一 大興安嶺
興安南省突泉県南西、満州平原
満天の星の下、草原を一騎の騎馬が駆け抜けていく。夏の昼間、気温は三十度を超えることもあるが、夜は十度近くまで冷える。昨日からは風も強い。その涼気の中、馬は白い汗をかいていた。馬は時速三十キロ以上も出せるが、三〇分も続かず、無理すれば死んでしまう。通常は時速十五キロの速歩と五キロの並歩を繰り返すか、休みを入れる。しかし、馬の主にはその気はないらしく、速歩のまま走らす。
騎手は興安軍の軍装で、左腰に軍刀、右腰に軍用拳銃を下げ、被った冬用の軍帽には数条の擦過痕があった。背中の小銃の上に羽織った黄色と黒の縞のマントは母衣代わりらしく、星明りの下でも遠くから判別できた。平原は丘陵にさしかかり、馬の息が荒く大きくなった。前方に白い点が三つほど見えてきた。ゲルだ。馬は仲間の匂いを嗅いだのだろう。
白いゲルがある方向に、オボーが組まれてあった。石を積み上げたオボーは蒙古の標柱で、刺した木枝や布の違いで案内とも伝文ともなる。時に宗教を帯びて、祭壇や結界ともなった。そのオボーは、積石の中に、赤、青、白の数本の矢が刺してある。騎手は馬を並歩に落すと、鞍の矢入れから黄羽の矢を取り出して刺し込んだ。
ゲルの前には数人の兵隊がいた。
「自治!」
「独立!」
合言葉を唱和しながら馬を降りると、すぐにゲルの中に通された。緊急で重要とは、馬の様子からわかる。南側の入口から入ると、中央のかまどが取り払われて机と椅子が置かれていた。しかし、奥の仏壇はそのままだ。騎手は軍帽を脱ぐ。一人だけ日本軍の軍服を着た少佐は右手にいる。無帽だった。
「若水中尉、ご苦労」
「はっ。椙本少佐、生徒第三中隊の攻撃は成功しました。敵は北上する模様」
「南下ではないのか」
そう呟きながら少佐は、机の上の地図に赤鉛筆で×を書き込んだ。生徒第一大隊指揮所は三個中隊を指揮、教導している。赤い印は他にもあった。左手にいた士官たちが身を乗り出す。若水も、出撃後に書き込まれた印を読み取ろうと覗き込んだ。
「再編成かも知れません、椙本少佐」
「そうだな。敵の残存戦力を再確認だ。教導団司令部へ無線を」
大興安嶺山脈は満州国の西を北から南へと走っている。最北部は黒河省でオロチョン族の居住地であるが、残りの興安四省は蒙古人の地である。興安北省と興安東省では山脈は険しく、千四百メートル級の高山が続く。山地は黒河省と同じくカラマツの大森林であり、トナカイを飼養するオロチョン族もいる。平地には蒙古族が多く、西側の海拉爾を中心として呼倫貝爾と呼ばれる。
大興安嶺は火山山脈であり、興安北省と興安南省の境界にある阿爾山は有名な温泉地である。翡翠や水晶も産する観光地で、白城子からの満鉄白杜線が通じており、日本式の旅館や露天風呂もあった。阿爾山から南では千二百メートルを越える山はまばらとなり、カラマツの大森林もなくなって穏やかな山地となる。
興安南省と興安西省では、山地の東はなだらかな丘陵と草原が続く満州平原である。雪解けの河水が期待できる牧草地であり、蒙古族の遊牧が最も盛んな地である。熱河省で大興安嶺山脈は終わり、熱河山地となる。興安南、興安西、熱河の三省を合わせて東蒙古と称する。その西は蒙古自治邦で、蒙彊または西蒙古と呼ばれる。呼倫貝爾と東西蒙古に、外蒙と呼ばれる蒙古人民共和国を加えた一帯が蒙古である。
大興安嶺の融雪は多くの河川を生じる。海拉爾河は牙克石から海拉爾市街へと流れ、呼倫湖からの支流も合わせて額爾古納河となる。北へ膨らんで満ソ国境を形成しながら、黒竜江に合流する。哈拉哈河は阿爾山で多くの支流を合流し、満州国と外蒙の国境を形成して、ノモンハンの西の貝爾湖に注ぎ込む。呼倫湖と貝爾湖で呼倫貝爾だ。ソ連は興安北省と国境を接するが、興安南省へは外蒙を通過する必要があった。
八月六日、ソ連軍は満州国と蒙古自治邦に向けて侵攻を開始した。蒙古人民共和国はソ連の同盟国であり、ソ連軍通過を承認して兵站用地を提供、国軍を出動させて参戦した。兵站基地は外蒙東部の突出部で、チョイバルサン、マタートソモン、タムスクと、シベリア鉄道が延長されていた。後貝加爾方面軍の第39軍と第6親衛戦車軍がタムスクを、第53軍がマタートソモンを、第17軍とソ蒙連合軍はチョイバルサンを、それぞれ策源地とした。
蒙古人民共和国はソ連に次ぐ二番目の社会主義国家であったが、人口は七十五万人であり、総動員をかけても、四個騎兵師団と七個機甲大隊の二万二千人を出兵するのがやっとだった。対日宣戦布告にあたってチョイバルサン首相は『統合された蒙古人の独立国家』を強調した。それは満州国と内蒙古の蒙古人に大きな衝撃を与えると思われた。
蒙満国境を北に越えて興安北省に侵入した第39軍の第5狙撃軍団は、その日の内に杜魯爾駅一帯を無血占領した。翌七日は、次の目標である阿爾山駅を目指し、哈拉哈河上流が形成する渓谷に沿って南下する。阿爾山はモンゴル語で「聖なるお湯」を意味するが、温泉旅館の奥の山腹にはトーチカが築いてあった。関東軍第三方面軍の第一〇七師団は、トーチカ陣地で抵抗する一方、主力は整然と退却した。八日、一個師団を残した第5狙撃軍団は、第一〇七師団を追撃して分水嶺を越えた。
第5狙撃軍団の目的は白城子と杜魯爾を結ぶ白杜線の占領らしい。そう判断した第一〇七師団は五叉溝駅で死守の態勢に入った。五叉溝は文字通り、大興安嶺を東へ流れる挑爾河の五つの支流が合流する箇所で、千メートル超の高山と、それより五百メートル以上も低い深くて狭い渓谷から成っている。ここから谷筋は一つだから守るに労はいらず、つまり攻め難い。現に、一週間過ぎた今も抜かれてない。
第39軍は迂回して索倫を攻めることにしたが、八十キロメートル下流の索倫までの迂回路は百五十キロもあった。そして、第113狙撃軍団が前面の湿地に達した時、索倫は第一一七師団が守るところとなっていた。後背を脅かされるから、放置して進撃するわけにもいかない。第39軍は海拉爾を攻める第36軍に支援として一個軍団を拠出していたから、予備は少ない。まだ、白城子までの半分にも達していなかった。
一方、後貝加爾方面軍の機甲集団である第6親衛戦車軍は国境を南に越えて内蒙古に侵入、二日で二百キロを突破し、満州国との国境に達した。無人の地を行く快進撃で、大興安嶺を越えれば興安南省である。内蒙古東部は、支那派遣軍との取り決めで関東軍の守備範囲であった。しかし、西正面を担当する第三方面軍は戦力が乏しく、大興安嶺を超えての配備は不可能だった。
満州側から見ると、大興安嶺の山脈は険しく、国境の守りとして頼みに足るものだ。しかし、ソ連から見ると違った。蒙古高原は海抜千メートルであり、そのまま大興安嶺まで続いている。そして、急峻な山地は稀で木々は少なく、車両の通行を妨げない。大きく平均標高で見れば、国境までは平たく、そこからは下りなのだ。しかし、第6親衛戦車軍の進軍は次第に緩慢となった。
第6親衛戦車軍の三個軍団は完全に自動車化されており、合わせて四千両近い戦車とトラックが消費する燃料と水は膨大なもので、その補給にもトラックが必要である。策源地のタムスクから大興安嶺まで三百キロあり、そこから満鉄平斉線の挑南や開通まではやはり三百キロあった。そして、内蒙古東部から大興安嶺までは山々を覆う森林がなく水源に乏しいし、砂漠もあった。国境線まで鉄道が走り、牡丹江まで二百キロもない東正面の比ではない。
教導団司令部からの返電は迅速だった。昨日の挑南攻防戦では白城子から指揮をとっていたから、第四四軍司令部とは至近にある。上級司令部は興安だが、前線の状況だけなら第四四軍の方が早く詳しい。
「第一三六師団は興安市街に戻ったそうだ。誘っているな」
「第7機甲軍団は第6親衛戦車軍の隷下です。第39軍に合流するとは思えませんが」
「よほど切迫しているのだろう。生徒第一中隊も教導第二大隊も昨夜の攻撃に加わっている」
「第9機甲軍団に合流するまでの燃料はないと」
「親衛戦車軍を二分できたとすれば、大戦果です。今日の決戦は有利になる」
命令電は遅れて届いた。各級司令部と調整していたのだろう。
「大韓山の拠点で待機とは、第5戦車軍団の監視と妨害ですね」
「うむ。二分どころか三分できるかもな」
大隊指揮所が沸いた。大韓山は、今いる大汗山より三十キロ西にある。標高は千メートルを超え、山麓は広く林も多いから、重装備と車両はそこにあった。士気は高揚する。軍官学校をあげての総攻撃になるかもしれない。
満州国軍には蒙古人の部隊と士官学校があり興安軍と呼ばれた。通遼の第九軍管区、海拉爾の第一〇軍管区と興安街の興安軍官学校がそれである。開戦翌日の夜に出動して、第九軍は興安北省で、第一〇軍は興安南省から大興安嶺を越えた内蒙古東部で、それぞれ遊撃戦を展開していた。夜目が利き、馬上で両手を使える蒙古人の特長を活かすのならば、騎兵による夜間の遊撃戦だった。
于静遠が危惧したとおり、興安軍の帰趨には不安があった。なにしろノモンハンだけでなく、綏遠事件の先例もある。行き掛かりでこの問題を請け負ってしまった飯島は、陸士同期で満州国軍政部最高顧問の秋山中将に諮って興安軍に内偵を入れた。予感があった飯島は、内偵には関東軍ではなく、駐蒙軍の特務要員を使った。すなわち、張家口の西北研究所などで警備を担当していた椙本唯郎少佐らである。
漠然と、満人中心の満州国に対する不満ではないかと考えていた飯島は、椙本少佐の第一報に接して驚愕した。現状は日本人教官ないし上官への不満であり、叛乱も計画されているという。ソ連や外蒙に近い第一〇軍だけではなく、第九軍も軍官学校も同じだった。日本人を殺害して外蒙へ脱走するという詳細報告は開戦当日だった。飯島は大いに慌てた。状況は深刻だが時間がない。しかし、竹林は冷静に起死回生策を提示した。
興安軍は、外蒙のチョイバルサン首相の演説を聞いても動揺しなかった。ヤルタ密約のことを知ったからだ。外蒙古と内蒙古の統一を米英ソは許可しない。これまでの多くの場合と同じく、蒙古人の統一と独立は中露列強の力関係に左右される。辛亥革命が起きて大清帝国が崩壊した時、蒙古人は満蒙同盟の終焉と理解した。二者の立場は平等で同盟が終わる時にはそれぞれ本来に戻ると約束されている。しかし、外蒙は独立できたが、内蒙は昔には戻れなかった。漢人が多く居たからだ。
一九一一年の辛亥革命の直後、外蒙古の仏教最高位の活仏は大蒙古国王として独立を宣言した。内蒙古の諸侯も帰服したので、内外統一の寸前までいった。しかし、支援するロシアが中華民国との衝突を恐れて撤兵した。結局、中露条約で外蒙古は中国の下での自治を認められる。一九一七年にロシア革命が起きると、まず中華民国軍、次にロシア白軍の支配を受けたが、最後にソ連赤軍を招致して蒙古人民国として独立した。一九二四年に活仏が遷化すると、社会主義の蒙古人民共和国となる。
一方の内蒙古は、一貫して外蒙古との統一を望んでいたが、中華民国がそれを許さなかった。一八六〇年に入蒙が許されて以来、移民した漢人は四百万を超えている。盟旗の中に省県が混在し、多くの土地が漢人の所有に移った。蒙古人の自治要求に、漢人は強硬に反対する。蒙漢の対立は衝突に進展し、虐殺と復讐の応酬となった。詰る所、呼倫貝爾と東蒙古は一九三一年、西蒙古は一九三七年、それぞれ日本軍が進駐してから自治が認められるようになった。
興安軍の叛乱の動機は、恐怖と錯乱だった。満州と内蒙古の蒙古人は、ソ連軍侵入は日本の敗北であり、それは漢人による復讐につながると考えた。内蒙古はまだいい。自治であり独自の軍も持っている。満州国の蒙古人も興安軍を持っていたが、軍令面では関東軍の指揮下であり、なにより満州国では満人より漢人の方が多い。日本人がいなくなれば、漢人の暴虐を止める者はいなくなる。少数派の蒙古人の運命は一つだ。
興安軍に参加している蒙古人は親日であり、恩も感じていた。幹部は陸士に留学したものが多い。しかし、蒙古の義はさらに重く、蒙古の独立を妨げる戦いは出来ない。それは外蒙古に対しても同じである。だからノモンハン事件でも戦意はなく、脱走も相次いだ。蒙古の義を守るには開戦と同時に外蒙古に投降したいのだが、部隊の日本人が許さない。すれば、日本人を殺害して、脱走するしかない。
秋山中将の出張は開戦当日に行なわれた。満州国軍政部最高顧問はすなわち陸海空を合わせた国防大臣である。満州国飛行隊の九七式輸送機で、海拉爾、興安、通遼と回り、各軍司令部の幹部と談判した。満州国軍の指揮統帥は関東軍隷下にあったが、それを改めて皇帝直下の司令部を置く。作戦方針も、挺進攻撃ではなく、遊撃戦を中心とする。
蒙古の義に対して、秋山は理で説いた。明治の古くから独立を提示して近づいたのは日本の方だった。しかし、日清、日露の戦いに勝利した日本は、北満や内蒙古に進出すると治安と秩序を優先した。蒙古独立を蒙古自治に格下げした日本に義はない。違約をしたのは日本の方だ。だから理で説くしかなかった。
理とは。まず関東軍は負けないし、ソ連軍には降らない。進駐してくるのは中国軍だが、日本人はいなくならない。そして、満州の呼倫貝爾と東蒙古は内蒙古と一体となれる。であれば、今、興安軍を解くのは得策ではない。これに、第九軍司令官の甘珠爾扎布中将、興安軍官学校校長の烏爾金上将、第一〇軍司令官の郭文林中将は同意した。
興安軍司令部は興安街の興安軍官学校に置かれ、校長の烏爾金上将が司令官となった。作戦は、ソ連軍後方の兵站基地、補給線に対する襲撃が中心だった。興安南省での作戦は、第6親衛戦車軍が大興安嶺を越えて満州平原に入ると、野戦飛行場設営の阻止となった。開戦後一週間を経ても、ソ連軍は大興安嶺の東側に飛行場を持てないでいる。
呼倫貝爾:フルンボイル、ホロンバイル
阿爾山:アルシャン、アーアルシャン
額爾古納河:アルグン河
哈拉哈河:ハルハ河
呼倫湖:フルン湖
貝爾湖:ボイル湖、ブイル湖
後貝加爾方面軍:ザバイカル方面軍