86.死んだふり
次の日もゾーイを連れて、店にやってきた。
この日も都合良く席が空いてくれた。
その事に心底苦笑いしたが、おくびにも出さずにアリーチェの歌を聴き続けた。
演目が進み、ほとんどの客がアリーチェに注目しているのを見計らって、ゾーイと『繋いだ』。
『俺の声が聞こえるか?』
『はい、ご主人様……あれ?』
普通にこっちを向いて、普通に返事をしたゾーイ。
しかしすぐに異変に気付く。
『声が……自分のものじゃない?』
『いや、それで合ってる。人間の声ってのは、自分の耳と他人の耳には違って聞こえるもんだ』
『なるほど? あっ、凄くはっきり聞こえます』
ゾーイはそうつぶやきながら、まわりを見回す。
アリーチェが歌っている店の中では、ほとんどの声がその歌声にかき消されて聞き取りづらくなっている。
実際、店員が来て注文とか取る時は耳元で普段より大きな声で、半ば怒鳴るくらいの勢いで話す。
それなのにもかかわらず、俺とのやりとりは普通にはっきり聞こえるのが不思議って感じだ。
『糸電話で遊んだことはあるか?』
『はい、ありますけど……』
『フワワを利用した、透明の糸電話だと思えばいい』
厳密にはもうちょっと複雑だが、そこまで説明する必要もない。
『なるほど……あっ、ご主人様の口が動いてないです』
『糸で結んでる者同士しか聞こえない、かつ俺自身口を動かさないでしゃべれるから』
『内緒話ですね。さすがです陛下』
ゾーイはこの技のメリットをすぐに理解した。同時に呼び方も変えた。
そういうことだ。
音や声は普段、空気に乗せて伝えられる。
糸電話のように、ものに乗って伝える事も出来る。
地面に耳をつけて、遠くの物音が聞き取れるのはそのためだ。
フワワを使ったこれは、空気を排除して、見えない糸のみで声を伝えるから、俺が繋げた人間との間でしか聞こえない。
防音魔法よりも、もうワンランク上の盗み聞き対策だ。
『連中に伝えたか?』
『はい、陛下がアリーチェさんを気にいってしばらく留まると話したら、凄く嫌そうな顔をしてました』
『そうか、ならいい。それなら楽になる』
『楽、ですか?』
内緒話という意識が出来たこともあって、普段は首をかしげるところを、ゾーイはそうしないで、目線だけで不思議がるのを伝えてきた。
『こっちが動かなきゃ向こうが焦れる。ゾーイ、今回の件、どっちが焦ってると思う?』
『えっと……陛下……は、焦る必要ありませんよね』
俺は頷いた。
彼女を育てる為に状況を利用した設問を出したが、彼女は見事に理解していた。
『そうだ。塩税の減少は、いわば慢性化した帝国の病巣だ。今解決しなくても、事態はそれほど大きく動きはしない』
『ですが、相手は――陛下がここにいらっしゃる限り、密売をする事は出来ません』
『そうだ、街ごとを脅迫して、大がかりに変えて見せるのは、金がかかるのはもちろん、同時に収入がストップするということだ。帝国が減った分の塩税がまるまる向こうの懐にはいったと考えれば、一日止まっただけで、すくなくとも損失は十万リィーンをくだらない』
『そんなに……』
ゾーイは絶句した。
一介のメイドからすれば言葉を失うほどの大金だということだ。
『そういうわけだ。余が動かなければ、向こうが焦れて動き出す。だから余はのんびりしていれば良いのだ』
『なるほど! さすが陛下!』
ゾーイにふっ、と微笑んで、酒を一口、つまみを一切れ口に放り込む。
『しかし……十万……。そんなに大金を、許せません。全部明るみになった後は処刑しなければ』
『……』
俺は答えなかった。
ゾーイの言うことは分かる、その気持ちもだ。
だが、人間って言うのは、たいていの場合死んでるよりも生きてる方が使いようがある。
況してや、帝国からこれほどの税を掠め取るシステムを作りあげた連中なら、上手く懐柔すれば……。
人は宝、そして可能性。
うまく懐柔できればいいんだが。
そう思いながら、歌を聴き、酒肴を口に運び、享楽している振りをする。
店員が新しい料理を運んできた。
それを再び摘んで口の中に入れた――瞬間。
『……』
俺は、ゆっくりと。
糸が切れた人形のように、テーブルの上に突っ伏した。
「へ――ご主人様!?」
頭上からゾーイの悲鳴のような声が聞こえる。
「ご主人様! ご主人様!?」
体を揺すられる、鼻の先や、胸を次々と触られる。
「死んでる……?」
☆
客が全員居なくなった店の中。
俺は床に寝かせられた。
目を閉じたまま、聞き耳を立てている。
「ちゃんと死んだのか?」
「は、はい。見ての通り心臓も止まってます」
「どれ」
初めて聞く男の声と、店員の声。
男の耳が俺の胸に当ててきた。
「確かに死んでるな。へっ、とっととこうすりゃよかったんだ」
「あ、あの。当店は……」
「心配するな、悪いようにはしねえ。この店はもう畳め。街の反対側にこれの倍はある店をくれてやる」
「あ、ありがとうございます!」
なるほど、俺に毒を盛ったご褒美ってわけだ。
「あの……」
今度はゾーイの声が聞こえた。
「なんだ? 金が欲しいのか」
「いえ、ご主人様の遺体を、私に引き取らせて下さい」
「あぁん?」
「長い間お世話になった方です。せめて、この手で弔いたい」
「好きにしろ」
男が鼻で笑ったあと、足音がして、それが徐々に遠ざかっていった。
どうやら店の外に出たようだ。
それに少し遅れて、不安げな足音がして、それも遠ざかった。
店員が、店の奥に入ったようだ。
周りに人が居なくなったみたいだ、なら。
『よく分かったな』
『陛下が毒殺されるはずがありませんから』
薄目を開けると、ゾーイは俺の側で、目を閉じて手を組んで、まるで祈りを捧げるようなポーズをしていた。
なるほど、これなら声が聞こえないのも合わせて、俺に黙祷しているようにみえる。
やるじゃないか。
『陛下にはアポピス様がついていらっしゃいます。その辺の人間が手に入る毒で陛下が死ぬはずがありません』
『ああ、毒はアポピスで中和した』
『はい……ですが、心臓が止まったのは?』
『それもフワワだ。額を触ってみろ』
『はい……あっ、鼓動が』
『そこに心臓の代わりになるものを作って、一時的な代用品にした。心臓は止めてるが、これで血は流れてるから、なにも問題はない』
『そんなことまで……凄いです……陛下』
ゾーイは心底、感心したような顔をした。
『陛下。これからどうなさいますか?』
『お前が上手くやってくれたから、それに乗っかる』
『私が?』
『ああ。このまま余を火葬場に送って、火にくべろ』
『……バハムート様ですね』
『ああ。バハムートがいるから、火葬程度の炎で余はどうもしない。向こうの警戒を完全に解かすには、一度俺が燃やされた方がいい』
『さすがです陛下。わかりました』
『その後お前はこの街を離れろ』
『私が居なくてもいいのですか?』
驚くゾーイ。
『ああ、向こうを欺くための芝居だ。普通に離れろ、戻らなくていい。俺が連絡するまでは普通に都に戻る旅をしてていい』
『わかりました』
ゾーイは頷き、俺から離れた。
遠くから細々と、遺体を運ぶ手段と、火葬場の場所を店員に聞いているゾーイの声が聞こえてくる。
俺はそのまま死んだふりを続けた。
フワワを使ったこの死んだふりは別段大変でもなんでもない。
糸電話で、声をそこだけに乗せるのに比べれば大した手間じゃない。
むしろ、俺の料理に毒が盛られたと気づいた時、キレかかったレヴィアタンを宥める方が大変だった。
『――!』
今も半ギレのレヴィアタン。
狂犬で忠犬なこいつは、俺を害する人間は許さない。
さっきも、ちょっとでも気を抜いてたら、俺の死亡確認をしたあの男の首が落ちているところだ。