166.中枢へ
朝。俺は朝日の中で目覚めた。
薄手のカーテン越しの朝日、丁度いい案配に日差しを通し最適な光量で目覚めを促してくれるように職人が丹精を込めて作った逸品。
これを感じるという事は――と、俺はまどろみの中ゆっくりとまぶたをあけた。
やはり、そうだった。
見知った天井、皇后オードリーの寝室の天井。
皇帝のみを迎え入れるために存在する、皇后の寝室。
カーテンを始め最高級の調度品で設えている部屋だ。
自分がどこにいるのかを認識した後、俺は「すぅ……」と微かに開けた口から息をはきだした。
「おはようございます、陛下」
すると少し離れた所から、オードリーのしっとりとした、柔らかな声が聞こえてきた。
そのまま体を起こすと、オードリーが数人のメイドを従えて俺の方を向いていた。
オードリーだけでなく、全員が一斉にこっちを向いていた。
直前まで用意をしていたのだろう、メイド達の手元には準備の途中の、身支度の道具類が揃えられている。
「おはよう、相変わらず早いな」
「女は身支度に時間がかかるものですわ」
オードリーはおどけたように言った。
俺は野暮なことは言わなかった。
女の身支度の上に、俺の身支度の準備もさせてるから――という、野暮すぎることは言わなかった。
ゆっくりと身を起こすと、オードリーはメイドの一人から手ぬぐいを受け取った。
濡らした手ぬぐいをオードリーが手ずから絞って、それをもったまま俺のそばにやってきた。
「どうぞ」
「ああ」
頷き、オードリーが差しだした手ぬぐいを受け取る。
それで顔を拭くと、丁度いい搾り具合だった。
温度も濡れ具合も最適で、その上気付けのための微かな香りも心地よかった。
これらオードリーの気配りに比べたら、最高級の絹である肌触りなど大したものではなかった。
「ありがとう。相変わらず気が利くな」
「陛下のおかげでございます」
「余の?」
俺は小首を傾げた。
オードリーのこの気配りの中に俺が立ち入る余地なんてあったか? と首をかしげた。
考えてみた結果やはり「ない」と思ったが、かといってオードリーの顔はただのお世辞を言っているのとも違うと感じた。
「どういうことだ?」
「陛下がいつも、そうやって褒めて下さるおかげですわ。陛下のご反応で、好みを少しずつ変えることが出来ますのよ」
「……」
俺はなるほどと思った。
俺の微かな反応の違いから好みの違いを読み取り続けてきたのか。
それはやっぱり――。
「本当に気が利くな」
と、本気で思った。
「ありがとうございます」
「ところで。その者達は大丈夫か? お前の事だからさほど心配もしていないが」
俺はオードリーの背後にいるメイド達に視線を一度やって、聞いた。
俺は今、公式には親征の真っ最中だ。
つまりここにいることは極秘中の極秘、機密と言っていい。
それをこのメイド達に知られていいのか? という質問だ。
「陛下の模倣をさせて頂きました」
「余の?」
「はい。ここにいる子達には全て恩を売ってあります。比喩ではなく、全員の『命の恩人』でございます」
「ふむ」
「ですので、ご安心下さい」
オードリーがそう言っている間も、メイド達は反応せず、黙々と身支度の前段階の準備をしていた。
オードリーの言葉に肯定どころか反応さえも見せない。
恩を売っただけでなく、よほどの教育もしているのだろうなと想像に難くない。
「さすがだな。なら、一つ補足だけしてやる」
「なんでしょう」
「そこまでやるのなら家族にも恩を売っておけ。自分の命を救ったことよりも、最愛の家族を救ってくれたことの方が恩に感じる者も少なくない」
「すごいですわ陛下。これからはそうしますわ」
「ああ」
俺は頷き、伸びをした。
朝の身支度をオードリーにしてもらった。
その間、俺もオードリーも、当然メイド達も無言だった。
静謐な皇后の寝室の中で、粛々と皇帝の身支度が整えられていく。
身支度が九割方終わったところで、再び口をひらいた。
「そうだ、一つ言っておかなければならない事があった」
「なんでしょう」
「ジジは知っているな?」
「ええ、陛下が伏しておられた時代からのメイドですわね?」
オードリーが使った古めかしい表現にクスッとしつつ、頷いて応えた。
「そうだ。そのジジをもらっていく」
「元々――はい、わかりましたわ」
オードリーは「元々陛下のもの」と言いかけたのを飲み込んで、真顔で頷いた。
後宮は皇后のもの、後宮にいるメイドも同じく皇后のもの。
無論皇帝は更にその上にいて、メイドの一人くらい何も言わずに連れて行ってもだれも文句は言えない、言おうとする者もおそらくは現われない。
それでも俺はオードリーを立てた。
後宮の主、常日頃言っているその概念に則ってオードリーを立てた。
オードリーはすぐに理解して、形式上ジジを俺に「譲渡」した。
「でも本当に、わざわざ言わなくてもよろしかったのに」
「皇后の権限は内法によって定められている。正式な法律とは言いがたいから守る者も少ないがな」
「それでもお守りになる。やはり陛下はすごいですわ」
俺はフッと、笑った。
昔からのクセだ、とは。これまた無粋だから言わない事にした。
☆
身支度が終わった後、俺はジジを書庫に呼びだした。
いくつか読みかけの本を手に取ってパラパラめくっていると、書庫の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
慌ただしい足音の直後にドアがこれまた慌ただしく開かれ、息の上がったジジが姿を見せた。
「お、お待たせしまし――わっ!」
慌てて書庫に飛び込んできたジジは自分のスカートを踏んで、盛大にすっころんだ。
「大丈夫か?」
「いたた……だ、大丈夫です!」
ジジはまた慌てて立ち上がった。
宮廷のメイドに支給されるメイド服はこの程度のずっこけで破れるほどヤワではないが、盛大に突っ込んだジジは明らかにどこか打ったのか、立ち姿が痛む箇所をかばっているような立ち方になった。
「後でポーションを使って治しておけ」
「ええっ!? そ、そんな、そんな高価なものを――」
「これからは体調は万全にしておけ、常にだ」
「え? は、はい……えっと……」
なんで? という表情をするジジ。
「昨夜、余が読んだ本はどこにあるのか全部覚えているといったな」
「は、はい! えっと、いつ読んだのかが分かれば」
「オードリーの誕生日に読んだのは?」
「お待ちください!」
ジジはバタバタと、俺の横をすり抜けて書庫の奥に走って行った。
本来なら皇帝の前を横切るのも失礼に値するし気性の荒い皇帝ならそれだけで死刑を申しつけるほどのことだ。
当然、それはスルーした。
ジジは書庫の奥から三冊の本を持って、戻ってきた。
「こちらです」
「ふむ……ああ確かに、これは間違いなく読んだな」
三冊のうちの一冊は、皇族の女が結婚した後の「除名の儀」についての歴史を記したものだ。
オードリーの誕生日で不意にその事が気になって読んだ記憶がある。
「ジェシカが来た日と、一番最近のアルメリアから戻って来た日は?」
「わかりました!」
ジジはそう言ってまたすっ飛んでいった、すぐにまた本を持って戻ってきた。
俺はそれらの本に目をとおした。
急ぎだったから、俺自身記憶に関連付けされている日のことを言って、それで本を引っ張り出してもらった。
今の所全部合っている。
俺が読んだ本を全部覚えてるのは嘘でも誇張でもないようだ。
「次はなんですか? ごしゅ――陛下」
「もういい、テストは終わりだ」
「はあ……」
「お前の俸給はどれくらいだ? 年間でだ」
「え? はい……その、50リィーン、頂いてますが」
「ふむ」
50か、と小さく頷いた。
俺が生まれた頃は大人の男が年間稼げる額は10リィーンと言われていたが、数十年経った今は20程度まで上がってきている。
その中でジジは50だった。
その辺の男よりも遙かにもらっているが、皇帝の身辺に仕える古株のメイドと考えれば妥当な額だ。
「明日から年間500をやる」
「…………え?」
ジジはぽかーんとなった。
そして一拍遅れて、盛大に慌てだした。
「どど、どういうことですか? ご、ごごご500って」
「第一宰相のドンが1000程度だから、その半分ってところだな」
「せっかくだ。実家に兄弟はいるか? だれか一人あげろ、その者にも500やる」
「実家まで!? そ、そんなに頂けません!」
「もらっておけ、そのかわり、今後は余が署名し、宮内に収蔵する文書の管理をしてもらう。いつでも出せるようにしてもらう、いいな」
「わ、わかりました。でもそれでもそんなに――」
「機密中の機密だ、これに関わるために、悪いがエヴリンやゾーイのように外にはだせん。色々と諦めてもらう」
「あっ……」
「悪いが、お前の人生をもらう。余のためにそれを使ってくれ」
「……分かりました。陛下のためなら」
ジジはそう言い、意を決した顔で俺を見つめたのだった。