66.ノア裁き
喉を押さえて苦しむ代官を置いて、女の方を向いた。
中年の女に支えられた彼女は、何か言いたそうだが、呻き声しか出せなくて悲しそうな顔をしている。
「少し待て」
女にそう言って、アポピスを呼ぶ。
「お前、毒をいち早く感知したな。この毒は消せるか?」
『簡単。人間同じ、息すること』
おそらくは呼吸と同じくらい簡単な事だ、とアポピスは言いたいんだろう。
そんな分かるような分からないような片言で応じた後、俺の腕輪の中から紫色の、毒々しい煙が湧き出して、女に向かっていった。
アポピスの蛇の杖はレヴィアタンの水の魔剣と同じように、見た目の体積を自由に変えられて、小さくなった状態で俺の腕輪の中に収納している。
そのままで元のサイズに戻すことなく、「何か」だけを吐き出した感じだ。
「――っ!」
「安心しろ、悪いようにはしない」
見るからに毒っぽい、紫色の煙だ。
それを見た女はビクッとして逃げようとした、当たり前の反応だ。
俺はそれを止めた。
女は迷ったが、次の判断を下すよりも早く煙が女に取り憑いた。
煙は女の口や鼻から入っていく。
まるで女が全力で吸い込むような感じで、煙は瞬く間に、女の体の中に全部収まっていった。
むずがって、咳き込んで。
そして。
「……あっ、話せる」
「「「おおおおお!!」」」
女の声が戻ったことで、群衆の、最前列あたりで声が聞こえた者達が一斉に歓声をあげた。
「あんなに喉が焼ける程だったのに……どうして」
「毒を中和しただけだ。病気とかならなんとも言えんが、毒ならどうとでもなる」
『オレ、毒の神』
アポピスが片言で自慢げに言った。
毒ならば自分に勝る存在はいない、どんな毒だろうが制することが出来ると、アポピスの自信が感情としてそのまま俺に伝わってきた。
それに頼もしさを覚えた。
「ほんっとうにすごいわね。ねえねえ、今の、どうやったの?」
台にあげた「おばちゃん」は驚き、感心した。
それに付き合ってると話が盛大に脱線しかねないので、無視して、女にだけ話しかけた。
「これで話せるようになったな。なんでこうなったのか言ってみろ。冤罪なんだろう? 俺がなんとかしてやる」
「……うぅ」
女は俺をしばし見つめたあと、無言のままボロボロと涙をこぼした。
しゃべれるようになって無実を訴えるのかと思いきや、まったく違った行動だ。
俺はすこし戸惑った。
しかしすぐに、その反応の意味を知る。
「レナが……娘が……。レナの母親なんです」
女の口から紡がれる、支離滅裂な言葉。
断片的なキーワードを拾い集めた俺の頭の中に、とある想像が浮かび上がった。
眉をひそめて、それを聞く。
「もしかして、お前、被害者の母親か」
「……」
女は無言のまま、しかしこくりと頷いた。
次の瞬間、群衆の怒りが頂点に達した。
「何だよそれは!」
「被害者の母親を死刑の身替わりかよ!」
「どこまで腐ってるんだよ!」
あっちこっちから罵声があがった。
俺は「はっ」と、鼻で笑った。
ある意味感心した。
被害者の遺族を死刑の身替わりに突き出した。
まさに一石二鳥だ――胸くそ悪いくらいに。
ますます許せん――とそんな事を考えていると。
誰かが喉を押さえつけている代官に向かって飲み物のコップを投げ込んだのを皮切りに、色んなものが投げ込まれてきた。
雨あられの如く、様々な物が台の上に投げ込まれ、降り注いできた。
「ふっ!」
レヴィアタンを抜いて、それを全部斬りおとす。
斬った跡をバハムートの炎で燃やし尽くす。
数百はあろうかという飛来物を余すことなく全部払い落とした。
「あんた、やるじゃないの!」
感心げな言葉をつぶやく「おばちゃん」はやっぱり「おばちゃん」で、この状況下でもどこか呑気だった。
それも無視して、俺は群衆に向かって。
「私刑は許さん」
と言い放った。
「そいつを庇うのか!」
「お前も結局仲間なんじゃないのか!」
等々、様々な罵声が飛んできて、怒りの矛先が今度は俺の方に向かってきた。
これをどう切り抜けようか、レヴィアタンの威嚇を弱めにして全員黙らせるか。
周りをぐるっと見回す。
広場に集まってきている野次馬はざっと数えて千人くらいだ。
それなりに多い数だが、やれなくはない。
よし、ならば――と思っていると。
「どけどけ、道を開けろ!」
「開けないと逮捕するぞ!」
群衆の中から、野太い声が聞こえてきた。
その群衆を割って現われたのは、正規の服装をまとった警吏の一団だ。
その一団はまっすぐとこっちに向かってきて、次々と台に上った。
更に起きた変化、正規の警吏が何をどうするのか? と、
群衆は期待が怒りをやや上回り、様子見モードに入った。
そんな中、警吏の中から一人の男が現われた。
警吏を率いてやってきたその男は――ドンだった。
今や俺の腹心と言っても差し支えない、ドン・オーツ。
彼は俺の前に立つやいなや。
「護衛が遅れて申し訳ありません、十三親王殿下」
高らかに言うと、片膝をついて頭を下げた。
そのほぼ同時に、連れてきた警吏らも全員頭を下げた。
ドンはかなりわざとらしく「十三親王殿下」とわかりやすく言った。
周りに聞こえるように――聞かせるように。
静寂が、水を打ったように広まっていく。
約十秒後、誰かが思い出したかのように跪くと、広場の周りに集まっていた千人近い野次馬が次々と跪いた。
人が波のように次々とひざまづいていく中、立っているのは俺と、もう一人。
「凄い……」
冤罪を着せられそうになった女だけだった。
その女もやがて「おばちゃん」に裾を引っ張られて、慌てて同じように跪いた。
千人近くが跪いている中たった一人立っている俺は、改めて、って感じでドンに命じた。
「クレイグ・ホールを即座に逮捕。家族は監視の下におけ。身替わりを立てられるなら、ある程度の資産は持ってる家ってことだろうな。刑が確定したら改めて財産没収だ」
頭の中で帝国法を思い出しつつ、適法の中でもっとも重い裁きを下す。
静寂の中、俺の声はよく通った。
裁きの意味が浸透するまで十数秒かかった――直後。
どっと沸いた。
歓声が広場を包んだ。
一方で、命令を受け取るだけのドンは動かなかった。
俺の前で跪いたまま動かない。
「どうした」
「恐れながら申し上げます。先々代ホールは引退こそしておりますが、かつては宰相まで登りつめたかた。クレイグ・ホールはその一人孫でして」
ドンはそんな事を言った。
が、至近距離で俺を見上げる顔は、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。
止めろと言ってる顔でも口調でもない。
むしろ、俺へのアシストだ。
賢しいな、と思いつつ。
「だからなんだ」
俺は声を押し殺して、わざとらしくドンを睨んだ。
「引退したならただの庶民だ。行け」
「御意」
ドンはもう一度頭を下げて、連れてきた警吏に命令した。
一部はそのまま呆然としている代官を拘束して、一部はそのまま来た道を引き返して、真犯人クレイグ・ホールを捕まえに走った。
「「「おおおおお!!」」」
この日一番の歓声が沸き上がった。
「名裁きだな」
「元宰相に対してそこまで言えるのは中々居ねえ」
「十三親王殿下って俺らの領主さまだよな」
「アッピア水道を特等に引き上げてくれたし、裁きも俺らに寄り添ってるし」
「凄い方だぜ」
俺を称える声がする中。
偶然遭遇した死刑囚身替わり事件は一段落した。