187.親王昇格
帝都、第四親王邸。
ヘンリーが自分の書斎で帝国全域の地図を広げて、それとにらめっこしていると、家人が恭しく入ってきた。
「ヘンリー様、第八殿下がお見えです」
「オスカーが? 応接間に通せ」
「はっ」
家人は命令を受け取って、また恭しく頭を下げたまま、後ろ向きのまま書斎から出て行った。
突然のオスカーの訪問、ヘンリーは不思議がりつつ、身だしなみを整えつつ書斎を出て応接間に向かった。
途中で別の家人、20代半ばのメイドが命令を受け取る為に廊下で待ち構えていた。
「酒はいい、茶をだせ。オスカーは最近はまってるらしいから地下に貯蔵してる冷泉水でいれてやる」
「かしこまりました」
ヘンリーは足を止めないまま、すれ違いざまに命令を残して、そのままスタスタと応接間に向かう。
応接間にやってきて、そのまま部屋の中に入る。
中にはオスカーが既に通されていて、彼は応接間に飾られている絵画を眺めていた。
「相変わらずだな、それが気になるか?」
「ええ、兄上の屋敷で飾られているものにしては艶っぽいタッチだなと思いまして。趣味が変わったのですか?」
「もらい物だ、ほしかったらそのままもって帰っていいぞ」
「むしろ私の方が好みが変わりまして。最近はもっぱら勇ましい構図が好みなのですよ」
「ころころ変わるな。昔からか。今でもコバルト通りに通っているのか?」
「大地震の直後ですから、おおっぴらにとは」
「妙な所で気が小さいな。その辺りダスティンでも見習ったらどうだ? 一昨日会ったとき、エンリルのほうに奴隷の手付金を100人分払ったと言っていたぞ」
「あれをやるのなら30年前からはじめてないと意味がないですよ」
「ふっ、そうだな」
第四親王と第八親王。
今や帝国の内政と軍事のそれぞれの最高責任者となった二人は、まずは兄弟らしく世間話から入って、場の空気をととのえた。
しばらくして、ヘンリーのほうから切り出した。
「で、今日は何だ? お前が俺の屋敷に来るなんて年に一度あるかないかだぞ。何かあったのか?」
「陛下からの密書が届きました――早馬で」
「早馬だと?」
ヘンリーは眉をひそめた。
ノアがフンババの糸を用いて有線逓信の技術を確立した。その伝達速度の速さは早馬などでは及びもつかないほどの超越したものだった。
まだコストがかかるから市井一般に開放してはいないが、皇帝ノアが使おうと思えば最優先で使えて、そのためノアの連絡に早馬を使う意味がなくなった。
速さを求めるのなら有線逓信一択だし、速さを求めないのならのんびり輸送すればい。
なのに早馬、ということにヘンリーは眉間がくっつくくらいに眉をひそめた。
「これです」
オスカーは封を切ったノアからの親書を差し出し、ヘンリーはそれをうけとって、中の紙をとりだして目を通した。
最初は訝しげに眉をひそめていたのが、次第に驚き――さらには驚愕の表情に変わっていく。
最後まで読んだ後、ヘンリーはまるで幽霊を見たかのような表情で顔をあげ、オスカーを見つめた。
「総督に降格……だと」
「そう書いていますね」
「偽物じゃないのか?」
「いいえ、間違いなく陛下ですね。これを受け取った後帝国法を隅から隅まで確認させたのですが、皇帝の降格を禁ずる条文はどこにもなかったのですよ」
「……法」
ヘンリーははっとして、一言そうとだけつぶやいた。
「ええ、陛下らしいやり方です。法に厳格な一方で『間違ってはいない』解釈をしてくるという」
「だとしても皇帝からの降格なんてあり得んだろ」
「それがそうでもないのですよ」
オスカーはフッと笑い、肩をすくめた。
「どういうことだ?」
「皇帝の譲位。皇帝と上皇では上皇のほうが格が下です――『法的』にはね」
オスカーの言葉にヘンリーはますますはっとした。
「もちろん上皇が皇帝より下だなんて誰もおもってはいない、ですが法的には実際格がさがるので、譲位して上皇になるのも降格といえなくもない」
「なるほどな」
「とはいえ皇帝から州の総督となれば話はまったく別。陛下の発想に驚かされましたよ」
「ああ、やはりすごいな陛下は」
ヘンリーがそう言い、オスカーは頷いた。
「先帝陛下でさえもできなかったことです」
「それを我々が妙に納得しているのも中々のことだな」
「ええ、陛下が法に対するスタンスをご本人も我々も知悉しているからこそですね。自分とまわりの評価が完全に一致するなど普通はあり得ないこと。すごいですよ」
ノアのいないところで、ヘンリーとオスカー――実兄にして臣下である二人がそのノアを褒めちぎった。
「陛下が総督になるということは大なたを振るうという事だ。金がいるぞ?」
「なんとかしますよ、もとより復興のためには国庫から金を出さなければならない事態。むしろ今回は陛下が目を光らせてくれる分いつもより中抜きが少なくすむはずですからここぞとばかりに行きますよ」
「そうか」
微笑みながら話すオスカーと、頷くヘンリー。
皇族に生まれ、若い頃から帝国の中枢にいた二人は中抜きや汚職の根絶などというお花畑な発想はもたない。
長年の経験と培った知識でそうだと分かっている。
「まあ、陛下の事ですから、国庫とは違うどこかからお金を引っ張ってきそうではありますがね」
「ありうる」
「陛下ですからね」
「そうなると……問題は」
「ええ」
兄弟二人が見つめ合って、頷き合った。
「総督として帝都を離れるのであれば政務もそうだが、周辺の国がどう動くのか気がかりだ」
「皇帝不在――ここぞとばかりにはしゃぐ連中がでそうですね」
「これを聞いたら『羅刹』のこそ泥どもが前祝いを始めそうだな」
「それを兄上が抑えればいいのでしょう」
「そうだが、今は形式上は平時。俺の持つ権限じゃやれる事に限りがある。陛下に――」
コンコン、とドアがノックされた。
言葉を途中で遮られた形になったヘンリーは眉をひそめつつも、苛立ちを抑えた声で応じる。
「入れ」
一人の若い男が入ってきた。
二十代の前半で、まだまだ稚気の名残が顔から完全に消えていない若者だ。
若者は二つに折った紙を持っている。
「失礼します。ヘンリー様。陛下から有線逓信です」
「陛下から?」
予想外の驚きだったのだろう。
ヘンリーはもとより、オスカーまでもが立ち上がった。
「よこせ」
ヘンリーは手を差し出したが、若い家人は持っている紙を渡さなかった。
「何をしてる、よこせ――」
「じょ、上意」
「「――っ!!」」
ヘンリーとオスカー、二人はまたしても驚いた。
声が震えていて、明らかにその言葉を発し慣れていない若者に向かって、二人は驚きつつも流れるような動きで片膝をついた。
上意――つまり皇帝が正式な命令を発してきたということ。
この瞬間に限って言えば家人の若者は皇帝の名代であり、命令を伝え終えるまで形式的に二人の親王よりも位が高くなる。
だからヘンリーもオスカーも膝をついた。
「第四親王ヘンリーの長年の功績を称え、年間5000リィーンの加増とともに『勇』の一字を与える」
「「ーーっ!!」」
「命令の伝達をもって勇親王に北方方面軍の全権を委任するものとする――以上」
「有難き幸せ」
ヘンリーが膝をついたまま、深々と頭を下げた。
そして立ち上がって、若い家人から勅書を受け取った。
入れ替わりに家人の男が両膝をつき頭をさげた。
「おめでとうございますヘンリー様。勇親王様」
「家人それぞれに肉一キロ、鮮魚一尾。希望者は酒を二リットルまで。祝いは今夜中にやっておけ、明日から忙しくなる」
「は、はい! ありがとうございます!」
若い男が嬉しそうに顔をあげ、最後にもう一度感謝に頭を下げてから応接間を出ていった。
「……」
ヘンリーはしばしの間勅書を見つめる。
オスカーはにこりと微笑んだまま座り直した。
「おめでとう。『勇』親王とはまたわかりやすい」
「……だからこそだろうな。その称号も羅刹連中を抑える為に使えって意味だろう」
「そういう意味だろうね。やはり陛下はすごい」
「お前がもらえないのは――」
「セム殿下の邪魔になってはいけない」
「――そういうことだろうな。なら」
「なら?」
「そのうちもらえる。必要なタイミングで」
「はは、そうですね」
兄弟は最後にもう一度笑い合い、ノアを褒め称えてから、内政に軍事、それぞれ任されたことのために動きだした。