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SR満州戦記2  作者: 異不丸
第二章 八月一二日
14/33

五 穆陵


牡丹江省楊梭県、穆陵


 第一二四師団司令部参謀の澄田少佐は、穆陵に集結中のソ連軍を、南方の泉眼山頂から視察していた。穆陵は牡丹江省のほぼ中央にある起伏の多い山間盆地である。川が流れる低地は四百から五百メートルで、周囲の山々が六百から一千メートル。等高線だけではどこが山地との境界か定かではない。草木の植生、林か森林かを現地で見定めるしかなかった。

 盆地には木々はまばらだ。中央を流れる穆陵河に、周辺から幾十もの支流が流れ込むからである。三十キロ東北の下城子までに合流する支流は数百もあった。一本になった河は、水量が増えると数本に分かれ、流路を変え、また合流する。東安省や三江省のように一面の湿地帯にならないのは、高低差があって地質が異なるからだ。

 標高七百六十三の泉眼山から穆陵街まではおよそ十五キロ、視野は七十度ほどだが、眼下はソ連第1極東方面軍の第5軍で充満していた。視界をぎっしりと埋める大軍である。二個狙撃軍団と支援の兵団、すなわち狙撃師団六個、戦車旅団二個、砲兵旅団八個、ロケット砲旅団二個、自走砲連隊一個が戦列を組んでいる最中だった。


 澄田参謀が燈楼樹山の西麓にある師団本部から敵情視察に出たのは、ソ軍のロケット砲旅団の所在を確かめるためだった。三軍山からはじめたが、なかなか視認できずにここまで来た。山中を大迂回したから踏破したのは十キロ以上になる。側車は三軍山の麓に隠して、二人で砲隊鏡を担いできた。今、運転手の谷口曹長は砲隊鏡を覗いている。

「駅の手前と向こうに三十両の梯団が三つずつ、参謀どのの計算で間違いありません」

「よし。北の方には見えるか」

「はっ、伊林駅の向こう側に見えますが、数は五十両以上としか」

「それでいい。二個旅団全部を出してきたのは間違いない」

「自走砲も二個大隊は見えます」

「ああ。明日の夜明けは早いぞ」

 第5軍司令官は明日の総攻撃に軍のもつ支援火力を根こそぎ動員するらしい。それは、ロケット砲発射機が四百基、152ミリ榴弾砲が八十門、107ミリ加農砲が百二十門、76ミリ野砲が六百門を超える。その他に、狙撃師団が個々に持つ野砲と榴弾砲がある。払暁の制圧射撃を行うのは三分の一ぐらいだろうが、それでも昼間より明るくなるだろう。


 谷口曹長は澄田参謀が言った言葉を反芻する。

「たいしたものですね」

「だが全門を並べることはできないさ」

 谷口は、澄田の視線を追って左を向く。そこは牡丹江への通路の入口、代馬溝だった。南北から山地が迫っている関門で、木々が疎らな幅は五キロほどだ。中央を北林子河が流れ、それに沿って浜綏線が敷かれてあった。

「隊形ですね」

「うむ。たしかに代馬溝の幅は狭いが、突破されれば、磨刀石から一気に開ける。しかも、牡丹江へは下りだ」

 代馬溝から磨刀石までの十五キロは標高七百メートルの狭い谷間であるが、そこを抜けると大きく幅が開けて、牡丹江市街まで二十キロもない。



「曹長、遠慮なく言え」

 右手の人差し指で顎をかく仕草は、谷口曹長の癖だった。発言を躊躇している。それを見取った澄田は発言を促した。

「いかにも教範のような地形であります。ソ軍参謀は楽に予測できるだろうと、その、考えておりました」

「ははは」

 場所柄を考えて、澄田は笑い声を抑えた。

「そのとおりだ。南北の山中に野戦重砲と野砲を置く。代馬溝には対戦車地雷と対戦車壕からなる数重の陣を構築する。一陣を抜く度にソ軍は停滞するから、そこを砲兵が叩く。数陣を抜いて渋滞が始まったら、対戦車挺進攻撃をかける」

「まさに、我が軍がとるべき作戦はそれです」

「もちろん、そうだ。それはやる。しかし、それだけではない」

「はい」


 開戦時のソ軍の攻撃は第一二四師団正面に集中し、前線は総崩れになった。国境陣地は二個大隊に増強されていたが、そこにソ連軍九個師団が突入してきた。二昼夜にわたって国境の山地は敵兵で埋まった。山頂に退いても軽戦車に蹂躙された。ソ軍は、尾根も谷も越えて来た。地理地勢、山地河川に拘泥せずに、一直線に西に向かう。守備隊は、十数万のソ軍兵の波に呑まれた。

 あの光景が繰り返されるのか。そうはならない。横一直線にずらりと並び、かつ後衛まで何十キロも続くようなことは、国境線だから可能だったのだ。すでに、ソ軍は八十キロも侵入している。敵地の中で後方を空ける訳にはいくまい。

 澄田少佐は、軍曹と交替して砲隊鏡に取り付く。中央の本流に沿って北へと視察する。下城子の先は高低差がなく見えないが、水量を増した穆陵河は、八面通、鶏寧、東安、虎林と流れ、虎頭の南西でウスリー川に注ぎ込む。八面通にあった一二六師は、代馬溝の北側に移動中である。東安の一三五師も鶏寧の裏手を山越えし、図佳線に乗って牡丹江へと向かっていた。



「澄田参謀!」

 谷口曹長が低い声で警報を発した。

「向の南嶺山頂近くに岩が増えています。狙撃兵です」

 咄嗟に、澄田は砲隊鏡に暗幕を被せた。それから、ゆっくりと伏せ、携帯函に収める。曹長はすでに匍匐して、じりじりと退いていた。澄田も同じように前を向いたまま、後退する。途中で曹長を追い越す。

 南嶺山までは四キロあり、対戦車ライフルでも狙撃は不可能だ。狙撃兵の配置は、ソ軍の警戒が厳重になる兆候と見るべきだろう。あるいは、穆陵河の上流、南の羅子溝、大喊廠から北上して来る第一二八師団が発見されたのかもしれない。


 山の陰に入った二人は、ようやく仰向けになり手足を伸ばす。澄田は腕時計で時刻を確かめた。それから、曹長に話しかける。

「狙撃兵の一回の出撃はどれくらいだ」

 装備を確認していた曹長は首を傾げる。

「攻守どちらかで異なりますが、通常は十二時間、もしくは一日。教育では、八時間というのはありませんでした」

「なるほど、明日未明三時の攻撃開始か。待て、狙撃兵に攻勢があるのか」

 谷口曹長は、澄田中佐に向き直った。心なしか顔が硬張っている。

「いわゆる攻撃とは異なります。戦線が膠着した場合に、狙撃に出されます。哨兵、伝令、将校が標的ですが、用便に出て来た兵隊も撃ちます」

「射程と射界で決まるのかな?」

「射程と射界で決めるのです」


 しばらくの間、澄田は沈黙した。

「理解した、ありがとう。司令部へ戻る」

「はっ」

「ところで、その十二時間か一日の間、排便はどうするのだ」

 歩き出した谷口は、苦笑いで振り返る。

「垂れ流しです。音も気配も出さないように」

「ひどい臭いだろうな」

「出撃前は魚肉や漬物など臭いの元は断ちます。狼や山犬が怖い」

「それは物騒だ」

 二人は、来た時よりも慎重に、かつ足早に帰路につく。





挿絵(By みてみん)





牡丹江省楊梭県、綏西


 牡丹江省の大部分が森林山地である。低地と呼べるのは省の西沿いを流れる牡丹江流域だけだ。山地は、高いところは千メートルを超えるが、河川に浸食され、大きく続く山はなかった。十キロ行く間に山頂が二つか三つもあるほど、起伏が激しい。五百メートルの山丘が三キロ毎に現われるのだ。第一二四師団の挺進大隊は、その山中を四十キロ踏破して来た。すでに深夜である。

 六百名の大隊が穆陵南方の泉眼山を出発したのは早朝だった。谷間に出るのを避け、尾根伝いに来た。平場はなく、坂道ばかりであった。牡丹台で三時間の大休止を取った後、中隊ごとにそれぞれの目標へと分かれる。第二中隊には、4キロほど南の八里坪の補給廠と自動車連隊が割り当てられた。ソ連軍の自動車連隊は軍団司令部に所属し、一度に一個師団を輸送する能力があるという。


 目標が令達されると、第四小隊の各分隊では低い喚声が沸いた。戦車ではないのかという嘆声は少ない。

「トラックが三百台はあるだろう」

「二百台としても戦車六千両分だ。こいつは豪気だ」

「この方面の敵戦車は七百という」

「では三十台もやれば十分だ」

「うちの分隊だけでやれるじゃないか」

 ソ軍の3トントラックには軽油満載のドラム缶を十六本載せることが出来る。三千二百リットルは、ざっと戦車三十両の一日分にあたる。それが先任軍曹の訓示だった。



 第四小隊長の古谷少尉は、中隊本部で関東軍情報部員の説明を聞いた。にわかに信じられなくて将校斥候に出た。牡丹台の北は明るく、綏西から下城子に至る浜綏線沿いは車両の隊列でぎっしりだった。特に細鱗河の先は渋滞が起きている。そのあたりの谷の幅は一キロしかなかった。

 横に匍匐した情報員の緒方が古谷の顔を見つめていた。

「納得されたか」

「すまん」

「少尉殿は、なぜこちらを襲わないか疑問でしょうが」

「あ、いや」

「警戒が厳重です。山中には特殊部隊が潜んでいる」

「え」

「三人もやられました」

「そうか。すまない」


 満州領内に八十キロ侵出し、牡丹江省のおよそ半分を占領したソ連第1極東方面軍第5軍には補給の問題が急迫していた。開戦から一週間が過ぎて、各兵団保有の弾薬は少なくなっている。占領地は空き家ばかりで、食糧は残されてない。糧食の現地調達は困難だ。捕虜はとれず、使役する民間人もいない。略奪の対象もなく、兵士たちは荒れていた。

 浜綏線は、綏芬河からそっくり線路が剥がされ、爆破されていた。もともとソ連の鉄道とは軌間が違うから、敷設換えは考慮されてあったが、基礎からやり直すのでは手間と時間が大違いだ。綏西から真西へ新線の敷設も検討されている。しかし、直近の問題として、補給品満載のトラックを穆陵まで到達させなければならなかった。


 帰ろうとする古谷を、緒方は奥まで誘う。山を一つ越えると、にわかに騒音がひどくなった。目の前に数両の装軌車が現われ、西の谷間へ入っていく。

「道路の開設です。全ての谷間で試しています」

 緒方は、エンジンとキャタピラの音で消されないように、大声で言った。

「湿地が深く、側溝を置く幅もないのですがね」

 古谷は満足した。ソ連軍にとってトラックの重要性は増している。それを緒方は実地見分させてくれた。考えてみれば、ここまで六百名の大隊を敵に発見されないように案内したのも、緒方ら情報部員だった。攻撃目標も戦果の目算も十分に吟味されてある。




 今年になって各兵団に編制された挺進大隊の任務は、敵軍の指揮系統の撹乱、通信・交通網の破壊と、砲兵陣地の襲撃、戦車への肉薄攻撃で、つまりは遊撃戦である。歩兵部隊も夜襲斬り込みを行なうが、それは作戦上の要求によるものだ。戦線を維持出来る場合は行なわない。期待できる戦果よりも、損害の方が大きかった。

 挺進隊の遊撃戦は損害を顧みずに行なわれる。敵の進撃を遅延させるのが目的で、停滞すれば大戦果となる。極言すれば、挺進攻撃は手段ではなく目的なのだ。それは攻勢から守勢に回った関東軍なりの解答だった。

 総軍や方面軍、軍司令部の参謀たちは、総じて挺進隊創設を歓迎したが、その事由はさまざまであった。曰く。遊撃戦特化の部隊があれば作戦の選択肢が増える。不足する機関銃や歩兵砲を配備することなく大隊が増設できる。いや歩兵銃や擲弾筒さえ不要で爆雷や爆薬だけで十分だ。

 各参謀の解釈の違いは、作戦上の運用に顕著に現われた。




 八里坪に急造されたソ第5軍補給廠は、地形に添って細長く作られてあった。向の比羅夫山までの一キロ幅が四キロほど続く。土木重機で平らげた地面は、その後に行き来したトラックにより掘り返され起伏が激しい。牡丹台から下りてすぐの川は、土砂で半分が埋もれて氾濫し、あたりは泥濘と化しているようだ。

 トラックは川に後ろを向けて止めてあった。間に道をおいて、山側に補給品の木箱が乱雑に積んである。下に板や丸太を敷いたものは浸水や湿気を嫌う荷物で、爆薬や食糧だろう。直に地面に置かれているものは武器や装具と思われた。第四小隊の目標は一番右手の一キロである。

 作戦は単純だった。目の前の川を渡り、トラックの間を通過して道を横切る。山側の補給品に爆薬を置き信管を挿す。帰りにトラックにも爆雷を置き、山まで走り戻る。爆発に巻き込まれないように、分隊ごとに時間差をおいて進発する。作戦開始の合図は、第五中隊の最右翼、つまりすぐ左手の爆発だった。


 第四小隊は、四名の指揮班と十名の分隊が四つの四十四名。全員が対岸の気配を窺い、物音に耳を澄ます。各分隊で銃を持つのは分隊長ともう一人だけだ。爆薬木箱を背負う一人と布団爆雷を羽織る一人の二人四組は、腰に提げた銃剣しかない。短機関銃を持った敵歩哨が二人もいれば、挺進攻撃は頓挫する。

 突然、北の方で大爆発が起きて、夜目に慣れた小隊員の目を刺す。第二中隊の最左翼、第六小隊が攻撃を開始したようだ。古谷少尉は腰を屈めると、小隊指揮班の先頭に立って川に入った。ゆっくりと渡る。先任軍曹の中津と、二人の伝令が後に続く。三人もゆっくり進んだ。

 後方では第一分隊が凝視している。川の深さと流れの強さ。泥濘はどれほど深く、重いのか。それは、分隊の任務の成否、各員の生死に直結する。水中で岩にあたった伝令は避けずに、体を二度屈伸させた後に跨いだ。川の流れは意外と早く、銃を持った手を放せない。



 爆発は続いており、時々、銃声も聞こえた。火事も起きたらしく、ほの明るくなる。渡りきった少尉は慎重に気配をみながら、トラックの間を進んだ。続く軍曹は、両手に持った銃を上げ下ろしして、障害がないことを示す。伝令の一人は足早に進んで少尉を追い越し尖兵についた。両側のトラックの運転席を覗き込みながら駆ける。

 トラックは四台ずつ縦に駐車してあり、その先が道路だった。四人はしばらく佇む。北の方では爆発が続いていたが、大爆発はない。銃声は、ソ軍兵の短機関銃のものが多く、九九式は散発的だ。それが攻撃の成功を意味するかはわからない。時計を見ていた中津軍曹が伝令の肩を叩いて立ち上がる。二人は道を横切って補給品の方へ走った。

 道路を挟んで二手に分かれた指揮班は、右手に進む。軍曹の方は荷物を見ながら走り、板敷きがあれば立ち止まって確認する。しばらく途切れていた爆発が再開した。第五小隊の攻撃が始まって火事も広がったらしく、あたりは明るくなった。四人は火を背にしていて、影は前方に長く伸びて揺れる。少尉は軍刀を抜いていた。


! !


 敵兵二人と遭遇した時、間は三メートルもなかった。爆発の音響と爆風で失感したらしい。伝令の前にいた敵兵は、右肩に下げていた短機関銃をかまえようとして、ただ突進しただけの伝令の銃剣に刺された。刺突は、両者の体重と勢いが相乗して深く、致命傷となった。

 もう一人は拳銃を振り上げた大男だった。小兵の古谷では振りかぶれない。右手の軍刀を突き出し、捻った。左手を添えて払いながら、身体を右に流す。刀を背負う体だ。やはり勢いがあったので、静止するまでに四歩もかかる。喉笛を刺され、頸動脈を断ち切られた将校は、高く血煙を噴射しながら倒れた。落ちて来た血が音を立てる。

 駆け寄って来た中津軍曹は、二人の無事を見てとると、道路の奥へ走り出す。もう一人の伝令も間を空けずに続く。古谷は唇を噛んだ。将校がいるということは、有力な護衛部隊が奥に陣取っているということだ。歩哨に将校は要らない。爆発が起きてもすぐには出て来なかった。手練れだ。


 走り出した古谷の耳にキャタピラの音が響いて来る。






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