五 虎頭
東安省虎林県虎頭鎮、虎嘯山
虎頭要塞の西の守り、虎嘯山の山中に構築された穹窖は、表入口から裏出口までおよそ百メートルの規模である。北山麓にある裏出口の大岩と樹木の擬装はすでに爆砕されて、鉄扉は剥き出しとなっていた。裏出口から穹窖内に入ると十メートルほど直線が続き、突き当たりに三畳ほどの区画がある。左側に鉄扉があって、さらに奥へと進めた。
区画には外に向かっての銃眼が切ってあり、逆襲口へ続く階段もここにあった。今は九九式軽機関銃が据えられ、銃手と弾薬手は裏出口を睨んでいる。弾薬手の左側で、大内上等兵は九九式小銃を握って階段の方を窺っていた。背後にある銃眼はすでに塞いだから、外の気配を察するにはこちらしかない。爆発音と銃声が近づいて来ていた。
「すぐに撃つな。合言葉を確認してからだ」
大内が言うと、銃手と弾薬手は黙って頷く。どちらの顔にも汗が浮かんでいた。
かんかんと、裏出口の鉄扉に銃弾があたる音がした。ソ連軍の機関短銃だ。ぎぎいっと重い音がして鉄扉が開かれると、外との気圧差で風が起きる。わーっという大声と共に数人の兵隊が飛び込んで来た。思わず立ち上がろうとする弾薬手の少年兵を、大内は抑え込む。
「七生ーっ」
「報国っ」
合言葉を叫びながら走って来た兵隊は、軽機の銃剣の直前で左に飛んだ。曲がった直ぐには落とし穴が空いている。縦穴の深さは八メートルはあり、落ちたら一人では上がれない。平時は鉄板の踏み板で覆われているが、今は外されて銃座の防盾に使われていた。
「七っ生報国っ」
「七生報国ーっ!」
兵隊は四人いた。つまり、八人やられたのだ。
「火炎放射器だ。気をつけろ」
背中を燻らせた最後の兵隊が渡ると、鉄扉が閉められた。
軽機班の三人には感傷に浸る暇はない。すぐに出口の鉄扉ががんがんがんと鳴り、どかどかと大きな足音が入り込んで来た。跳弾が銃座の方にも飛んで来る。大内は小銃を構えて頭を下げた。銃手が撃ち始める。敵兵はバタバタと斃れるが、それを乗り越してさらに踊りこんで来た。たちまち空になった弾倉を弾薬手が交換する。
その弾倉交換の時だけ、大内は小銃を撃った。弾は惜しむなと言ってある。もともと逃げ場はないが、さらに火焔放射器とは念を入れてくれるものだ。狭い一本道だから外れ弾はない。三八よりひと回り大きくなった九九式実包を体に喰らって、十メートルを疾走するのはソ連兵にも無理だ。
「引いた。来るぞ、撃て、撃て」
めらめらと長い火炎を放射しながら入って来たソ連兵が銃弾に撃ちぬかれて倒れた。背負ったタンクの中の燃料が一気に燃え上がり、通路のソ連兵と銃座の三人を焼いた。そして、行き場のない火焔と熱風は逆流し、裏出口の外にいたソ連兵をも焼く。
東安省虎林県虎頭鎮、猛虎山
猛虎山の地下にある要塞司令部では情勢分析が続いていた。軍司令部から派遣されている特務通信隊のアレクセイ中校が報告する。
「一二日の三度目の砲撃の後、新旧イマン鉄橋は復旧されていません」
三度にわたる四一榴の砲撃は、ついに二つの橋脚を破壊するのに成功した。虎頭要塞は最大の使命を全うしていた。砲兵隊長の大木大尉は満足して立ち上がる。
「四一榴砲塔陣地を視察して来ます」
「うむ」
戦果と引換えに、すべての重砲の砲弾は費えた。地下通路が通じていない重砲陣地は放棄され、占領されている。四一榴砲塔陣地とは砲弾輸送のトロッコ軌道で結ばれており、これを拠点とする逆襲作戦が立案中だった。
中校の報告は東正面の激戦地に移る。
「一昨日からの総反撃は一段落しました。牡丹江前面、磨刀石から四道嶺での戦闘で第五軍は今日も、敵第5軍の総攻撃を持ちこたえています」
「戦線形成に成功したか。代馬溝へ押し戻せるかな」
「すぐには無理でしょうが、一国山にも三軍山にも浸透中です」
「その歩兵携行の新兵器の威力か」
歩兵隊長が呟く。
「対戦車爆雷より遠距離から撃てて、反覆攻撃が出来るとは凄い」
「戦車の脅威がなくなったわけではありませんが、戦車と対等に戦えるようになったのは重要です」
西脇隊長が断を下す。
「つまり、ソ軍の一方的な優位は粗方失われた。日ソ両軍は同じ土俵に立った」
西脇大佐の分析では、ソ軍の優位は物量だけでなく、日本兵が対抗できない兵器にあった。多数の戦車とロケット砲だ。関東軍の戦車連隊は西正面に配備されて東正面にはなく、速射砲や野戦重砲による反撃はソ軍戦車の数で封じられていた。日本軍には歩兵の挺進攻撃で対抗するしか術がないが、対戦車爆雷による攻撃は戦果に関わらず歩兵の損失を伴った。
ウラ一号船団が日本本土から運んで来た四式七糎噴進砲とタ弾は、戦車に対抗できる歩兵を生んだ。タ弾は二百メートル離れていてもT-34戦車の装甲を破ることが出来る。命中させるには百メートル以内に近接する必要があるが、これまでの対戦車爆雷は零メートルだから比較にならない。攻撃した歩兵は生還できるのだ。
数も重要だったが、持ち込まれたのは噴進砲が二千四百門にタ弾が一万発。八個師団のすべての歩兵小隊に二門ずつ配備出来る数であり、四門ずつとしても四個師団分あった。一門あたり四発も一会戦分としては妥当である。さらに、噴進砲とタ弾の構造は複雑でなく、奉天の南満陸軍造兵廠で製造できた。量産用の冶具も持ち込まれていて、量的にも対抗できる。
一方のロケット砲に対しては、もっと単純で直接的な方法がとられた。存在の消滅だ。ソ軍のドクトリンによれば、ロケット砲は戦略兵器である。戦術的破壊だけでなく心理的破壊も達成できるからだが、それゆえに、極端に集中して運用される。各師団に数十両単位で分派されることはなく、数キロ四方に四百三十両、三千五百門のロケット砲が密集配置された。
ロケット砲の破壊自体は困難ではない。一発の爆弾が炸裂すれば、誘爆によって十数両が一度に損壊するだろうから、命中を期す必要もなかった。十数キロにわたる防備の堅陣を一気呵成に強行突破できるのは航空機だけである。穆陵に展開していたソ軍の二個ロケット砲旅団に対して、朝鮮から進出して来た陸軍第五航空軍が大空襲を決行した。
作戦には四個戦隊、軽爆と重爆合わせて六十三機と戦闘機六十機が参加した。連日の航空撃滅戦と飛行場破壊で疲弊したソ連空軍は穆陵上空に百数十機の戦闘機しか展開できなかった。第五航空軍は作戦機半数の損失と引換えに、ロケット砲旅団の壊滅に成功した。ソ軍は、関東軍にはない装備を失った。
「それでどうなんです。ずっと背後と兵站を攻撃してますが、補給路を完全に断つには至らない。イマン鉄橋は落したが、スターリン街道を遮断するには重砲の間断ない砲撃が必要だ。うちにはもう砲弾がない、そうでしょう?」
容赦のない発言が真摯な思考を中断する。がさつな言葉は東京出身の虎頭鎮在郷軍人会長の川原退役准尉で、ありていに言えば日の丸食堂の親父だ。予備役をとっくに超えた年だが、三百名の一般人を束ねるために、西脇隊長は親父を現役に復し、行動を制限しなかった。
「食糧も飲料水も半年は大丈夫、週に一回は親父さんも腕をふるえる。そうでしょう?」
アレクセイ中校が、わざとアクセントを外した日本語で答える。川原准尉は出征したシベリアの体験からロシア人が苦手らしい。
「今ある薬剤で二千人の銃創、戦傷に対応できる。風邪や頭痛には、皆さんが薬をお持ちだ」
安倍軍医も口を揃える。虎東山と虎北山が陥ち、虎西山や虎嘯山との往来も断たれて、重症患者は絶えていた。
目を白黒させる川原の親父を見つめながら、アレクセイ中校は続ける。
「開戦時の関東軍の兵力は二十二個師団七十万名、侵攻したソ連軍は六十七個師団百五十万人です。二倍の敵なら守る方は不利ではない」
川原は、うんと頷く。
「ところが、開戦時に国境に配置されていたのは三十万足らずだった。五倍です」
「そうか、それで支えきれなかったのか」
安倍軍医が尋ねる。
「実際のところ、今の戦力比はどうなりますか」
アレクセイ中校は、西脇隊長の前の地図を指す。
「はい。牡丹江前面では、敵十四個師団五十万人に対し、我は六個師団二十万名です。戦力比は二倍半まで縮まった」
「ほう、それは凄い。開戦時の綏芬河正面は二十倍の敵兵で埋まったと聞く」
安倍軍医は驚くが、すぐに眉を寄せる。
「しかし、第三軍が守る南はがら空きでしょう」
「そうともいえますが、東寧要塞の反撃で、敵25軍は進出するのを躊躇っている」
東寧要塞の反撃は、ソ連領内から撤収して来た老黒山支隊の到着に合わせて行なわれた。温存されていた東寧重砲兵連隊二個中隊の二四榴二門と三〇榴二門も火を吹いた。重砲の健在に驚愕したソ連軍は大混乱し、それに乗じて老黒山支隊は要塞第一地区の勝鬨陣地に入城した。
「琿春に迫っていた敵師団は国境線に退却しました」
「佗美支隊が後方を遮断したからですね」
「増援は続いています」
朝鮮からの増援第一波、第三四軍の第一三七師団と第五九師団は北上中で、一三七師は雄基に入った。第三四軍のもう一つの兵団である独立混成第一三三旅団は浜綏線を東進中だった。吉林省四平で先月末に編成完結し、朝鮮への移駐準備中に開戦となった。しばらく首都新京の防衛に留まっていたが、今は牡丹江へ急行中であった。
「汪清の一二七師が羅子溝に進めば、東寧方面にも戦線を構築できます」
ソ連第25軍は東正面では助攻の役割であり、主攻の第5軍の半分の戦力しかなかった。しかし、担当する前線は三倍以上の長さがある。軍司令部として保持すべき兵站路も複数で距離も遠い。さらに、朝鮮北岸に上陸する海軍との連絡調整もあった。そこへ関東軍の反撃が集中した。
「一昨日と違って、昨日から今日は第5軍の担当戦区ですから、兵站に不安を感じるのは当然です」
関東軍の反撃は極東ソ連軍司令部のあるヴォロシロフから西と南への兵站路に集中していた。しかも、ソ連領内である。第25軍は羅子溝への進撃を止め、二個兵団を国境内に転進させた。
「東寧での戦力比は三倍となり、琿春では二倍をきる。さらに航空兵力では拮抗します」
機動第二連隊の航空基地襲撃は、ふ号兵器を使った空陸両面の作戦だった。襲撃は、滑走路や機体より弾薬庫と燃料庫に重点が置かれた。掩体壕に囲まれて散在する機体と違って、弾薬や燃料は集積されている。限られた兵力で攻撃するには効果も高いし長く続く。つまり、ソ連航空隊は第二次出撃ができない。
ようやく川原は気づいた。大声を出す。
「そうか、ソ連軍は前線に全力を出せない。補給線攻撃が効いている」
電話が鳴った。
「虎嘯山、歩兵第四中隊の原口見習士官です」
全員が立ち上がって姿勢を正す。時刻からいって、決別電に違いない。西脇隊長が受話器を握った歩兵隊長に告げる。
「今の戦果を伝えてくれ。最後に私も出る」
通話が終わると、歩兵隊長は申告して出て行った。虎嘯山の最後をその目で見届けるのだろう。戦闘指揮所の中は静かになった。発言する者はなく、各員は自分の作業に戻った。
工兵隊長は、要塞内戦闘の準備事項を検討していた。猛虎山の地下穹窖は通路だけでも全長が三キロメートルあり、部屋の区画は三十五もある。今のところは、山麓の出入口も山頂の逆襲口や換気口も見つかった形跡はない。どこかから侵入され戦闘が始まったとして、最大の脅威は火炎放射器だから、鉄扉を閉じて絶縁する。しかし、闇雲に閉鎖しても意味はない。
脅威は、火炎による火災ではなく、燃焼による酸素欠乏にある。通路や区画の天井に設けられた空気通路を考慮して閉鎖しないと、意味がない。つまり、独立する換気口ごとに戦闘区画を設定しなければならない。戦区の容積に対して給排気が不足するようであれば、それを広げるか、送風機や圧搾空気による強制換気が必要となる。
工兵隊長は換気回数を係数とする計算式を書くと、安倍軍医に意見を求める。
「戦区は大きいほうがいい。中の部屋の扉は開放します。それで爆発の風圧をいくらか吸収出来る」
「聴力低下への対策ですか」
軍医は頷いた。
「戦闘に入った区画は仕方がないが、その影響が隣に及ぶと、まだ戦っていない兵員の戦闘力も落ちます」
「なるほど。鉄扉を補強します」
「通路の床にある排水溝も危うい。油を流される」
アレクセイ中校も自分の任務に戻っていた。開戦翌日に派遣された特務通信隊の任務は多岐にわたる。表向きは、包囲軍の捕虜聴取と無線傍受で得た情報を要塞の防衛に活かすことだった。だが、無線傍受は極東ソ連軍の通信全般に及んでいた。すでに稼動する重砲がない虎頭要塞の電力は余っている。送信と違って、受信には大電力は必要ない。しかし、微弱な電波の整流には、安定した電圧と電流が欠かせなかった。
もちろん、味方の通信も傍受できる。それによって、各方面からの満州への増援が順調なことが把握できた。断片しかない通信も、別の通信と合わせて分析すれば、意味のある情報となる。牡丹江市内で憲兵隊が検挙した二路軍の幹部の目的は、朝鮮国内での蜂起煽動だった。降伏で動揺する朝鮮をソ連上陸部隊の侵攻で一気に共産化しようというものである。
新京の決心は迅速で果断だった。帰路にあったモタ二号船団を済州島に向け、米軍上陸に備えていた第五八軍の半島への輸送を命じた。京城の第一七方面軍は一挙に三個師団と一個旅団の大兵力を得る。朝鮮全土の治安を強化しても余りあり、満州への増援を倍増できる。戦闘は膠着し、関東軍は戦線の安定に成功するだろう。そして。
「動きます」
西脇隊長が振り向いた。いつの間にか指揮所の中は二人きりだった。
「西正面か、それとも駐蒙軍か」
アレクセイ中校は、壁の大東亜地図のずっと西南を指差した。
「おっ」
西脇大佐は息を呑んだ。そこは支那の奥地、陝西省延安だった。
虎嘯山
原口見習士官は穹窖のほぼ中央にある指揮所の床に倒れていた。どかどかと入って来たソ軍兵士の一人が、絶命を確かめる代わりに自動短銃を一連射する。ぶすぶすと穴の開いた原口の体は、反動で上下した。ソ軍兵士は室内を見分する。机の上には電話機と図面があり、さらに奥への鉄扉がある。指揮所の奥に置かれるのは、機密書類の金庫室だろう。一人が見取り図を鷲づかみにして表へ走る。
呼ばれて入って来た少尉は用心深く、兵士の真後ろについていた。大声を出して兵たちを叱咤する。抜いた拳銃を撃つと、原口が握った軍刀を蹴り飛ばした。それから部屋の中を見分し、軽機を持った兵士に指示する。指示された兵士は鉄扉に銃口を向けた。少尉は外に出る。軽機の銃撃が鉄扉に向けて、一薙ぎ、二薙ぎされた。機銃弾は鉄扉を撃ち抜く。
別の兵士が横から鉄扉を開ける。兵士たちは正面を避けて横に立ち、少尉も顔だけを覗かせた。中には寝台が並べてあった。机の後で拳銃を抜いていた日本兵は軽機の銃弾で絶命している。しかし、寝台に横たわった包帯の日本兵は生きていて、手を上げ、ひらひらと振る。
お前の撃った銃弾はずっと上を飛んでいって当たらなかった。そう言われたと思った兵士が、自動短銃を一連射する。中に入った兵士は、横に積み上げられた梱包を見てギョッとした。日本軍の爆薬だ。ソ軍兵士は口々に怒声を上げて出口に走る。爆雷にはすでに信管が挿されてあった。寝台の日本兵は別れを告げたのだ。
戦闘指揮所の奥の包帯室で起きた大爆発は、表入口と裏出口へ開放されるまでに、穹窖内にいた全員を吹き飛ばし焼き払う。火炎は通路反対側にあった縦穴を昇り、山頂観測所からも吹き出した。
虎嘯山は鳴動し、山稜のあちこちから閃光を発しながら爆砕した。その様は、三キロしか離れていない猛虎山の観測所からよく見えた。虎嘯山の守備隊は、この日の戦闘だけで三倍の敵兵を倒していた。