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SR満州戦記2  作者: 異不丸
第二章 八月一二日
11/33

二 黒河


黒河省、愛琿県、愛琿城南楼


 ソ連軍の砲撃が始まった。黒竜江対岸の15榴の一斉射撃だった。昨夜から城内にあったソ軍戦車T-34のエンジン音も響いて来る。牛原軍曹は目を開けた。アンペラ一枚を敷いた床から起き上がり、静かに軍装を整える。バタバタと、足音が階段を駆け下りてくる。

「ちくしょう。立ったまんまで出せねえ!」

 戻って来たのは、小便に出た上野上等兵だった。股間を両手で押さえている。ヒロポンの覚醒効果は全員に共通で、眠気が醒めて夜目が利くようになる。しかし、副作用は人によって違った。興奮が下半身に出るものは少なくない。

「この砲撃でも静まらないとは、豪気なモノですねぇ」

「うるせぇ、下野。覚えておけよ」

 地下室の中は暗かったが、牛原の目はすぐに慣れた。当番の四名は、それぞれ壁に穿った監視口と電話に取り付いている。今起きたばかりの非番の四名も、すでに銃を手にしていた。そして最後の一人、右足を負傷した新田二等兵も、黄色薬の木箱の上で擲弾筒を握り締めている。




 牛原軍曹は分隊十名を率いて、愛琿街南の監視哨に六日から詰めていた。しかし、ソ軍の渡河が始まったのは八日の朝で、それも北の方だった。黒河要塞の主陣地、神武屯からは盛んに砲撃していたが、愛琿要塞からの発砲はなかった。午後、黒竜江を流れていく舟艇の破片やソ軍兵の死体を、分隊は本部に報告した。

 九日朝、愛琿街の対岸にソ軍の上陸舟艇は見えなかった。やはり、戦闘は黒河の方だけだった。ソ軍砲兵の反撃を受けて、黒河要塞にある一帯は噴煙に包まれていた。そして、上流から流れてくる破片や死体の中に、黒い鉄球が浮いているのを見た。本部は、機雷発見の報告に何も返答しなかった。夜から雨が降り始め、すぐに土砂降りとなった。

 一〇日も雨だった。朝、南の朝水陣地の方で砲声がした。西崗子の主陣地も砲撃を始めたが、南を狙っていた。四門だけだから、一〇加による長距離射撃だ。朝水陣地の西は、そこだけ山地が河岸まで迫っている。すると、ソ軍は、北からではなく、南から進撃して来るのか。午後になると、主陣地の一〇榴や一〇高の砲撃が始まった。弾着は朝水陣地の北側だった。


 昨日の朝、対岸のソ軍砲兵の砲撃は愛琿街に集中した。隊員は、いよいよ来ると頷き合った。そして、激しい雨の中でソ軍は渡河して来た。牛原軍曹の監視哨は、逐一、通過する敵の戦力を報告し続けた。およそ狙撃兵二個大隊、愛琿一帯では二個連隊になるのではないか。しかし、本命は午後だった。戦車だ。監視哨の前面を通過した戦車だけで二十はあった。

 ソ軍の砲撃は夕方になると不活発になった。雨がひどいせいもある。夜が更けると牛原軍曹は動哨を出した。愛琿要塞の主陣地は山中で、愛琿街までは十五キロもある。榴弾砲では届かない。加農砲や高射砲でやっとの距離だ。一〇加は四門しかないが、一〇高は十二門あるからやり様はある。それは、牛原分隊の偵察如何だ。

 偵察結果を報告するのが任務だから、上野上等兵に四人を預けて、監視哨と電話を守らせた。偵察行は軍曹自身を入れて六人で、西の愛琿駅へ進路をとった。駅までは十二キロあるが、そこまで進出する必要はない。主陣地がその方向だから、偵察した配置を報告すれば、上はソ軍の作戦意図を読めるだろう。


 土砂降りの中を、六人は散ったり集まったりを繰り返しながら進んだ。城内は戦車とトラックばかりで、歩哨はいるが形だけ、警戒は緩かった。城外に出てすぐ、牽引車に繋がれたままの野砲が二十門ほどあった。雨で見通しはきかないが、全体ではもっとあるだろう。

 その先から警戒が厳しくなった。歩兵の大集団が野営している。ソ連では歩兵のことを狙撃兵と呼ぶが、半数は機関拳銃を装備している。近くには、四十台を超えるトラックがあった。二十人乗ったとすると八百人、一個大隊だ。奥の方にもあるようで、片側二つなら両翼で四つ。つまり、自動車化狙撃兵が一個連隊以上である。

 そこからすぐに、野砲陣地があった。壕は五十センチ以上掘られ、前面には幾重にも土嚢が積まれてある。しかし、肝心の野砲はなく、無人だった。予備壕なのだ。数百メートル横に、野砲が据えられた陣地がある。野砲陣地は数キロも続いていた。砲兵同士の撃ち合いを覚悟した築陣だと分かった。何発か撃つと、別の陣地に移動するのだ。


 二時間が過ぎた頃、雨足が弱くなった。少し先に黒河と孫呉を結ぶ街道が白く浮かんでいた。牛原は全員を集め、これまでの偵察結果を話す。それから、下野上等兵を指名し、三人を連れて帰るように命じた。

 牛原軍曹は、古田二等兵だけを連れて、さらに進んだ。この先に、重要な何かがあるような予感がした。さっき、野砲陣地の壕や進入路を見たときに感じるものがあって、確かめるつもりだった。

 先に発見したのは古田だった。指差す方向を見ると、戦車より大きい黒々とした影があった。その時、照明弾が上がり、明暗が変わる。戦闘車両ではなかった。土木機械や農業機械と呼ばれる、ブルドーザやローダー、ショベルの類が並んでいた。


 古田の瞳には、羨望の眼差しがあった。嫩江にある満蒙開拓青少年義勇団の甲種訓練所には、満州で邦人開拓団が欲していた機械農業の教育のために、各種のトラクタや農業機械がある。義勇団員は、基礎訓練で機械農業を履修するからだ。

 古田は奇克県の北鎮訓練所から来た。霍勒漠津要塞よりも黒竜江寄りにあった。召集されてなければ、訓練所もろとも開戦の一発でお陀仏だったろう。牛原は憧れの農業機械に近づこうとする少年兵の肩を掴んで止めた。少し先に歩哨が立っていて、鉄条線も張ってある。この先には多数の兵隊が野営しているらしい。

 また照明弾が上がった。歩哨の数は多く、重機関銃も据えられていた。そして、それらは外ではなく、野営している兵隊たちの方に向けられていた。古田は驚いて振り返る。見た光景が理解できないらしい。牛原には理解できた。おそらく、囚人部隊だ。




 牛原軍曹は、二階まで上がって外の様子を窺った後、用足しを済ませて地下室に戻った。電話の置かれている机に向かう。新田と古田が数える砲撃の数を、下野が時刻と共に帳面に書き付けていた。電話の前には上野がいる。

「敵さんの弾着は、愛琿駅を挟んで前後二キロということです」

「榴弾か」

「いまのところ。発煙弾はまだ」

 戦車のエンジン音に変化があった。暖機が終わって、出撃するらしい。下野が時計を見て書き留めた。監視口に立つ大城と小城の肩が緊張する。キャタピラが地面を叩く音が近づいて来た。

 上野が質問する。

「戦車が出発したと報告しますか」

「まだいい。久野一等兵は二階に上って牽引野砲を見張れ。動きがあったら下りて来い」

「はっ」

 出撃した戦車隊が前線に到達するにはまだかかる。雨が止んで視界は通るようになった。牛原は全員に声をかけた。

「城内から自動車が続くかどうかが肝心だ。見落とすなよ」

「はっ」


 ソ連の攻撃の段取りに関しては、愛琿要塞の戦闘指揮所も見当がついている筈だ。牛原分隊のほかにも監視哨はあり、また前哨陣地からも偵察は出ただろう。野砲の一斉射撃に続く歩兵の突撃に対する備えは出来ている。囚人部隊と戦車隊の闇雲な突進には手を焼くだろうが、報告されているから不意打ちとはならない。

 要塞前面とソ軍の間には、まだ十数キロの距離があり、平地だ。わが軍が砲兵をうまく機動できれば、各波撃破するのは困難ではない。愛琿要塞を主陣地とする独立混成第一三五旅団の砲兵大隊は、一〇榴十二門、一〇加四門、一〇高十二門のほかに、野砲と中迫を二十門も保有していた。

 ソ軍の作戦は、北黒線沿いに布陣するわが軍を後退させ、山中に追い込むことだ。ソ軍の戦線が要塞包囲線となった時に、ソ軍は攻勢の主導権を得る。そして、戦車と自動車化狙撃兵を一体として、何処かで一点突破を図るだろう。要塞を陥すことではなく、後方へ進出することが目的なのだ。


 牛原軍曹は頭の中で、これからの分隊の行動を反芻した。ソ軍戦車と牽引野砲の出撃が終われば、城内は空になる。あと一時間ほどかかるだろう。それから動哨を出して、ソ軍の戦闘指揮所あるいは司令部の在り処を探る。見当はついた。奥の河岸に設置してあるはずだ。今日の合戦が日本有利に動き、ソ軍戦線が後退するようであれば、わが軍は付け入る。一〇加の射程は十八キロあるから、大口径狙撃は可能である。

 もしも前線での戦闘がソ連有利に動けば、ソ軍戦闘指揮所は前進する。無線機や発電機を載せたトラックと、多くの乗用車が城外へと出る。そして、さらなる増援が渡河して来る。昨日のような舟艇を繋いだ急造の門橋ではなく、戦車も渡れる重門橋や本格的な架橋だろう。

 架橋位置は愛琿街とは限らないが、指揮所は置かれる。昨日のソ軍の砲撃で愛琿街は廃墟に帰したが、城壁や家壁の残骸、基礎と舗装や石畳は残っている。三江省ほどではないが、やはり湿地帯の多い黒竜江沿岸では、堅い地盤だけでも重要だ。そして、牛原分隊が監視し、偵察すべき対象は、減るどころか増えていくのだ。


 牛原も、分隊の誰も、一日の攻撃で愛琿要塞が落ちるとは思っていない。あと数日、開戦が遅ければ、それもあったかも知れない。要塞の砲は後方への移動が下命されており、大半が撤去されて駅に運び込まれていただろう。わずか数門の大砲では、旅団も、要塞線防衛を早々に諦めていたのではないか。


「軍曹、最後の戦車が通過してから二分経過しました。十二両すべてT-34です。昨日七両あったBT-7は一台も出ていません」

「そうか。よし」

「軍曹どの」

「おう」

「牽引野砲が動き始めました」

「よし。上野上等兵、小隊本部へ電話だ」

「はっ」

「報告が済んだら、飯だ。古田二等兵、牛缶を五つ開けてよろしい」

「はっ」




挿絵(By みてみん)




黒河省呼瑪県、金山鎮近傍


 呼瑪県の県公署は、黒竜江から十キロほど内陸の呼瑪河の岸に移っていた。開戦翌日の七日の朝、金山鎮はソ軍の舟艇の急襲を受けた。住民は前の日から避難していたから無事だったが、県の建物はほとんど焼かれた。乗り付けた舟艇から迫撃砲を撃ちこみ、上陸した兵隊が銃を乱射した。手榴弾を何発か投げ込むと、それだけで引き揚げていった。

 その時、国境警察隊長の大木警尉は一キロほど離れて待機していたが、あっという間で何も出来なかった。五分もいなかったのではないか。それ以来、襲撃はない。だが、大木は、黒竜江と呼瑪河の合流点に監視哨を置き、黒竜江沿いも騎馬の巡邏を怠らなかった。今朝も三騎で回ってきたところだ。

 臨時の県公署は、高床式だった。呼瑪河の岸辺にも深い湿地帯は多い。材料は営林署宿舎にあった。丸太を持ち込んで打ち込み、その上に厚い板を張って、解体した宿舎を据え付けた。建て方は、宿舎に陣取った騎兵留守隊が行なった。手際は見事なもので、九日夜の雨の前には出来上がった。


 馬を部下にあずけると、大木は公署に顔を出す。県知事の陳公礼が、大木の上司と談笑していた。六日の夜に舟艇で出撃していた原田警佐は、今朝早く徒歩で帰って来た。国境警察隊の隊舎に保管してあった機雷を持って、黒河までソ軍上陸部隊を襲撃してきたのだった。戦果は大きかったらしいから話が盛り上がるのはわかる。だが、大木はすでに聞いていた。

 付近の巡邏に異状がないことを報告すると、大木は外に出た。いい匂いが漂って来た。肉と野菜を炒めているらしい。そういえば、もう昼だ。県の建物だけでなく、商店のいくつかも再建されてあった。長屋形式だが、最小限の必要は足りる。商品が濡れなければいいのだ。食堂を再建に入れた覚えはなかったが、商家の軒先を借りているらしい。

 弁当を持って出勤した大木には食堂は無用だが、任務の内だから一応は顔ぶれを見る。ほとんどは商家の使用人で、主人に持ち帰る料理を待つ女中もいた。山から下りて来たオロチョン族の猟師もいる。開戦前から金山鎮で見知った者たちだ。大木は、頭を下げる食堂の主に鷹揚に頷いて通り過ぎる。



 隊舎に戻ると、副官の張警尉補を呼んだ。

「食堂に新顔が一人いた」

「はい。愛琿県黄金子の商人で周金平と名乗りました。字名のとおり金商人で、山を見に来たそうです」

 黒河省は金を産出した。今でも砂金を採る満人や漢人はいるから、申し立ては怪しくない。しかし、ソ連と開戦した今、わざわざ奥地まで出向いて来るだろうか。

「副官はどう思うか?」

「はっ。山を見たいとは、金だけではない。人も見たい筈です。荷物の中にはオロチョンが欲しがりそうな物が入っているでしょう。この時期に出向いて来るからには本気です。県としては期待したい。知事によると、愛琿には周という金商人がいます」


 全てを長が判断していては、下が育たない。そう言われたことがあって聞いてみたが、なるほど活眼すべきものだ。大木が深く頷くと、力を得たらしく、張はさらに続けた。

「しかし、ここまでの行路が怪しい。周は船と馬とを乗り継いだと言っておりますが、船はない。馬を問い合わせしたいのです」

 問い合わせとは、黒河からここまでの主な村や郷に対してだ。馬は万能のようで、実は、農耕用と荷役用と乗馬用とで全く異なる。乗馬用や馬車用に貸し出すことができる村は、相当に裕福な村であり、限られた。さらに、このところ雨が続いたから、飼料の入手からも足がつく。

「よかろう。任せてよいか」

「はっ、承知しました」

「頼んだ。戻ってよし」

「はっ、失礼します」

 張は敬礼して出て行った。



 大木は煙草に火を点ける。県公署と同時に商店も再建すべきだと提言したのは、北から戻って来た宇田だった。

『戦争が始まった今こそ、商業を止めてはいけません。商品の流れは、それ自体が情報なのです。黒竜江も、興安嶺の西も戦場となって、これまでの商品の供給が止まった。そこへ、営林処の備蓄を放出することで流れを見るのです。変化があるかどうかを。量は少なくてもいい』

 例えば、と宇田は言った。

『パンがあふれる欧州の町で米と味噌が売れたとしたら、その町には日本人が住んでいると考えていい』

 この場合、店で売られている米と味噌を買いに来るアジア人が目当てではない。「珍しい土産物」として友人に買っていく欧州人が重要だ。決して、購入者が消費者とは限らない。保存品なら数人の手を経て最終消費者に渡る。


 大木は、宇田の最後の言葉を思い出した。

『今、ソ連のある地方でしか手に入らない煙草を供出しています。また、支那江西省のある村でしか調合されない調味料もね。これらに再注文が来たら、一大事ですよ』






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