85.合奏
店に入って、本当にアリーチェなのかを確認しようとしたが、彼女の歌声に聞き惚れてか、街の人々が誘蛾灯の如く入り口に群がっていた。
ちらりと見えるだけでも、店の中が満員になっているのが分かる。
これじゃ入れない、と普通は思うところで。
「少々お待ちください、席を作らせてきます」
ゾーイもそう思ったようで、懐に手を差し込んで、金を握らせて席を作らせようと動きだした。
「待て」
「ご主人様?」
「そんな事をする必要はない」
「ですが……」
俺はゾーイを無視して、人垣を割ってその向こうに進んだ。
入り口を潜って、店の敷居を跨ぐ。
中に入るとより分かる、完全に超満員、席なんて一つも無い状況だ。
俺達が中に入るとほぼ同時に、申し訳なさそうな顔で店員がやってきた。
「お客様すみません、ご覧の通り席がいっぱいでして……」
「そうか」
頷き、そのまま引き返そうとすると、奥から更に一人の店員がすっ飛んできて、最初の店員に耳打ちした。
その店員は何度か頷いてから、俺に商売用の笑顔を向けてきて。
「お客様、丁度今、別のお客様がお帰りになるみたいで。すぐにご案内できます」
「分かった。頼む」
頷くと、店員達は一旦店の中に引っ込んだ。
隣でゾーイが不思議そうな顔をしていたので、振り向き、小声で説明してやる。
「仕組まれた偶然ってヤツだ。これが向こうの仕組んだことなら、俺に席がなくて入れないなんて事にはさせないだろ」
「なるほど……さすがご主人様。そこまで考えが及びませんでした」
ゾーイにふっと微笑んで、改めて振り向き、歌声に包まれた店の中を眺める。
「むっ」
「どうかしたのですか?」
不思議そうな顔で聞いてくるゾーイ。
俺はどう答えるべきか少し悩んだ。
ちょっと見ただけで、何人かを見つけた。
明らかに歌目当ての客ではない、目はステージに向けられているが、意識は俺の方に向けてきているのが――三人。
俺を監視するための奴が三人も既に紛れ込んでいるのを気配で察した。
だが、それをゾーイにそのまま言うわけにはいかない。
人を騙すのに、真実だけ言った方が効果的なのだ。
俺も、そしてゾーイも。
それを踏まえて、俺は言葉を選んで、ゾーイに言った。
「都合の良いところに席が空いたな」
そう言い、視線は今し方「空いた」席に向けた。
こっちを観察している連中に気づく。
少し考える、
騙すには嘘は言わない。
「良い席が都合良く残ってたな」
と、今度は普通のトーンで話した。
ゾーイは一瞬虚を突かれたかのように目を見開いた。
直前の俺の台詞とまるであべこべな感想だったから、何の事だろうかと思った。
しかし、一瞬で彼女は理解して、はっとした。
顔は動かなかったし、余計な事はなにも言わなかったが、目がぎょろっとして、一瞬だけまわりを気にしたのが分かった。
とっさにそう理解して、そういう反応が出来る。
ゾーイも、俺のメイドになった頃に比べるとかなり成長していると見える。
「ご主人様だからでございます」
「そうか」
適当なやりとりをしつつ待った。
しばらくして、店員に席に案内された。
それは店の一番後ろの、少し高くて、真ん中でステージを真っ正面から見られる席だ。
紛れもなく、この店で一番良い席なのが分かる。
俺は密かに冷笑した。
偶然を装うにしてはわざとらしすぎるということに。
それは指摘しないで席に着いた。
ゾーイは俺の隣に侍るように佇んだ。
アリーチェの歌を聴く。
また、少し上手くなったみたいだ。
芸事で上達するにはいくつかの要素があれば事足りる。
まずは継続すること。
そして目標がはっきりしていること。
最後に後顧の憂いがない事。
最初の二つは、出会った頃からアリーチェは持っていた。
そこに俺が、彼女の母親の件も含めて、不安を全部取り除いてやった。
そうして、アリーチェはみるみると――今もなお、会う度に上達していた。
そのアリーチェの歌声に、店の内外問わず、ほとんどの人間が聞き惚れていた。
そうじゃないのは俺を監視している連中だけだろう。
曲や歌には「波」がある。
歌い手が意図するその波に乗せられて、歌声に揺蕩う一同。
プツン!
アリーチェの代名詞でもある、ハープの弦が一本はじけ飛んだ。
店の中がざわつく、夢心地のような歌声の中から、現実に戻された客達。
ざわつきが大きくなる、ステージの上でアリーチェが困っている。
白魚のような指がハープの残った弦の上を滑らせる。
切れたのは一番重要な弦で、指を滑らせただけでも、音が欠けているのがはっきりと分かる。
修理には時間がかかろう、このまま水入りだ。
――それではもったいない。
俺はフワワを呼んだ。
腕輪の中にいたフワワは、俺の意識を汲んで実体化した。
長い横笛になった。
それを構えて、そっと口を付ける。
即席で作り出した笛は、意図した通りの音色を出してくれた。
一瞬、店の中がざわつく。
アリーチェもきょとんとして――俺に気づいて驚く。
俺は笛を吹いた。
音色でアリーチェを「急かした」。
アリーチェは旋律を理解して、再びハープに手をはわせた。
切れた弦を使わないように、即興で曲をアレンジして歌う。
足りない音は、俺の笛が補った。
「うわぁ……」
隣に控えていたゾーイが感嘆の声を漏らした。
客達も一瞬戸惑ったものの、さっきまでと変わらないくらい、音楽に聴き入った。
曲が終わると、客から万雷のごとき拍手が起きた。
拍手しているのはゾーイもだった。
「凄いですご主人様!」
「そうか」
今の演奏は俺じゃなくて、バハムートだった。
それとなくバハムートに憑依させて、指と口をそいつに動かさせた。
剣や拳など、戦闘術を再現するのと同じように、バハムートが知っている演奏の動きをシミュレートして、再現した。
それが上手くいった。
さすがに応急処置だけでは続けようがなく、演奏は一先ず終わると発表された。
客が次々と店から出て行くと。
「他には居なかったか」
「え? なにがですか?」
俺は無言で手を挙げて、未だに呆然と座ったままの三人の男を指した。
そして、小声で。
「あれが俺達を監視してた奴らだ」
「えっ?」
「今の曲に魔力を込めておいた。敵意や害意を持つ者がより反応して、衝撃を受けて長く呆然としてしまうんだ」
「そ、そんな事も出来るのですか!?」
「ああ。ちなみにこれで人を殺すことも出来る」
「ええ!?」
「反対に極限まで興奮させれば、血圧が上がって脳卒中を引き起こせる」
「あっ……」
ゾーイは聡い。
ここで「そんな事も出来るの!?」とは聞かない。
物事には常に正反の両面があって、片方が出来ればその反対の事も可能であるという事が彼女にはわかる。
だから彼女はただ一言。
「やっぱりご主人様凄いです」
とだけ言った。
☆
「ふざけんじゃねえ!」
ギルドの中、若い男が二人向き合っていた。
小柄な男は報告に激怒して、高級茶器を怒りのままに床にたたきつけて割った。
背の高い男は冷静に、茶に口をつけたまま考えごとをしている。
二人はそれぞれ、ギルドのトップとナンバー2の息子だ。
この二人が現場を取り仕切るようになってから密売と税金のごまかしが年々増えていった、いわば真の首謀者という二人だ。
「落ち着きたまえ。この場で逆上してもどうにもならないだろう?」
「これが落ち着いていられるか! 『誰の誘いにも乗らなかった歌姫に誘われたからしばらくこの街に居る』!? ふざけるな!!」
小柄の男は更に激怒して、テーブルを蹴っ飛ばして、盛大にひっくり返した。
もう一人の優男はあくまで落ち着いたまま、思案顔をしていた。
「なにも悪いことではない。エサには食いついたのだから」
「エサを食ったらとっとと帰り支度しろ! そいつが居ると密売が出来ねえ。一日密売が止れば、それだけで10万級の損なんだぞ!」
「……」
優男の眉が少しだけ潜められた。
相方の言うことももっともだ。
皇帝の密命を受けて調査しに来たあの男対策の為に、塩の密輸は一旦止めてある。
そしてその密輸は、今や一日で10万リィーン以上の利益となるほどに成長した商売だ。
その男がいるだけで、一日ごとに十万リィーンの損失なのだ。
「もうガマンできねえ! そいつを殺るぞ!」
「……曲がりなりにも皇帝の密命を受けてきた人間、それは早計というものではないか」
「構いやしねえよ! そんなの、金さえばらまきゃどうとでもなる! 何のために日頃から第三親王と第十親王に貢ぎ物してると思ってんだ」
「……そう、だな」
優男はすこし考えて、静かにうなづいた。