162.100点
気配そらしの技を使って、入り口の番兵の意識を逸らして、難なく宮殿の中に侵入する事ができた。
夜間の宮殿は人の気配がなく、静まりかえっている。
入った直後のロビー近辺は石造りの廊下であり、一歩目を踏み出したときに予想以上に足音が響いたことから、俺はより忍び足になるのを強く意識して、先を進んだ。
数十年間、ノアに転生してから通い続けてきた宮殿。
父上が皇帝だったときはもちろん、譲位して上皇となったあとも、俺は帝都にいる時は日参している。
目をつぶってても道が分かる位慣れ親しんだ宮殿の中を進む。
まずは一直線に、父上の寝所に向かう。
病気だからそこにいないかもしれないが、まずはそこに向かった。
結果からいえば、それは無用な心配だった。
寝所の前にやってきた、そこに門番はいなかった。
しかし扉に耳を当てると、中から会話する声が聞こえてきた。
会話は二人、どちらも年老いた男の声。
片方は聞き間違えようのない父上の声だ。
『つづきまして、陛下のお言葉をまとめました、語録集となります』
『余の言葉か、それは後回しで良かろう。なしたことに比べればさほど重要でもない』
『陛下ならそうおっしゃると思っておりました。しかし、既にひな形がございますので』
父上と話している相手の声もそこそこになじみのある物だった。
それ単独だと分からなかったかも知れないが、俺は事前情報を仕入れているからすぐにピンと来た。
父上の下でもっとも長く、三十年間に渡って第一宰相を務めたノイズヒルの声だ。
他に声が聞こえない、気配も感じられない。
番兵がいないことから、父上は人払いして、腹心と内密の話をしているようだ。
『ひな形だと?』
『はい、今上陛下がまとめたものでございます』
『ノアが? ああ、そういえばそのようなものを進めていたな』
『今上陛下は陛下の事を心から尊敬しておられます。かねてより陛下の偉業をまとめさせていたようでございます』
『それをしていたことは知っていたが――見せてみろ』
部屋の中で、父上がノイズヒルから何かを受け取って、パラパラと紙をめくる音が聞こえてきた。
『……自分自身の発言など必要ないからと詳細の確認まではしていなかったが、こうも詳しく調べ上げていたのか』
『私もおどろきました』
『この「為政者は誰に対しても憎しみを持つべきではない」など、余が若い頃に何度か口にしただけの言葉だ』
『私が陛下に仕えて間もない頃でしたね。確かにおっしゃっていた記憶がございます。これをみるまですっかり忘れておりました』
『余もそうだ。すごいな、ノアは』
部屋の中では、父上とノイズヒルが俺の話をしていた。
俺は少し迷っていた。
このままここにいるべきか、立ち去るべきか。
俺の話をしている――のはこの際どうでもいい事だった。
俺が立ち去るべきか悩んでいるのは、父上がかなり元気そうに聞こえたからだ。
ドア越しでも分かる、はっきりとした口調と語気。
とても重病人のそれではない。
父上が病に伏せているではないと知れたのは大きい。
ならば長居は無用だが、その一方で父上が何を考えているのかが気になる。
引き上げるか、居残って探り続けるか。
それを悩んでいた。
『そのノアは今どうしている?』
『まだオスカー様と密談をしているようでございます』
『オスカーか……』
一瞬どきりとした。
この話になってしまったことで、今すぐに引き上げるという選択肢がなくなってしまった。
俺は息を殺して、部屋の中のやり取りに更に耳を澄ませた。
『私はもう外部の人間でございますので』
『……うむ?』
『陛下の在位中に、「あの法律」を復活させていれば、法に厳正な今上陛下の役に立ったのでは、とどうしても思ってしまいます』
『兄弟殺しのあれか』
「――っ!」
俺は息を飲んだ、どきっとした。
あの法律、とかなりぼかした表現だが、俺はすぐに何の事なのか解った。
数百年前、帝国の前の王朝にある法律があった。
皇帝が即位すると兄弟達を粛清する事ができる、それを正当化した法律があった。
帝位にまつわる兄弟間の骨肉の争いは歴史上延々と繰り返されてきた。
それを解決するためには、即位してすぐに邪魔者を一掃すればいい、という発想である。
ここ最近、歴史に興味をもち調べていくうちに目に入ってどきっとした物が、ここでまたどきっとさせられた。
もし、その法律があったら……。
俺はその時も、そして今も。
背中にいやな汗が伝っていた。
『確かに、それがあれば法を守ろうとするノアはオスカーを処分できただろう。しかし』
『しかし?』
『ノアは既に一度兄殺しをしている、やむにやまれず』
『……ええ』
『余ももうそれを見たくない、させたくないのだ』
『そうでございましたか』
「……」
父上達の話を聞いて、俺は逆に急激に落ち着いていった。
二人が話しているのはアルバートのことだろう。
かつて父上に謀反を起こそうとした第二親王アルバートを、俺が止めて、自殺という「恩情」で殺した。
その時の事を言っているのだ。
『……』
『……』
『……』
『申し訳ございません、陛下』
『……よい。少しだけ一人にしてくれ』
『はい』
ノイズヒルが応じた。
ドアに向かって足音が近付いてきた。
俺はドアからとっさに離れて、廊下の物陰に隠れた。
ノイズヒルは寝所から出てきて、そのまま立ち去った。
俺はどうするべきか、と悩んでいると。
『100』
ん?
部屋の中で父上が何かをつぶやいた。
数字の100、それが何を意味しているのか――。
「ノア、いるのなら入れ」
「――っ!」
俺は驚いた。
どこで見つかった?
まったくミスはしなかったはずなのにどこで見つかった?
そんな事を考えたが、父上がそうやって呼ぶ以上入らないわけにはいかない。
俺はノイズヒルがいったん閉めたドアを開けて、中に入った。
巨大な寝台の上に父上がいた。
背もたれに背中をもたせかけて、足にはシーツを被せている。
その格好でこっちを向いた。
「……ふむ」
「いきなりのご無礼、お許しください、父上」
「よい……すごいなノアは」
「え?」
いきなりなんだ? と俺はきょとんとなった。
この「すごいな」はどういう意味なのか、理解できずに眉をひそめてしまう。
「100点満点、余の想定の一番上にきたな」
「あっ……」
さっき父上がつぶやいた「100」はそういう意味なのかと、理解した。
しかし何をもって100点なのだろうか。
「何がどう百点なのか、と言う顔だな?」
「はい」
「お前が帰朝したことを余が掌握している――は、あえて説明するまでもないな?」
「はい」
「報告は受けた。常にお前の行動は把握していると、その詳細もつぶさに報告された。異常なし、とな。しかしだ、お前の目的を考えれば、どこかで余の容体をちゃんとした形で確認せずにはいられない。そうでなければ自ら戻ってきた意味がない」
「おっしゃる通りでございます」
「それで色々と想像してみた、その中でもっとも余を出し抜いた形がこのタイミングなのだよ」
だから百点――なるほど、と俺は頷いて、納得した。
父上のいいたいことはわかった。
父上から百点をもらえたというのは嬉しい一方で、完全に出し抜けたというわけではない、まだまだ想定内
ということにちょっと落胆した。
それを悟られぬように、話を変えた。
「父上が元気そうで安心しました」
「見た目で判断するのは早計だぞ?」
「いいえ、見た目ではございません」
「ほう? では?」
「父上が『終活』をなさっているからです」
「ふむ?」
父上は頷き、俺をまっすぐ見つめてきながら、目で「続けろ」と訴えてきた。
「父上はかねてよりこうおっしゃってきました、『名君と呼ばれたものの九割は晩節を汚している』」
「うむ」
「父上はそうならないために全精力を、全心血を注いでいると言っても過言ではありません」
「その通りで」
「自分が父上であれば、と考えたらどのタイミングで終活をするのか。それは万全なとき。もっと厳密に言えば『弱ってきたと自覚したけどまだまともな判断ができる』というタイミングでやります。まったくだめだと判断すれば逆に何もしません」
「……これも100点だ。すごいなノアは」
また父上に褒められた。
やはり健康面は「そこまで悪くない」ようだ。
それで安堵しつつ、俺は更に続けた。
「ですが、それでは一つ不思議な点が」
「余がこれを秘密にして、妃らを遠ざけて謎を演出したことだな?」
「はい」
俺は頷いた。
父上はフッと笑い、更に質問してきた。
「余の体調が謎に包まれればどうなると思う?」