177.環境が人を作る
「ルーク」
俺は部屋の外に向かって呼びかけた。
常に執務室の入り口に立ち、あらゆる取り次ぎをやっているルークが慌てて走ってきた。
「お呼びですか、陛下」
「報告がまとまるまでどれくらいかかる」
「えっと……次は一時間後です」
「ならその間に腹ごしらえをしておこう。オスカー付き合え」
「はっ、ご一緒いたします」
「二人分用意させろ」
「御意」
かつては色々とたどたどしかったルークも、こうした日常的な命令をそつなくこなせるようになった。
ルークは応じるとすぐに執務室の外に飛び出していき、ほとんど間を空かずに下級宦官達が数人はいってきて、執務室の片隅にテーブルと椅子を並べて、その上に食器類も並べだした。
「ここで召し上がるのですか?」
オスカーは少し驚いたような表情になった。
「少し前からそうしている」
俺は立ち上がって、執務机から設置されたばかりのテーブル――食卓に向かってそこに座った。
視線で促すと、オスカーは一礼をしてから俺の側面に座った。
長方形の、縦に長いテーブルだ。
その長い面にオスカーは座った。
執務室――つまりは宮殿の中。
宮殿の中という準公式の場ということもあって、オスカーは「皇帝の正面」を避けて側面に座った。
ちゃんとした食卓ならともかく、執務室に作った臨時のテーブルでもそうした事にちょっとおかしくなった。
「余は帝都を開けることが多く、執務にさく時間が少ない。いちいち報告に余を探させたり余自身移動したりするのが面倒だ。だから執務中はここで食べる事にしている」
「そうでしたか。しかし陛下はやはりすごいですな」
「脈絡もなくどうした」
俺はすこし面食らった。
オスカーがおべっかを使ってくるのは珍しいなと思った。
そのオスカーは入り口の方を見て、さらにいった。
「あの宦官の事ですよ」
「ルークか?」
「ええ。ただの子供だったのが見違えるほど有能になった。陛下の慧眼にはいつもながら敬服させられます」
「ああ」
その事か、と、俺も入り口の方を見た。
ルークがそこで、部下につけた下級宦官達にテキパキ指示を出している姿が見える。
オスカーの言う通り、初めてルークを見たときはあどけなさが残る、世間をまったく知らないような子供だった。
宦官になったのも妹の薬代目当てという、事情は理解はできるがそれで去勢という取り返しのつかない手段はどうなのかと思うところがないでもない。
そんなルークが、今やすっかり見違えるほど有能になった。
「人間は環境でいかようにも変わる。余はそれを身をもって知っているだけだ」
「身をもって?」
「例えば、余が農村に生まれ育ったとしたら、妻と子と畑を守る事に汲々とした人生に終始していただろう」
俺はふっと笑いながら言った。
いただろう、という言葉を使ってはいるが、俺の中ではそれは確定した事実、いやただの過去だ。
ノアに生まれる前がそういう人生で、それで終わるだけの人生だ。
それがノアに生まれて人生が一変した。
ノア・アララート。
皇帝の第十三子で十三親王という最高の環境で学んできたからこそ今の俺がある。
貴族の教育で学べるものが100だとしたら、庶民――特に農民のそれは1にも満たない。
それほど環境の違いは大きい。
両方を知っているからこそ俺はそれを強く実感しているが。
「ご冗談を。陛下であれば例え寒村に生まれていても、騎士選抜などですぐに頭角を現わしたでしょう」
オスカーはそうだとは思っていないようだ。
実体験していないことを解れというのも無茶な話だから、俺はそれ以上突っ込まなかった。
そうこうしているうちに、ルークが下級宦官を引き連れて食事を運んできた。
二人分の食事をそれぞれ俺とオスカーの前に並べる。
一通り並べた所で、ルークがすっとまた部下を引き連れて執務室から出て行った。
「これは……」
オスカーが食事の内容を見て、まるでキツネに摘ままれたような不思議そうな顔をした。
「どうした」
「いえ、このお食事は……」
「あまりに貧相か?」
俺はふっと笑った。オスカーは少し慌てた。
「いえ、そういうことではありませんが」
「オスカーにも覚えがあるだろ? 数十年も親王をやっていれば贅沢なんて味わい尽くした、と」
「それは……まあ」
曖昧に頷くオスカー。
俺は目の前に出された食事に手をつける。
飯が一つ、肉の主菜が一つ、野菜の副菜が一つ。
それだけの食事だ。
オスカーに言われるまでもなく、一般的な皇帝の食事のイメージからかけ離れているものだと俺も理解している。
「肉が一つで野菜が一つ、余はあっちこっち飛び回るから塩気は濃いめに。その程度で充分だ」
「しかし……」
「それにこの方が小人物への対処もしやすい」
「それはどういうことでしょうか?」
オスカーの表情が一変、難色を示していたのが不思議そうに思っている顔に変わった。
「俗事の好みが多ければ多いほど、余に取り入ろうとする者たちの手法も多様化する。食も女も興味がなければそれで取り入ろうとする者もいなくなり、余計な事に身構えている必要もなくなる」
「なるほど! それは……さすがです陛下」
そう話すオスカーは、感心しつつも苦笑いしている表情だ。
「私もかねてより、自分に取り入ろうとする者達が手を替え品を変えやって来るのが悩みの種でございました」
「そうだろうな。事実上余に次ぐ権力を持っていればそうもなる」
「ええ。それが私本人に来るのなら防ぎようもあるのですが、妻や側室達から来るともうお手上げです。ああ、私は陛下とはちがって色を断つことはとてもできないので、その時可愛がっている側室に枕元で囁かれれば弱り切ってしまいます」
「それはいい、存分に弱っておけ。お前が『弱り切っている』間は信頼が置ける」
「……そうおっしゃって下さる陛下はすごいです」
期せずしてほめあう形になった俺とオスカー。
枕元で囁かれる――つまり側室に色仕掛けのあとのおねだりをされるということ。
それをされると弱り切ってしまうとオスカーは言った。
理解しているなら歯止めもきくし、制御できない状況を引き起こすこともまずない。
それが出来ている内なら、オスカーの能力を考えれば多少女に甘い位は必要悪として見逃せる。
そんな風に、オスカーと飯を食べながら、とりとめのない話を続けた。
しばらくして、ルークが資料を持って入ってきた。
「お食事中すみません、陛下」
ルークが俺に言った。
オスカーは軽くルークを睨み、非難する表情をした。
皇帝が食事をしている時に邪魔をするのは、皇帝によってはそれだけで不快に思いその場で処分する事もあるほどの事だ――が。
「よい、政務の事は遠慮無く割り込んでこいと命じてある――なんだ」
「はい。被災のまとめが上がってきました」
「早いな。無理をしたのか?」
「えっと、聞いた話ですと、無理しているわけではなく、逓信の速さにまだ慣れていなくて、それで見積もりを誤った、ということらしいです」
「ああ」
俺は頷き、フッと笑った。
「新しい手法が相手だとそうもなろう」
俺はそう言いながら、食卓のテーブルに着いたまま、ルークからもらった書類に目を通した。
ルークの報告通り、それは被災の状況をさらに詳しくまとめて来たものだ。
それに目を通して行った――が。
「……む」
「どうかしましたか、陛下」
「これをみろ」
俺はそういい、書類で気になったその一枚を抜き取って、ルーク伝いにオスカーに渡す。
オスカーはそれをうけとって視線を落とす――と。
「これは……火災が通常より多い?」
「やはりそう見えるか」
「ええ」
オスカーははっきりと頷いた。
大地震が来ればどうしても火災も多く発生する。
それはどうしようもない事なのだが。
「この数……かなり延焼しなければこうはならないはずです」
「余もそう思う――ジジ」
少し考えた後、側近の名前を呼んだ。