三 老黒山
牡丹江省東寧県、老爺嶺山系
重砲兵の観測所は、老黒山北西の長安山頂と新宮山中腹に設けられた。支隊長の近衛中尉は、両方の観測所で視界を確認すると、東の山麓に下りていく。その護衛に、歩兵小隊長代理の大島伍長は第三分隊をつけた。支隊に組み込まれた大島小隊の当面の任務は、重砲兵中隊の陣地守備と警護である。大島は山に残って、二箇所の観測所の警備にあたる。
老黒山支隊が編制されたのは昨夜だった。重砲兵第三連隊第三中隊を基幹に、歩兵第二八三連隊第七中隊特設増強対戦車小隊と第三軍司令部直轄の雑多な部隊が配属された。機動第一旅団の第二連隊と協同して、老黒山一帯の防衛とその他の作戦を行なう。だが、第三軍の直轄部隊はまだ移動中だった。到着すれば、大島小隊は元の対戦車小隊に戻る。
大島伍長は新宮山頂で近衛中尉を見送ると、西面中腹の観測所に向かった。九十九折を五百メートルほど下ると、観測所の生嶋軍曹がこちらを見上げていた。鉄帽に木の枝を刺し、観測所の擬装も申し分ない。そう言えば、今日の中尉は白手袋も白脚絆も止めて、泥色の巻脚絆に旧い迷彩縞の雨外套を羽織っていた。拳銃も大型のモーゼルではなく下士官用の一四年式で、指揮刀ではなく杖を握っていた。
生嶋が寄って来て話しかける。
「支隊長は下りられたか」
「ああ。公爵さまの御曹司とは驚いた」
「俺には、兵隊から幹候というのが驚きだった」
「総力戦だったからな。山口が言ってただろ」
「それは失礼だ。中尉どのは米国の大学だったんだぞ」
「失言だ、取り消す」
『飲んだくれや行き倒れみたいな奴でも兵隊にして戦闘できる様にする。それが総力戦だ』と、戦死した山口兵長はよく言っていた。二人は顔を合わせて笑いをこらえる。
「ソ連も総力戦か。囚人まで動員してる」
「ああ。東寧要塞にも来たという。対独戦で死にすぎたらしい」
「それで捕虜を連れ帰って働かせているのか」
「お前も見たのか」
「ああ」
大島が開戦直前に見たニュース映画はベルリン陥落とその後を映したものだった。山口は驚き、深刻な顔で頷いていた。生嶋は出立前に中隊幹部として見せられたらしい。聞いていると、映画の内容は違うようでもあった。
「中隊長は、まるでホンモノだと言った」
「え」
射撃指揮所は羅圏駅に置かれていた。老黒山駅より一つ、東寧側である。近衛中尉は指揮所に入る前に、北の方を一瞥した。対空擬装はまだ解かれていないが、そこには二門の特二十四糎長榴弾砲が据えられている。指揮所には、機動第二連隊の小山中尉が待っていた。いい知らせらしい。
「勝鬨山の独歩七八三大隊本部と連絡がとれました」
「朗報だ。さすがは機動連隊だ」
東寧要塞第一地区の主陣地、勝鬨山には出力の弱い手廻し発電の軽無線機しかなく、しかも本部は地下だ。ソ軍占領下で指呼の距離まで近づき、連絡をとって生還するとは並大抵の仕業ではない。
総司令部の『対露作戦計画』では、第三軍が担当する東正面の前面は独立混成第一三二旅団で、後方が第一二八師団だった。すなわち、東寧要塞に独混一三二が篭り、その周辺と背後で一二八師が迎撃と遊撃にあたる、単純で明快なものである。ところが、第三軍直隷であるべき独混一三二を一二八師の指揮下とするように総司令部から指示が入り、混乱が始まった。
国境会戦での最前線の任務は死守であり、担任する兵団は生還を望めない。一月に編成された一二八師には、解隊された国境守備隊からの転属者が多かったから覚悟はあった。一方、七月末に編成が完結した独混一三二には、いわゆる根こそぎ動員者が多い。地方人は不平不満を唱えて覚悟がなく、死守任務には不向きとされた。
一二八師は八月に入っても、定員二万三千に対して六割の一万四千しか充足されていなかったし、火砲や重機は五割にも満たない。独混一三二に至っては無線機さえなかった。しかし、二つの兵団を合わせれば、現役兵で装備充足の一個連隊ほどを国境線に配置できる。東寧要塞は強化された。だが、配備された部隊は二兵団から中隊単位で抽出されており、指揮の混乱は必至であった。
調整協議は開戦前日も続いた。東寧要塞は四地区二十三陣地から成っていたが、これを二地区八陣地へ再編統合、すなわち二個大隊八個中隊と改編する。無線機の目途もついて、陣地入りの段取りまで完了した。ところが、そこで再び総司令部の介入があった。
東寧要塞を強化した効果は顕著だった。
「損害はまだ軽微で、作戦に呼応できるということです。第二地区の情報も依頼しました。次の連絡は本日深夜です」
「ありがとう、小山中尉。これが終わったら本部に顔を出す」
「はい。戻ります」
小山中尉が出て行くと、近衛は自分の頬を両手で叩いた。
ソ軍の砲撃が始まった。生嶋が誘うが、大島は観測所には入らない。精密そうな機器がずらりと並んでいて、壊してしまいそうだった。
「ずいぶん機材が多いんだな」
「ああ、側距だけではすまない。山越えの間接射撃だから高低差が重要だ。つまり標高を計測する」
「日露戦争で旅順港の艦隊を狙ったようなものか」
「そうだ。無傷で二百三が手に入ったから、幸先がいいぞ」
綏芬河を突破したソ連第5軍は一気に穆陵まで進出していたが、東寧から進撃したソ第25軍の動きは鈍かった。東寧要塞が健在なため、思うように兵站路を構築できていない。戦力も第5軍の半分足らずと少なく、地形も山地ばかりで険しい。実際に、老黒山方面へは深入りして来ない。しかし、羅子溝方面は違った。
第一二八師団の拠点は羅子溝と大喊廠で、陣地構築も始めていた。しかし、もともと充足されてないところに、東寧要塞に現役兵と装備を差し出したから、さらに弱体化してしまった。二つの拠点を保持しつつ、遊撃に出るのは困難である。それを航空偵察でソ連軍に見抜かれたらしい。
昨日からソ第25軍の有力な部隊が城子溝の西、道河に集結しつつあった。第25軍の目標は図佳線までの進出で、老黒山や大喊廠を経由するのでは迂遠で峻厳に過ぎる。羅子溝の盆地は、二千メートル級の飛行場を開設できるほど広かった。戦車での攻撃にも、占領後の兵站拠点にも都合が好い。
戦車が進撃してくる騒音が響いて来た。観測所の中で電話が鳴り、兵隊が生嶋軍曹を呼びに来る。
「準備完了だ。行くぞ。よろしくな」
「了解。前哨陣地にいる」
観測所を守る第一分隊の陣地は、二百メートルほど下りたところにあった。広く散兵してはいない。下を見張れればいいのだ。砲撃は二時間もかからないという。急な斜面だから、観測所に気づいても、攻撃に上ってくるのは至難だ。
大島が陣地に入ると、第一分隊長の井口兵長が敬礼する。ソ軍戦車隊の進撃は山々に反響して轟音となっていた。
「小隊長、特等席を見つけました」
「おう」
井口は陣地を離れると腹這いになった。どうやら匍匐前進でしか行き着けないらしい。
大島と井口は、木々の間から頭を出す。幅一キロほどの谷間をソ軍が進撃していた。大綏芬河が穿ち作った谷間である。羅子溝の何十キロも南の山中から発した大綏芬河は、老爺嶺山系の支流を合しつつ北東に流れ、道河で北からの支流と合わさって綏芬河となる。そして、東寧の北五キロを東に流れてソ連領へと入る。
ソ軍が進撃している谷まで一キロはあるが、真上から見下ろすようなもので、間近に感じた。大綏芬河はうねうねと曲がりくねって流れるが、長安山の山麓から新宮山の山麓までの十キロは直線が続く。道河から羅子溝へ行く街道だ。河を挟んで二列縦隊になったソ軍戦車が快進撃していく。すぐ先には野砲陣地があり、さらに先には狙撃兵が広がっていた。
ここから四キロほど南の上流で大綏芬河は左右に分かれた。西の本流は羅子溝へ上り、東の支流は老黒山を経て黒営や狼渓まで続く。その分岐点のあたりに、歩二八四が布陣している筈だったが、応射はない。歩兵銃では届かないからだ。折角の狭隘地だが、重機関銃も歩兵砲もない連隊には反撃の術がなかった。
わーっ、と吶喊の声がした。ソ軍狙撃兵のものだ。大島には『らーっ』に聞こえた。野砲陣地を通過した戦車隊が四列横隊に変わって速度を上げた。追い越された野砲陣地は、榴弾に代えて発煙弾を撃ち出す。そして、戦車に轢き殺されないように、狙撃兵が突撃を始めたのだ。
ようやく、友軍の反撃が始まった。といっても小銃だけで、まばらなものだ。日本軍は当たる弾しか撃たないから、すなわち、彼我の距離が六百メートルを切ったのだ。
砲兵出身の井口が、大島に振り向いた。
「始まります。最初は破甲榴弾のはずです」
「ん。榴弾砲なら、そうだろうな」
大島は何気なく答えたが、井口は真剣な表情を崩さない。
重い雷鳴のような音が落ちてきて眼下で大爆発が起こり、戦車が数両も吹っ飛んだ。大島は慌てて双眼鏡をかまえる。爆発音が轟き、谷間は爆煙と土煙で濛々となった。砲撃間隔は長く、その間に風が吹くと戦果が見える。着弾点の穴は深いが、戦車や野砲への直撃はない。だが、雷鳴は続く。もとより、榴弾砲は戦車や野砲へ直撃を狙うものではない。
日本軍の重砲は、ベトン陣地や軍艦を貫通破砕するために、砲弾の主流は破甲榴弾だった。旅順港で露戦艦に命中した二十八珊砲弾は甲板装甲を貫けなかった。それから改良が続けられているから、命中すれば戦車などひとたまりもない。至近弾でも、爆風と穿たれる大穴によって転覆する。重巡洋艦による艦砲射撃に等しいのだ。
ただ、砲弾は着発信管だ。遅延なしで着地と同時に爆発する。爆風と砲弾の破片は地面から発するから、壕を掘って地面より低くいれば、生存できた。しかし、野砲の撃ち合いは想定されていない。つまり壕はなく、剥き身であり、爆風と破片の避けようはなかった。突っ伏して祈るしかない。
戦車の進撃は頓挫した。二四榴の弾着は次第に後方に移り、砲兵陣地を破壊していく。野砲を潰しておけば、次の攻撃までの日数が稼げる。ソ連軍の攻撃法は決まっており、砲撃に先立って、戦車大隊や狙撃連隊が突撃することはなかった。夕方には戦闘を終えて、数キロも撤退して夜営に入る。日本軍の夜襲斬り込みを嫌っているのだ。
だからといって、早朝に攻撃が始まるわけでもなかった。狙撃兵、野砲、戦車の集結と整列が終わり、野砲陣地に砲弾が積まれてから攻撃は開始される。攻撃開始の見当をつけるには、野砲陣地だけを見張ればよかったが、前線から五キロ以上も敵中を侵入しなければならない。平地では困難だ。
しかし、東正面は山岳地で地形は起伏に富む。山上から見渡すことができる戦場は多い。だが、歩兵砲や曲射砲では、山越え射撃はできても、威力と射程が足りなかった。七十度以上も仰角がとれて、四百キロの重さの砲弾を撃ち出す大砲など、そうそうない。老黒山の戦場は、まれに見る好条件が揃っていた。
大島伍長の双眼鏡の中で野砲と砲兵の殲滅が進んでいく。井口が肩を叩いて合図した。南の方を指差している。大島は身体を捻って、双眼鏡を振る。
「ソ軍兵が歩二八四の陣地に突進している」
「では、今度は対歩兵射撃です」
「うむ。陣地は空だ」
後方の大爆発に怖れをなしたソ狙撃兵は、日本軍陣地に向かって走り出していた。敵味方混在となれば、味方撃ちとなるから砲撃はできない。六百メートルなら三分もかからない。また、『らーっ』と吶喊の声が起きた。そして足元で小さな爆煙が起こる。地雷を踏みつけたのだ。
井口が言う。
「来ます」
砲弾の落下音は、大島には聞き分けられなかった。また、弾着もわからなかった。双眼鏡の視界の外で何かが爆発して、走っていたソ狙撃兵がばたばたと倒れる。双眼鏡を外すと、その上に白い爆煙があった。
「あれは当たったのか」
「ほぼ命中です。二式曳火榴弾です」
「ほぼ?」
「時限信管が速発でした。もう少し低い方がいい」
二発目は低いところで爆発したので、双眼鏡で捉えることができた。眩しい閃光も、少し甲高い音もわかった。またソ連兵が倒れていく。背中から煙が上がっていた。
「空中で爆発とは、榴散弾か」
「はい。この遠距離で撃てるとは、すごい練度です」
日露戦争までは、野戦砲弾の主流は榴霰弾だった。歩兵や騎兵の突撃を阻止するように、散弾の径と重量が算出されてあった。真向かいから撃つと、炸薬の爆発力に砲弾の飛来速度が加乗されて、威力は大きい。空中で爆発するので、壕内の兵士も殺傷できる。
しかし、爆発を制御する時限信管が曳火式だったので、調整が難しい。曳火式とは、火縄や導火線みたいなものである。遠距離ではうまく調整できず、日露とも千五百メートル以下の近接で使った。
「千五百なら、軽機も小銃でも届くぞ」
「はい。ですから、着発信管と榴弾となりました」
「なるほど」
榴散弾も命中を期して撃たれている訳ではない。しかし、ソ軍狙撃兵は完全に進撃する意志を失くしていた。双眼鏡の中では、回れ右をして退却する兵や、山へ逃げる兵が増える。だが、弾子は山の方にも散って行く。木々が揺れ、枝が落ち、葉が燻る。
ここで軽機か歩兵砲でもあれば形勢逆転だが、それはない。
「大戦果だが、このまま、退却するのを見送るのか」
「重砲兵にはその気はないようです」
着弾の音が大きくなって、大島は双眼鏡を外す。砲弾は榴弾に戻ったようだ。弾着は山側にずれていた。
「徹底しているな、御曹司は」
山肌で大爆発が起きて、岩石が戦車や野砲の上に降り注いだ。崩れた土砂が兵隊の足を攫う。谷の幅は半分ほどになった。
「斜面に喰い込んで中で爆発したぞ」
「遅延信管を使ったようです」
「すごい威力だな」
「小隊長、これは二四榴ではありません。特二十四榴です」
「なに」
「実径は三十糎です。旅順で使った二十八珊より大きい」
「重巡ではなく、戦艦だったのか」
将校が逃げる兵隊に拳銃を撃つが、兵隊は短機関銃を乱射しながら走る。また大爆発が起きて、それも見えなくなった。
牡丹江省東寧県、興寧線狼渓駅
機動第三連隊長の羽須美大佐は、線路が外された興寧線沿いに老黒山駅に向かっていた。狼渓駅で自動車の隊列が通りかかる。聞いてみると、老黒山支隊に配属される部隊だったので便乗した。隊列は長く、装軌車が多かった。十三屯牽引車や八屯牽引車は重砲兵だから当然としても、一式半装軌装甲兵車は珍しい。自動貨車も六輪ばかりだ。
「軍、いや方面軍司令部は本気のようですね」
連隊副官の日野大尉が言うと、羽須美は渋い顔で頷く。
「南の手当てがついたんだな。旅団司令部が豊焼まで出て来るのなら、うちは擦り減らされる」
東正面で最大の危機は牡丹江であり、かろうじて自興屯から穆陵の戦線で凌いでいた。周囲の兵団は牡丹江へ急行中であるが、第三軍も支援にまわるべきだと第一方面軍司令官は決心した。
老黒山支隊の編制は、近視的に見ればソ第5軍の左翼にいる第25軍への牽制だ。牡丹江への圧迫がすぐに減ることはない。だが、航空攻撃を引き受けるぐらいはできるかもしれない。それだけでも第五軍は一息つける。そういう状況だった。