180.それぞれの代名詞
帝都の外、エンリルに向かう街道の上。
俺は馬車の中で、シンディーと二人っきりでいた。
皇帝が乗るものにしては質素すぎるが、商人のものと考えればそこそこの馬車。
乗り心地は悪くなく、不自由ない道中が過ごせそうな感じだ。
そんな馬車の事で、シンディーは俺に詫びた。
「すみません、急なことでしたので、この程度の馬車しかご用意ができずに」
「かまわん、むしろこれでいい。今回はお忍びだ、馬車で注目を浴びるような事にはなりたくない」
「は、はい。では……道中の宿なども……?」
シンディーはそこで言葉をいったん切って、俺の顔色をうかがうように聞いてくる。
「そこそこのものでいい。なんなら男の俺は大部屋の雑魚寝でもいいぞ」
わずかないたずら心をこめながら、シンディーの前で「余」ではなく「俺」を使ったのはいつくらいに遡るかな――なんて事を思っていた。
その「俺」の意味が正しく伝わったようだ。
シンディーはホッとして、胸をなで下ろした。
「わかりました。では、詳細は言えないけれどそれなりの家の方、という形にいたします」
「うむ、へりくだりも過ぎるとかえって疑念を持たれるだろうな」
「はい」
シンディーは頷き、御者席の方にいる男に向かって何か語りかけた。
おそらくは今夜の宿とか、進む速度の差配だろう。
そこは口出しせずに任せる事にした。
「へ――あの」
「ふっ、なんだ?」
陛下と呼びかけたシンディーにむかって、最初の頃のミスは気にしないと暗に伝える微笑みを浮かべながら聞き返した。
「本日はネールの宿場町で一泊致しますが、明日以降はどういたしますか?」
「そこまで急がなくてもいい」
「よろしいのですか?」
シンディーは少し驚いた表情をした。
「ああ、今頃は救助の最初の段階だろうから、早く着きすぎても邪魔になるだけだ」
「なるほど」
「それに今回は水道がどうなっているかの視察だ。セオリーなら今頃建物や死傷者の数字を『丸めて』いる所だろうから、そこの隠蔽に手が伸びるのは相当先の話だ。だから急ぐ必要はない」
「丸める?」
「軍報と同じだ、悪い知らせは小さく、いい知らせは大きく数字が整うようになっている。商売でもそういう傾向はないか?」
「……ございます」
シンディーはハッとして、驚きから困った表情に切り替わった。
「このあたりはどこもおなじなんだろうな。俺はフワワの箱で密告制度を作ったから大分ましになったが、それでも根絶など不可能だと思い知ったよ」
「それだけでもすごいです。その傾向がマシになるだけでも、本当にすごいです……」
シンディーは困った表情のまま、感情をたっぷり込めてつぶやいた。
彼女もそれなりに苦労しているんだろうな、とそのつぶやきだけで何となく察する事ができた。
「そういえば」
「はい?」
「父親とは最近どうなのだ?」
「あっ……」
きくと、シンディーはますます困った表情になった。
彼女は元々、バイロン・アランという商人に拾われて、養女にしてもらった女だ。
バイロンはシンディーの才気を見抜いて、シンディーを拾って教育を施した。
そしてシンディーはその期待に応えて有能な商人に育った。
だが、シンディーが大人になり、バイロンも中年を過ぎた頃にありきたりなお家騒動の種が生まれた。
それまで息子のいなかったバイロンに初めての男の子が、実子が生まれたのだ。
年をとってからの子は可愛いものだし、ましてや成功した商人で「継ぐ家」がある者ならば当然の如く自分の全てをその子に継がせたがるというもの。
そうなるとシンディーが目の上のたんこぶになる――というような話を歴史で山ほど見てきた俺は、シンディーに新たな家名を与えてやった。
商人の家よりも「格式」が遙かに高い家名。
普通に考えればバイロンの家の跡継ぎを争う必要が無いほどの家名をシンディに与えて、ありきたりなお家騒動から助けだしてやった。
その顛末を今、シンディーから聞こうとしている。
「おそらくは……大丈夫です」
「そうなのか?」
「はい。頂い――新しい名前を常に使う事で争うつもりはないってアピールしたのが効いているのかもしれません」
「ならいい。お前ほどの女を失うのはもったいない。危機と感じたらいつでも言え」
「ありがとうございます……」
「どうした、浮かない顔をして」
シンディーが浮かない顔になった事に気づいて、不思議がった。
今のは俺が命を保証する、という話だ。
義父との関係が小康状態で、その上皇帝たる俺が命の保証はするという話をしている。
そこで浮かない表情に変わってしまう理由はなんだ? と純粋に不思議に思った。
「あ、いえ。その……」
シンディも俺の疑問を正しく理解したのか、慌てて手を振って、いかにも「違いますよ!?」といわんばかりの表情になった。
「その、責任重大だな、と思ったのです」
「責任重大?」
「エヴリン様、です」
「エヴリン?」
なんでここでエヴリンが出てくるんだ? と俺はますます不思議に思った。
「エヴリン様は今や第四宰相。今上陛下の家人にして、一番の出世頭というのは誰もが認める所です」
「ああ」
俺は頷いた。
父上が身罷って、帝国の「全て」が俺に移ってからしばらくして、俺はエヴリンを第四宰相に抜擢した。
それまでの代官や総督もそれなりの抜擢だが、第四宰相はそれらとは比べものにならないくらいの大抜擢だ。
帝国の権力に序列をつけるのなら、今のエヴリンは間違いなくトップ10には入る位の地位にいる。
かつてはただのパーラーメイドだった事を考えればとんでもない大出世だ。
「庶民の間では、エヴリン様の名前が『立身出世』の代名詞にもなっている事をご存じですか?」
「ああ、知っている。良いことだ」
「エヴリン様の才覚を見抜いて、性別関係なく抜擢した今上陛下は本当にすごいお方です。一方で……」
シンディーは苦笑いを、話がこれ以上深刻にならないようにあえて苦笑いしながら続けた。
「そのエヴリン様のこともあり、ここまでお目に掛けてもらえると――それ相応の責任感が両肩にのしかかって来ましたので……」
そこで言葉を切って、気持ち顔を伏せながらも上目遣いで俺を見た。
なるほどなと思った。
「出来る事をやればいい」
「できること」
「俺は武器屋に酒を注文しない。できると思った人間にしか言わない」
「……」
「やれる事をやっていればいい。やれること、できている事が俺が望んだ通りのことだと思っていれば良い」
「はい……でも」
「でも?」
俺は首をかしげ、聞き返した。
気を楽にさせるために掛けてやった言葉は効果が出ているようで、シンディーの表情は少し明るくなったが、まるで入れ替わるように何故か赤面し、恨めしそうな表情に変わった。
「そう言われてしまいますと、もっともっと高いところで期待に応えてしまいたくなります」
「無理はするな、とだけ言っておく」
「はい」
「『エヴリン』は立身出世の代名詞になった。『シンディー』も一攫千金かそれに類する言葉の代名詞になれると俺は見ている」
「私……が?」
「そうだ、だから無理はしなくていい。出来る事をやっていけばそれでいい」
「……はい、そうします!」
発破のかけ方が良かったのか、シンディーは落ち込んだり照れたり恨めしそうだったのが一変、前向きな表情になった。
こうなればもう大丈夫だろう、と俺はおもったのだった。