182.狭い池の中
「はあ?」
「公使は住民を騒擾してはならない」
「な、何言ってるんだお前は」
男の顔色が変わった。
帝国法で指摘する俺がただ者ではないとうすうす気づいてきたんだろう。
だが――もう遅い。
「同じく365条附則、公使は身分を明かし、それをもって民を騒擾した場合死罪」
「そ、そんな条文知らん!」
「今上陛下が即位後に制定したものだ」
「なっ――」
男は言葉に詰まって、目を見開いた。
それで意気消沈していくのかと思いきや、歯を食いしばって目を剥いて、逆ギレをしてきた。
「お前! 俺を誰だと思っている」
「その言葉はそっくり返そう」
「え?」
「俺を誰だと思っている」
俺はそういい、意識に直接訴えかける名乗りをした。
顔でもない、名前でもない、何か証拠になるものがあるわけでも無い。
相手の意識に直接「余は皇帝なり」と突きつける技だ。
それを男だけに向かって突きつけた。
「あ……あぁ……」
男は震えだした。
一瞬で顔が青ざめ、がくがくと震えだした。
ベッドの上でへたり込んだかとおもえば、股間のあたりから湯気が立ち上る。
失禁するほどの恐怖に見舞われ、まともに言葉を紡げずにいた。
「さて――」
俺はシンディーの方に振り向こうとした。
宿場町ならばそれなりの警らがいるし、馬車が止まる大きめの宿場町ならそれなりの官吏もいるだろう。
シンディーにそのものを呼んできてもらおうとしたその時。
「ゆ、許して下さい!」
失禁までした男が我に返って、ベッドから飛び降りて俺に土下座をした。
振り向きかけた俺、視界に見えた何故こんな展開になるのか理解できないという感じの宿屋の親子だ。
それらをいったん後回しにして、男に振り向いた。
男は盛大に命乞いしてきた。
「魔が差したんです! まだ何もしていないんです!」
「既に『騒擾』になっている」
「そんな……はっ、お、俺! 家に年老いた両親がいるんです! おふくろは病気がちで、一人息子の俺がいなくなるとまずいんです!」
「……」
俺は冷ややかな目で男を見た。
何処から聞きつけたんだろう。
俺は家族思いの人間に温情を掛けることがよくある事をどこからかききつけたんだろう。
それは別に内緒にしていないし、むしろ有名な話だ。
皇帝ノアがそういう人間だとこの男が知っていてもおかしくはない。
だからそれを理由に命乞いしてきた。
が。
「帝国法には家族の状態いかんで減刑する条文はない。裁決を下す者に量刑の幅を与えているだけだ」
「俺は――」
「そして365条は唯一死罪、量刑の余地はない」
「――そ、そんな! た、助けてく――」
「リヴァイアサン」
これ以上は見苦しい命乞いしか出てこないだろうと、俺はリヴァイアサンに命じて、プレッシャーで気絶させることにした。
リヴァイアサンはいつものように「御意」とだけ応じると、圧倒的なプレッシャーを放った。
瞬間、男は白目を剥いて泡を吹いて気絶した。
それを一瞥だにせず、俺は振り向いた。
そこでは宿屋の親子がまだ――いや、より状況が理解できない表情になっていた。
「この宿場町の駐在を呼んでくれ」
「え? あ、はい……その……」
宿屋の親父が困惑していた。
本当に俺の言う通りにしていいのかと迷っている顔だ。
それもそのはず、俺が「正体を明かした」のはあくまで目の前で気絶している男に対してだけで、宿屋の親子からすれば俺はよく分からない、金持ちそうな客のままだ。
言う通りにしていいのかと迷うのは当然だ。
さて、ここはどうするか――と思っていると。
ドタドタと、階段を上がってくる複数の足音がした。
何事かとドアの方に視線を向ける、宿屋の親子も同じように振り向いた。
シンディーが数人の男を連れてやってきた。
先頭にいるのはそれなりの格好をしている官吏の男で、その後ろに三人ほどの武装した兵士がついている。
「遅れてすみません」
と、シンディーは俺に小さく頭をさげた。
「呼びに行ってたのか」
「はい。途中からもうすぐ必要だろうと感じましたので」
「よくやった」
シンディーを労ってから、官吏の方に視線を向ける。
さてこっちはどう説明するべきか――と思っていたが。
官吏の男が俺をみて目を見開き、驚愕していた。
そのまま跪こうとした。
俺が皇帝だと知っている人間の反応だ。
ここでそれをやられるとすこし面倒なことになる――と。
俺は官吏の男が跪く直前に、軽く睨んでそれを止めた。
「――っ!」
男はピクッと固まった。
しばらくそうしてから。
「ご無沙汰しております」
と、皇帝相手にするにしてはかなりフランクな言葉遣いで、ただ少し頭を下げただけだった。
「この方を知ってるんですかロビン様」
「あ、ああ…………。法務省のお偉いさんなんだ」
官吏の男――ロビンという名前らしい。
そのロビンの返しに俺は少し感心した。
法務省のお偉いさん、俺は法務親王大臣だったから嘘ではないし、必要以上に騒ぎにならず、この場での行いにも正当性を持たせられる言い方だ。
頭の回る賢い男だと思った。
「そうだったんですか!?」
「ああ、俺の主とも面識がある」
「親王様と!?」
ほう? と俺は思った。
俺の主が親王――つまりこの男は誰かの家から出てきた家人だということだ。
それならば話は早い。
「この男を連れて行け。帝国法365条をしっかり適用させろ」
「分かりました――おい」
ロビンはそう言い、連れてきた兵士達にあごをしゃくって合図を送った。
兵士達は部屋に入ってきて、気絶している男を運び出した。
法務親王大臣である俺の事を知っているどこかの家人なら後はもう任せても大丈夫だろう。
「あ、あの……」
宿屋の親父は不安げにロビンに声をかけた。
親父も、襲われていたその娘も、不安げに俺とロビンを交互に見ている。
俺が直接答えてやることにした。
「あの男がちょっかいを出してくることは二度とない、安心しろ」
「そのか――人の言うとおりだ」
俺が言っても宿屋の親子は半信半疑かつ不安そうだったからロビンが補足した、すると二人はホッとした。
初めて会った人間よりも普段から顔を知っている地方官の言葉の方が力があるのは当然だし、その地方官であるロビンのフォローも適切で俺は満足した。
「ありがとうございます!」
「あの……本当にありがとうございます」
☆
宿屋の親子達といったん別れて、俺とシンディーの部屋の中。
最上階のいい部屋に移動しなかったのはケチがついたのもそうだが、男がベッドの上で失禁したからすぐには使い物にならなかったと言うのもある。
それでももう少し良い部屋を――と言ってきた親父の言葉を断ってこの部屋に戻ってきた。
戻ってきたのは俺とシンディー、そしてロビンも一緒についてきた。
ロビンは部屋に入り、ドアが閉まるのを確認してから無言で俺に跪いた。
無言で正式な作法に則っての一礼だった。
「よくわきまえた、楽にしろ」
「はっ」
俺の許可を得たロビンが立ち上がった。
「お前はどこの家から出てきたのだ?」
俺はイスに座りながら聞いた。
シンディーは無言のまま部屋に備え付けの道具で俺の分のお茶を淹れて、ロビンは俺の質問に答えた。
ちなみにシンディーは俺の分しか淹れようとしていない。
皇帝かどうかは関係なく、一人分のお茶を淹れるのは双方の立場を明確にするのに良くとられる方法だ。
俺はシンディーの好きにさせてやりながらロビンと向き合った。
「はっ、ダスティン様のお屋敷でございます。ダスティン様の屋敷で生まれた誉れは預かれませんでしたが、2歳のころに両親とともに屋敷に入ったのでそれに負けない忠誠を誓っております」
「ダスティンか、あいつはいい家人をもった」
「もったいないお言葉」
ロビンは再び頭を下げた。
「ここを離れられない理由はあるか?」
「え? いえ、理由は……ございません」
「その機転は宿場町程度でくすぶっているのはもったいない、少し広い所で腕試ししてみろ」
俺がそういうと、察していたのかシンディーが横からそっと紙とペンを差し出してきた。
ロビンは目を見開くほど驚いた後、ガバッと今度は床に平伏した。
「ありがとうございます!!」