のもようです」
「あそこらは重湿地が多いが、時間の問題となるか」
「はっ。独混一三六の主力は嫩江から北安へ移動しつつあります。独混一三一も北上中です」
黒河ヘ侵攻したソ第2赤旗軍は、孫呉を迂回して小興安嶺山中へ入った。北安か海倫へ抜け出るだろうから、その前面へ予備の独混一三六と一三一を廻す。しかし、両旅団とも装備・火力は貧弱だ。
「佳木斯の第一三四師団が後退を開始しました」
「已むを得ん」
「鶴崗の浅野部隊は健在です」
「しばらく潜んでいてもらうか」
今次の防衛戦において、北と北東の二方面は、関東軍にとって悩ましい問題であった。北の黒河から孫呉方面の要塞線は頑健で小興安嶺の要害も利する。北東では三江省全域が湿地帯であり、進軍は容易でない。だから深刻な脅威ではなかったのだが、敵が大軍の場合は撃退の決定策がない。戦力は東と西に重配分されており、回せる兵団はなかった。
「第一方面軍が立案中だ。牡丹江からの防衛線と連結するか、第四軍の哈爾浜に連結させるか」
「小興安嶺を占拠されます」
「そうなる前に、西正面の結果が出る」
関東軍の満州防衛は破綻しておらず、各方面の迎撃作戦も進行中である。しかし本土進駐が迫った今、終結を見据えて作戦を練り直す時期であった。攻め込まれた側としては敵侵攻軍の撃退が本道である。反撃して国境まで追い戻すか、殲滅するかだ。前線の防衛作戦は方面軍司令部や軍司令部に委譲し、関東軍総司令部では停戦に向けた作戦を起案中だった。
東正面では牡丹江前面の敵軍への反撃と補給線切断で退却を強いる作戦となる。主作戦は敵第5軍への総攻撃で、すでに代馬溝周囲の山中には四個師団があり、後方に二個師団と一個旅団があった。支作戦は敵第25軍の背後への突入とソ連領への侵入作戦で、そのために羅子溝に三個師団が集結中である。
一方、西正面は殲滅作戦だった。領内へ深く侵攻した敵第6親衛戦車軍の壊滅を企図していた。ソ連領内から外蒙、内蒙を越えて侵入して来たソ軍には補給線以外にも弱点があった。
「一昨日の挑南攻防戦では、敵空軍を封じたのが大きかった」
「はい、我が航空部隊の一方的な攻撃でした」
挑南攻防戦では、まず航空攻撃が行われた。ソ連軍の戦闘機は航続距離が短く、興安嶺の西側からでは出撃出来ない。東側に飛行場を急造する必要があったのだが、興安軍が執拗に襲撃してそれを許さない。興安軍の夜間襲撃は野営地にもおよび、ソ軍は十分に補給もできていなかった。
「新型爆弾も有効だった」
「イ号兵器やケ号兵器はあれで終わりですが、タ号は奉天で生産できます」
イ号は音響追尾、ケ号は赤外線追尾の誘導弾だが、モタ一号船団が運んで来たのは本土での試作品で、合わせて三十発だけである。しかし、四式四十粍撒布弾や四式六番二十一号爆弾は、二年前に制式化されたタ弾の改良型で量産できた。誘導弾ではないが、敵戦闘機がいない戦場では落ち着いて照準が出来る。落下速度は遅いが、子弾数十発からなる親子爆弾だから戦果は上がった。
奉天には多くの兵器工場があった。日本陸軍の南満陸軍造兵廠第一製造所は戦車で月産四十両、第二製造所は砲弾や航空爆弾で月産一万発の製造能力がある。火薬は第三製造所だ。ほかにも民間工場で満州三菱機器の戦車、大連機械製作所の索引車、満州光学工業の双眼鏡や照準眼鏡、満州通信機の無線機、満州火薬の炸薬など、満州ではほとんどの兵器が量産できる。
「ないのは特殊鋼ですが」
「第五艦隊が装甲艦を回してくれた」
特殊鋼の製造に必要な重金属の類は、本土でさえ戦前の備蓄に頼っていたから、なかなか満州までは回ってこない。五十年前の船であろうと装甲艦を名乗るからにはそれ相応の材料であろう。ウラジオ軍港の閉塞艦として沈める予定の八雲は、宇垣首相直々の命令で大連まで回航されることになった。
「八雲の舷側装甲は十八糎もあります」
「砲身は無理かも知れんが、装甲板にすればいい」
満州重工業の泣き所は、特殊鋼の製造材料だけでなく、それを加工する冶金技術だったのだが、溶かせばなんとかなるだろう。
八月十三日未明、温存されていた第二航空軍が白城子陸軍飛行場を出撃した。飛行第一〇四戦隊は四式戦闘機「疾風」三十六機、独立飛行第二五中隊は二式複座戦闘機「屠龍」改十二機の全力である。疾風はタ弾二発、屠龍は三機がイ号兵器、九機がケ号兵器装備だった。先行していた独立飛行第八一中隊の司令部偵察機の誘導で、突泉の北方に集結中のソ第7機甲軍団を襲撃した。
航空隊は、戦車部隊に爆弾を投下した後、自動車化狙撃部隊を機銃掃射する。疾風と屠龍が搭載する二十粍機関砲ホ五は、ソ軍戦車T-34の上部装甲を貫けるが、機数に限りがあるので無理はしなかった。帰還してまた出撃すればいい。白城子から百キロは航空機にとって指呼の距離である。まさに、反覆攻撃が作戦の肝だった。上空に張り付いた司偵は、敵軍団の行動を逐一打電する。
「敵が挑南前面に達する前に六回の襲撃」
「百両以上の戦車を撃破しました」
「あれが今日も繰り返されているのだな」
「支那から帰還した戦隊も加わっています」
支那派遣軍に第二航空軍から分派された航空部隊は、飛行第九、四八、第八二、第九〇の四戦隊と独立飛行第五四中隊だったが、そのほとんどが満州に帰還して今日の攻撃に参加する。白城子だけでは収容できないので、鄭家屯や公主嶺に分散された。陸軍飛行場には飛行場部隊が常駐しており、整備部隊も燃料弾薬も準備されている。空地分離に先行した陸軍航空隊の面目躍如であった。
机の電話が鳴った。作戦参謀が出る。
「殿下、本家からです」
「中央通の方か。どれ」
電話に出た少将宮を、全員が緊張した顔つきで見守った。今日の戦況報告には早すぎる。突発事態か、あるいは。
「出かける。私の立会いが必要だそうだ」
「はっ」
「伝令役を一人ほしい」
少将宮は伝令ではなく、伝令役と言った。
「比良君をつけます」
「うむ。すぐに戻る」
閑院少将宮は、秘書と軍服の比良を連れて出て行った。
浜江省哈爾浜、新市街区車站街
関東軍情報部長の秋草俊陸軍少将は、哈爾浜特務機関本部の自室で朝を迎えた。昨日の深夜に米国政府のラヂオ声明があり、さらに中国政府と英国政府の声明が続いた。その分析と裏取りの手配で忙殺され、帰宅の機会を失ったのだ。各国政府の声明は日ソ両国に対しての停戦勧告の繰り返しだったが、秋草は機微を感じていた。
まず、声明発表の時刻だ。昨日午後一一時の米国声明はワシントン時間の午前だから妥当としても、その一時間後の中国声明は異常だろう。そして、日付が変わった今朝の三時の英国声明、ロンドンでは夜九時だ。
「通常執務時間内に行なわれた米国声明に対して、常識外れの時間帯であっても、中英は追従する必要があった」
「そのとおりだ、総務班長」
「間隔はどうでしょうか。中国は一時間後、英国は四時間後です」
「米国の声明には問題提議が隠されており、二国は賛否か何かを反応の遅速で表明した、と」
「はい、穿ち過ぎですか」
「そうは思わんが、主題ではないな。追従する必要に否定はない」
「そうでした」
次に声明の内容だ。
「日ソ両国に対してというのが、第一の問題だ」
「ソ連に対しての停戦勧告は初めてです」
満州や樺太での戦闘行為に関して、これまでは日本に対する停戦勧告だけだった。ソ連に対して停止せよと言うのは重大である。
「マッカーサー最高司令官にソ連軍への命令権限はない」
「連合国と連合軍は別ということです」
「互いに公館があって大使も武官も交換している」
「そこで米ソの協議は行なわれている筈です」
「ソ連は拒絶したのだな」
「あっ」
秋草は総司令部に緊急電を入れることにした。呼ばれた通信班長が文案を筆記する。
「・・米軍の武力介入の可能性を認む。以上だ」
「打電します」
通信班長が出て行くと、小山田中佐はコーヒーを淹れる。秋草は煙草に火を点けた。
「武力介入がありますか、今日」
「総務班長はどう思う」
「早すぎると思います。三日後なら、あるいは」
「上陸した米軍の移動と展開か」
「はい」
東北行営は大連に上陸して進駐を開始したが、米英軍は旅順に上陸している。進駐の開始と同時に、関東州は連合軍の管制下に入り、通行制限と外出制限が施行された。東北行営が北上すると管制区域は拡大され、今は奉天省と安東省の全域が管制下にある。空の管制区域はもっと大きく、南満州は飛行禁止に近かった。情報活動は困難になっている。
「飛行計画を出せば東北行営から許可が出ます」
「今のところだ。それに、飛行計画は攻撃計画と同義だ」
「米軍は営口にも上陸してますね」
「至近にあるからな」
そうか、光作戦かと小山田は察した。皇帝と政府機能を保全するために蒋介石の妥協を得るというもので、甘粕が支那へ飛ぶ直前に発動されたらしい。その一部には関東軍も協力していたが、小山田も断片的にしか知らなかった。部長はもう少し知っているらしい。
小山田は、総務班の一人に米軍戦力の見積もりを持ってこさせた。
「○印が満州用と推測、×印は上陸を確認です」
「△は上陸済みと思われるが未確認か。ふむ」
太平洋方面の米軍地上部隊は第6軍と第10軍が主で、比島は第6軍、沖縄は第10軍だった。順番でいくと満州進駐は第6軍だが、すでに日本進駐が決まっていたとすれば、第10軍かも知れない。
「旅順には第7歩兵師団と第11空挺師団」
「営口に第5海兵師団と騎兵第1師団」
ほかにも六個師団の上陸が推測されていた。合わせて十個師団は大軍だ。
「中国軍が弱体ですからね」
東北行営の持つ東北保安軍は二個師団規模で、士官は重慶からだが、下士官と兵は旧汪兆銘軍からがほとんどだった。中共との内戦が激化していて、満州まで軍を派遣することは蒋介石にとって重荷である。だが、満州の産業と利権をソ連の略奪から守るには、傍観はできない。
「つまり、米国の貸しになる」
「ここに来て、まずい展開です」
「甘粕さんはどうかな」
「え」
総司令部の返電は早かった。ちょうど殿下が居合わせたらしく、日本からの情報がもたらされた。千島に米軍が上陸したというものだ。
「これは!」
「米国の戦略が変わった」
「ヤルタ密約の全面破棄とは思い切りましたね」
「もはや介入ではない。武力行使だ」
「しかし連合国です」
「むろん攻撃対象は関東軍だろう」
「ソ連軍の眼前である必要がありますね」
「どこだ」
問われた小山田班長は、怖ろしい速さで通信綴りをめくる。
「西正面での航空攻撃が完了間近。ソ第5戦車軍の先鋒は開通西方十キロ」
「間に合うな。空挺降下に続いて騎兵師団の進軍」
「いかにも米国らしい」
ブーーー。ブーーー。
突然、館内にブザーが鳴り響いた。単長音は満州政府からの警報だ。
『警報。本日正午より、龍江省、牡丹江省、吉林省、興安南省、四平省、錦州省の上空が新たに連合軍の管制下に入る。当該空域への進入航行は原則不可。ただ今、総務班にて管制・制限区域図を改訂中、各班に配布する』
警報は二度、繰り返される。
『警報。本日正午より・・・・』
二人は壁の時計を確認し、顔を見合わせる。
「他にもあるようだ」
「航空攻撃!」
小山田は飛行場大隊や航空情報隊からの報告電があったことに思い当たる。通信班と総務班から応援を呼んだ。
「部長、前線へ警報を出します。いいですね」
「うちで判断はできない」
そう答えると、秋草は机の電話を取り、総司令部への直通を命じた。
「部長!」
「だが、証拠があれば事実となる。判断は不要だ」
小山田は頷いて、要員に告げる。
「聞いたとおりだ。証拠を出せ」
秋草は受話器を掴んだまま、思った。
(米国は、もう声明を出さないのか?)