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SR満州戦記2  作者: 異不丸
第二章 八月一二日
13/33

四 哈爾浜


浜江省哈爾浜、新市街区車站街


 哈爾浜特務機関本部の自室で、総務班長の小山田中佐は関東軍情報部員の名簿を調べていた。三千人を超える部員の名簿は厚く、十数冊ある。姓名、出生本籍から始まって、隊内の経歴と情報部内での任務、現在の任地までが、考課と共に詳細に書かれていた。

 陸軍には兵籍簿というものがある。軍隊における将兵の戸籍というべきもので、原本は連隊区司令部と役場の兵事係に保管されていた。軍隊に入ってからの履歴は詳細に記されているが、入隊まではそうでもない。本籍地、出生日、家族欄はあるが、専門学校卒以上でないと学歴欄は空白である。

 国民のほとんどが父母と共に出生地で育ち、小学校を卒業する。例外は非常に稀である。しかし、学校を出てすぐに職につくものは多く、故郷を離れるものも多い。兵隊は学歴や職歴で差別されず、最初の兵種は徴兵検査で決まった。つまり、兵籍簿では、学校を出てから徴兵検査までの五年から八年が分からない。


 しかし、諜報や工作の担当者や要員を選ぶ場合、その数年間の経歴は重要であった。例えば外語専門学校を出ていなくても、外国に暮らした者には外国語の素養があると見ていい。異国での衣食住の体験は貴重で得難いし、さらに友人がいたのであれば日本人の一般平均を超える才能だ。兵籍簿には記されないが、総務班長が見ている部員名簿には、その数年についても記述があった。

 要員の顔と任務はほとんど頭の中にあるが、さすがに生まれ育ちまでは覚えていない。しかし、今度の任務では、生まれ育った地域が重要になる。異例なことに、作戦域は内地だった。農業を主とする町や村では、人の出入りはあっても、入れ替わることは少ない。七割以上の住民が故郷を離れることはなく、離れた二割もほとんどが戻ってくる。

 そんな中で任務を遂行しようとすれば、風習、訛りや土地勘が要求される。すでに、要員候補者は、兵籍簿謄本で出生地を確認して選び出してあった。今、その一人一人について、小学校を出てからの経歴が想定と食い違わないかを調べていたのだ。総務班長は新任務の責任者となった。万全を期さねばならない。



 竹林晃彦の覚醒と閑院少将宮春仁王の着任によって、それまで作戦課に阻まれていた戦略情報が流れてくるようになった。時には、帝国政府の政略や大本営の企図が察知されることがあった。また、哈特が上げた情報がどう扱われているのかが窺えることもある。恐るべきことだった。襟を正さねばならない。

 通化での持久戦は撤回されたが、大本営はそれに代わる大戦略を提示できていない。朝鮮軍、支那派遣軍からの増援と本土からの補給があれば、戦線を支えることは可能だ。しかし、蒋介石が中共を抑えると、武装解除を猶予する事由はなくなる。本土の交通は一六日に停止するし、一八日には連合軍が進駐してくる。

 満州国と朝鮮・内蒙の一部ではソ連と戦争中だが、その他の外地では戦争は終わっていた。大日本帝国では降伏調印、そして本土の占領が始まろうとしている。満州での対ソ戦争を継続することは不可能だ。政府は終戦処理を優先しなければならず、その枠組みの中で大本営も動くしかない。


 宇垣総理は、連合国へ全面的に協力するつもりのようだ。進駐してくる米軍へも積極的に対応する。陸軍では参謀本部の下に占領軍との連絡機関を設立した。第二部長の有末中将が責任者となった有末機関だ。外務省でも海軍省でも進駐対応への準備は進んでいる。ポツダム宣言を誠実に履行する。といっても、唯々諾々というわけではない。

 ソ連の扱いが、それであった。対独戦の連合国がソ連を含むのは承知している。しかし、日本にとっての連合国は米英支蘭豪であり、ソ連邦を含まない。宣戦していないからだ。同様に、七月二六日の対日ポツダム宣言にソ連は署名していない。マニラ会談もそれで押し通した。

 それが通ったのは、連合軍最高司令官となったマッカーサーの司令部が混乱していたからだ。ポツダム宣言の直後に、鈴木前首相は、ポツダム宣言を無視、黙殺するという声明を発表した。それを米国は真に受けて、日本降伏はまだ先と考えていた。だから、進駐参加国も占領地の割り当ても決まっていなかった。戦略観を失うと評価を誤りそうだが、要するに偶然である。



 しかし、このままで済むとも思えない。ヤルタ会談の密約は、スウェーデンの小野寺武官によっても確認された。ソ連の対日開戦を要請したのは米国のルーズベルト前大統領だった。日ソ戦争の終結にあたっては、米国はソ連の意見を容れざるを得ない。折角の蒋介石を通じた講和だったが、竹垣機関と日本にとっては是としても、甘粕機関と満州国にとっては不本意なものになるかもしれない。

 ところが、宇垣総理は積極的で、待つことを善しとしなかった。重光外相に諮って、吉田茂元外務次官をマニラに派遣した。マッカーサー最高司令官の進駐を待たずに、問題点を明確にしようとしている。懸案はいくつもあった。進駐までを鬱々と過ごすよりも、課題の検討をはじめたいという考えである。

 総務班長は直ちに判定することができずにいた。竹垣機関は蒋介石を通じて連合国の対日処理を緩和しようとしている。甘粕機関はさらに、満州とソ連との間に中国を介在させようとしている。宇垣内閣は米軍との協力に大車輪だ。それらは、対ソ戦争にどう影響するのか。哈特は情報を収集し、分析にあたっていたが、以前ほど確信が持てない。


 そのような時期に新任務で内地である。あるいは、とも思う。総務班長は煙草に火をつけた。関東軍酒保指定品の大亜細亜はやたらと煙い。敷島はうまかったなと思う。

 戸口に足音がして、申告が聞こえた。

「山内曹長、入ります」

「入れ」

 曹長は、夏用軍衣を着て軍刀を吊っていた。哈特本部では軍服通勤者は半分ほどだ。それは、机での書類以外に、外での仕事も抱えているからだ。

「班長、人名簿の処理が終わりました」

「ありがとう。日曜だというのに午後まで引っ張ってすまなかったな」

「いえ、かまいません。夕方までに着けばいいのです」

 曹長はこれから松花江北岸へ行く。国境省から避退して来た邦人の宿舎の一つがそこにあった。

「こっちも終わりだ。あがってくれ」

「はっ。失礼します」



 総務班長は部員名簿を金庫に戻す。調整されていない名簿はこの一部だけとなった。鍵をかけて自室を出ると、通信班に寄る。午後の受信は、斉斉哈爾から一つと新京から二つだった。用箋に署名をして、綴りを開く。

「一時間ほど前に電話しましたが、部長は留守でした」

 時計を見ると三時前。ロシア式の昼食も終わった頃合だろう。

「行って伝えよう」

「お願いします」


 玄関の手前で警衛の軍曹が声をかけてくる。

「総務班長、お帰りですか」

「公館に寄って行く」

「車ですね」

「頼む。久々に晴れたので歩きたいのだが」

 玄関を出て車寄せで待つ。開襟シャツに麻のズボンだった。





浜江省哈爾浜、新市街区郵政街


 哈爾濱特務機関長公館に戻った秋草少将は、公室に入って背広の上着を脱ぐ。当番兵が冷水の入ったコップを持って来た。

「総務班長が来られるそうです」

 笑って飲み干す。

「ありがとう。うまかった」


 いつものとおり、秋草が一服吸い終わると総務班長が入って来た。

「お疲れさまです。どうでした」

「健啖家がいたから、大盛況だ」

 秋草は白系露人事務局との昼食会に出ていた。白系露人は哈爾浜市民の主流であり、満州全土でも無視できない勢力だ。事務局は十年前に秋草自身が立ち上げたもので、哈特に戻ってから毎月の昼食会を再開していた。今日は、露西亜料理好きの宇部旅団長も参席した。

「今のところ、次の空襲はないそうだ」

「それはそれは」

 白系露人は哈特の露人部隊員の父兄でもあるが、ソ連に通じている者はいる。だが、関東軍が全戦線を支えている現況では、表立った抗日・反満の動きはなかった。


 総務班長は、午後の受信内容を説明する。

「斉斉哈爾からは独立第一五飛行団の偵察報告です。西正面におけるソ機甲軍の動きは緩慢、一昨日からさほど進撃していません」

 第二航空軍は、司偵を持つ独立飛行第八一中隊を除いて、西正面だけに作戦を限っている。戦闘機主体の独立第一五飛行団は、対戦車攻撃のために斉斉哈爾に集結していた。隷下の独立飛行第二五中隊の四式戦闘機がソ連機甲軍の越境を確認したのは九日だった。

「四日で百キロか」

「ソ連の機甲軍団の進撃速度は一日に百キロとされています」

 それは、開戦前にソ連に潜入した松花江部隊が外蒙のソ軍兵站線まで到達し、活動していることを示していた。

「うまくやれているようだ」



 新京からの一つは、甘粕機関からだった。

「その満映に入ると連絡された英国人マイク・アンドルーズですが、たしかに俳優出身の助監督です。今はロイヤルシグナルス所属」

「英軍の通信兵団、情報機関でもあるな」

 秋草は、昭和一五年から一七年まで満州国の在ドイツ公使館にいた。情報活動として視聴した英米の映画には、先次大戦でのスパイや今次大戦での地下抵抗運動を描いたものが多かった。その中に彼が関わったものもあっただろうが、助監督なら記憶には残らない。

「さすがは大英帝国、人材が豊富だ」

「あれは使えるということですね」

 甘粕理事長が陣頭指揮して撮影したニュース映画は、開戦前に満州国内だけでなく、朝鮮や支那にも配給された。その一つが大英帝国の長い耳にかかったのだろう。プロパガンダは、主に戦争遂行中の国威発揚と戦意向上に用いられるが、それだけではない。英国ならよく知悉しているはずだ。


「先月の総選挙でチャーチルは惨敗し、下野しました」

「労働党の大勝は危機だ。英国は戦時から戦間期に移行したのだな」

「英ソ同盟は終わりです」

「もとより国の体制が違う。あくまで対独戦のためだ」

 敵の敵は味方であり、それは戦時では絶対的なものだ。しかし戦争が終わり戦間期になれば、絶対はなくなり、相対的になる。英国は二枚のカードがほしいのだ、と秋草は言う。ソ連と協力する米国の敵のカードと、ソ連と対抗する米国の味方のカードと。

「英国なら二枚では満足しませんね」

「甘粕さんもそう思ったのだな」

 総務班長には別の感慨があった。六年間に渡る戦争を勝ち抜いた現役首相が率いる保守党が選挙に敗れた。英本土決戦をはじめ、たしかに苦戦だったのだろうが、英国民はあからさまに勝利の報酬を要求している。日本はどうなるのだろう。敗戦した日本国民は、なにを要求するのだろう。そのことは、次の任務に無関係ではなかった。



 秋草は、ほかのことを考えたようだ。

「陸海の対立もそう悪くもない。常に二つの札を持てる」

「国としての政略戦略が混乱します」

「陸海の対立を煽りつつ、それを利用するぐらいの策士が内閣にほしい」

「宇垣大将は主導できているようです」

「一方的な指令だ、考える時を与えない」

 宇垣総理は、木戸内府と平沼枢相の全面的な支持を獲得していて、陸海軍両省と外務省に対して高圧的ともとれる態度で次々と指示を出していた。刃傷を起こして解体も覚悟している陸軍には否はない。一方の海軍も不祥事が相次ぐ。

 日本では、禁中や殿中での高位の者の刃傷は両成敗であり、遺恨を買った海相も責任無しとはされない。叛乱と首相襲撃では不信を招いた。さらに、前海軍次官の不審死体が海軍省内で発見されたり、樺太での独断退却もある。海軍大臣に着任した長谷川大将は、宇垣総理に全く頭が上がらなかった。


「陸海を一つにしかねない勢いですね」

「そうだな。しかし軍の解体は避けられない」

 ポツダム宣言では、日本の戦争遂行能力と再武装が明確に否定されていた。しかし、連合軍の占領が終了して日本が再び独立する時には、日本人の奴隷化や絶滅を防ぐ何らかの手立てが必要だ。単純に考えれば国軍復活だが、連合国による安全保障もあり得る。

「マニラへの特使派遣は、勇み足となりませんか」

「宇垣大将は、前内閣の例をみたのだ。待つのは最悪手だと」

「受身になれば、閣内を抑えきれないと」

 ポツダム宣言は有条件講和であると看破した東郷外相は、拒否すべきでないと鈴木総理に念押しした。宣言文の公表に際して政府は見解を出さなかったが、新聞各紙は否定的に報じ、陸海軍は政府を弱気と見た。たちまち強硬論が再燃沸騰し、鈴木総理は公式見解を発表せざるを得ないところまで追い込まれてしまう。

 窮地に陥った鈴木総理は、米内海相の提案を容れて、『重大な価値あるものとは認めず、黙殺する』と、本意とは正反対の声明を出すに至る。意志表示の単なる延期であった筈が、賛否留保、無視、黙殺、非難、拒否と激烈の方向に高じ、ついに真逆の結果となってしまった。

「慎重な判断は、指導力を低下させる」



 当番兵が灰皿を換えに入って来た。秋草は新しい煙草に火を点ける。

「今夜は班長も出てくれ」

「はい」

 夜は、在住ユダヤ人との会食だった。

「日本で事業を起こしたいという若者がいるそうだ」

「それは物好きな」

 まもなく連合軍が進駐してくる日本の行く先は、まったく不明だった。日本政府は存続するとされているが、詳細はわからない。これまで通り、挙国一致を保てるか。容易ではない。戦勝した英国でも庶民の反動がある。統制された新聞でさえ、政府を窮地に追い込める。

 混沌とするであろう内地で、小山田は新しい機関を立ち上げる。今のところ、竹垣機関にも甘粕機関にも秘密で、哈特機関長の職権で行なっていた。そういう時に、異国に移住して事業を立ち上げようとする若者がいる。それは頼もしく、心強いことだった。

「是非、知り合いになりたいですね」





浜江省呼蘭県、浜北線新松浦駅南方


 東安省から避退して来た邦人向けの仮宿舎は、廃線になった旧馬船口線の駅舎前にあった。山内曹長は、第五次信州村開拓団の看板を見つけると、まず団長に挨拶する。陸軍曹長の軍装に目を見張った団長は、土産の朝日をもらうと顔をくしゃくしゃにした。喜んで、伯父の家へ案内してくれる。それだけで、山内の役目はもう終わったも同じだ。


「松二、よく来てくれた」

 山内は上がりこんで伯母が出した麦茶をいただく。急造の木造長屋は二間ずつの割り当てで、一間は畳があった。冬を越せる宿舎は、旧哈爾浜の丘陵に建設中だ。それを待つ間、避退邦人は防衛陣地の造成に徴用される。

「きつくないね」

「うん。ここの土は固いが、畑にするわけではない」

「そう」

 伯父はずっと松花江の対岸を見つめている。そこには、多くの開拓村があった。十一次、十二次だから入植したばかりだ。盛んに炊煙を上げている。






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