186.皇帝降格
夜、宿屋の中。
部屋の中で考えごとをしていたら、シンディーが水がめを持って部屋に入ってきた。
「お待たせ致しましたご主人様、今すぐに飲み物を用意致します」
部屋に入ってきたシンディーは俺の事を「ご主人様」と呼んだ。
俺が正体を隠す状態での二人旅は初めてで、それで俺にどう接した方がいいのかずっと迷っていた感のあるシンディー。
どうやら「ご主人様」という違和感やボロを出しにくい所に落ち着いたようだ。
「それは?」
「はい、飲用に適した水です。宿屋の主人に用意させました」
「それでいくらだ?」
「えっ?」
シンディーはビクッとして、視線が泳ぎだした。
よほど言いにくいのだろうか。
「安心しろ、咎めるつもりは毛頭ない。このような街だ、当然金持ちに売りつける水があるし、お前ならそれを用意してくるのは当然だ」
「は、はい。もうしわけ――」
「とがめるつもりはないといった。正体を隠してまで来たのだ、実態が知りたい」
「――! す、すみません! 見当違いの忖度をしておりました」
シンディーは水がめを近くのテーブルに置き、慌てて頭を下げた。
「いい。それで?」
「はい! これで2リィーンです!」
「ふむ」
俺は小さく頷いた。
子供の頃、帝都では大人の一ヶ月の稼ぎが10リィーン前後だった。
その後父上の治世が長く続き、より豊かになっていった結果20リィーンに届こうかという所まで来ている。
その中での2リィーンだ。
庶民の一ヶ月の稼ぎの、大体10分の1って所か。
水道がいかれてる状態で、かつ金持ち相手の商売だとすれば妥当な所だ。
「あの……」
「なんだ?」
「ご主人様は悩んでいるとお見受けしますが」
「ああ」
「なぜ、悩んでいるのですか? 不正は事実、いえ、水道のあの状態だけでも帝国法を厳密に適用すれば土地の代官を死罪にする事も可能ではありませんか?」
「ああ。最高で絞首刑までつけられる」
「それを……なぜ?」
「……年をとったからだ」
「え?」
「冗談だ、半分な」
俺はふっと笑い、更に続けた。
「状況証拠でしかないが、まあ、9割9分役人が私腹を肥やした結果がああだ。それはおそらく間違いない」
「はい」
「問題はそれがここではなく、このエンリル州のほとんどが同じ状況だということだ」
あの後シンディーと様々な人間に話を聞いて回った。
今日立ち寄った二つの街だけじゃなく、エンリル州のほとんどが程度の差はあれ似たような状態だと分かった。
「つまりそういう環境になっているということだ。……さて」
「は、はい」
俺に改めて見つめられ、ここからが本題だと悟ったシンディーはビクッと体を強ばらせた。
「言葉というのは長い時間をかけて上手くできているものでな。今、私服を肥やしているものがいる。それを成敗して、環境そのままの状態に空腹の新しい役人をいれたらどうなる?」
「…………っっ!!」
思案顔がふた呼吸ほど続いたあと、シンディーはまなじりが裂けそうなくらい目をカッと見開いた。
「一から――食べだす……?」
俺は頷いた。
「当然、私腹を肥やし水道をああした役人どもはいずれ法の下に伏してもらう。が、今ではない。環境を変えずに駆除しては民を更に苦しめる結果になりかねん」
「そこまで考えて……すごいです陛下!」
「呼び方が戻っているぞ?」
「あっ! す、すみません」
「ふっ、かまわん。それだけ言葉が響いた証だと受け取っておく」
俺はクスリと微笑んだ。
「環境を変える方法もある、が」
「なにか気がかりが?」
「それには信頼の置けるものが陣頭指揮を執らなくてはならない。総督クラスでな」
「総督……」
「民を二度苦しめる事は絶対に避けなければならないとする以上絶対にそうしないと確信できるものじゃないとダメだ」
「民を苦しめないと確信できるもの……有能で、ご主人様に絶対的な忠誠を誓っている方という事になりますね」
「ふっ、そうなるな。俺に忠誠を誓っている以上そんな事はすまい」
「エヴリン様……でしょうか」
「そういう人間になるな」
俺は頷いた。
シンディーの言う通り、この場合エヴリンのような人間が適役だろう。
ならばゾーイやレオンあたりはどうかと考える。
「あっ、でも……エヴリン様は第四宰相。総督だと降格になってしまいますね」
「え?」
「え? どうかしたのですかご主人様」
「今なんと言った」
「え? 今……ですか? エヴリン様、は? 第四宰相……? 総督だと降格……?」
「それだ!」
シンディーは頭のほうから、自分の言葉を句切りながらリピートしてきた。
「降格」の所で俺はビシッ! と彼女を指さした。
「え? エヴリン様を降格させて総督として派遣するのですか? ……なるほど、たしかに名目上は降格ですが、それはむしろご主人様の信頼の証! わたしなら喜んで任を引き受けます。すごいですご主人様! それを思いつくなんて」
「……」
俺は少し考えた。
頭の中で文章をまとめた。
「命令を送る、代筆しろ」
「はい!」
シンディーは大喜びでペンと紙を用意した。
それをテーブルの上に置いて、代筆の必要性に駆られて俺に一言断ってからイスに座った。
「エンリル州の水道の一件、監督が行き届かなかった責任者が責の全てを負う事が妥当だと断ずる」
「はい」
「従って皇帝より降格し、エンリル州の総督を命じる。総督として事態の収拾に努め、それを償いとせよ」
「はい――え?」
直前まで淀みなくペンを走らせていたシンディーの手が止まった。
手が完全に止まって、それが首にも伝染したかのように、ギギギ――と錆びたドアのようにぎこちなくこっちに回してきた。
「ご、ご主人様……これは一体?」
「責任者が責任を取るという話だ」
「責任者……って、陛下…………の、こと、です……か?」
「そうだ」
「えええええ!?」
悲鳴のような、というかほとんど悲鳴にしか聞こえない声を上げてしまうシンディー。
「ど、どど、どういう事ですか?」
「いいヒントをもらった。どうせ降格するのなら俺をすればいい」
「そ、そんな事は前代未聞です」
「帝国法に皇帝の降格は禁じられていない」
「ありませんよ!」
当然です! と言わんばかりの勢いで叫ぶシンディー。
まあ、当然ないだろうな。
皇帝を降格なんて普通何を訳のわからんことを、としか思えないような戯れ言だ。
だが。
「何度も使える手ではない。いや、必要なら何度でも使うがな」
「ど、どういうことですか?」
「普段から法に厳しいからこそ、『法で禁じられていない』という無茶がまかり通る」
「……すごいです。そこまで考えているなんてすごいです!」
シンディーはいよいよ目を輝かせ出した。
「続きだ」
「はい!」
「降格中は内政の権限をオスカーに、軍事の権限をヘンリーにそれぞれ譲渡する。また統括として第一親王セムを総理王大臣に命ずる」
「はい――あの、総理はヘンリー様かオスカー様じゃなくていいのですか?」
「セムでいい――オスカー対策だ」
「………………………………すごいですご主人様!」
理解するまで時間がかかったのは彼女が皇室の人間ではなく、オスカーとの一件もあとから聞いたからだ。
オスカーは皇帝の権威を重視する。
皇帝や、多くの権力は「仕組み」の上に成り立っている。
皇帝から第一皇子への権力移行は「仕組み」としては極めて正常なもので、それでオスカーに少しでも不満を感じさせない様にしたい。
「書けたか?」
「はい!」
「それを早馬でオスカーの所に送れ。その事自体がメッセージになる」
「はい!」
俺の命令を遂行するシンディーを眺めながら。
俺は自分が総督なら次はどうするかに頭を巡らせた。