160.スタートライン
『親は子を育て、子は親を越えていく。人類はそうやって少しずつ発展してきた』
かつての大兵法家であり、哲人でもあったフォント・グドンが残した言葉だ。
父上が俺に帝位を譲った時から、俺が胸に秘めつづけてきた事が一つある。
それは、父上をいつか越える事。
父上を最後まで名君とするには、自身が案じたような「晩節を汚す元名君」にしないためには、俺が父上の指名に応えなくてはならないと思った。
どの家もそうだが、初代の功績を食い潰す二代目三代目というのは珍しくないものだ。
そうならないようにしたい、生前譲位を敢行した父上の判断が正しかったものにしたい。
それには、俺が父上に勝るとも劣らないほどの名君にならねばと思ってきた。
フォント・グドンの言葉にはそれが詰まっている。
父上は名君だった。
自分の治世のみならず、その先の事まで見渡す事ができるほどの名君だった。
そのためには俺は父上を越えなければならない。
だが、今までは父上を越えられずにいた。父上の判断を汚してはいないつもりだが、越えては絶対にない。
その代表的なものが、あの父上の圧倒的な情報網だ。
あの情報網はとてつもないものだ。
俺は様々な人外の力を借りてここまでやってきたが、あの情報網だけは未だに真似るところか見当もつかない。
俺と父上の差、その最たるものだ。
それが、初めて越えられそうな。
出し抜くことが出来そうな。
そんな気配がした。
俺は立ち止まったまま少し考えた。
父上の情報網、父上側の視点にたって考えをシミュレートしてみた。
「……俺が帝都に戻ってきてることは間違いなく伝わっている」
帝都に入るまで、早馬を飛ばして都に入ってくるまでは気配そらしの技は使っていない。
父上がどんな形で俺の事を見ているのかは分からないが、父上が倒れた事を掴んで、俺がすっ飛んで戻ってきた事は間違いなく伝わっている。
今までの経験からそれは間違いない。
その後気配そらしを使って、オードリーの所にいった。
ここで一度見失っただろう――無論、この技が父上側にも通じている事が前提だが、それがだめならそもそも――の話になるから通じてる前提で考え続けた。
見失っただろうが、オードリーの動向もキャッチしているはずだから、俺がオードリーの所に姿を現わした瞬間またみつけたはずだ。
そもそも、オードリーは皇后、その一挙手一投足は実質監視されている。
皇帝に「私」はなく「公」のみがあるとよくいうが、皇后は「少しまし」なだけで、やはり「私」はほとんどない。
父上の情報網じゃなくても、時間がたてば俺が帝都に戻ってきた事は方々に伝わる。
だから、「皇帝ノアは帝都に戻ってきた」、ここまでは間違いなく父上側に伝わっている。
そして今、また見失っているはずだ。
見失っているが、帝都にはいる。
それが、父上側から見た俺の情報のはず。
ここから出し抜くにはどうすればいいのかを考えた。
「……いや」
待てよ、と俺は思った。
そもそもの前提がもうひとつあった。
「……」
俺は考えて、考えを頭の中でまとめた。
そして、まずはそれを確かめようと思った。
ドンには会わずに、引き返して屋敷を出た。
屋敷を出て、再び不夜城のごとき帝都の大通りにでた。
大通りを普通に歩いた。
「っと……気をつけろ」
「すまん」
普通に歩く様にしたことで、通行人とぶつかりそうになった。
避けることも出来たが、確実に「切ってる」の確証がほしくて、ぶつかりそうになった、つまり俺の事を認識していると言うことを確認した。
そのまま歩いて、少しずつ人気のない所に向かっていく。
人気が減っていく、徐々に減っていって、俺が確実に把握出来る程度の気配、十人程度の気配しか感じない、歓楽街の外れにやってきた。
そこで、気配そらしの技をつかった。
「ん?」
「なんだ?」
「誰かいるのか?」
まわりの人間が一斉に逸らした方向に視線を向けた。
何か気配を感じた――それで視線を向けた。
俺はそう仕向けつつ、集中力を研ぎ澄ませた。
そして探った。
――いた。
意識逸らしをしたにもかかわらず、一つだけ、俺に意識を向けたままの気配があった。それに気づいた――見つけた。
この技を編み出したとき、ヘンリーに技の弱点を話していた。
あくまで意識を逸らすだけの技だ。
だから戦場とか、集中力が高まった場所でやっても効果は薄いか、そもそも出ないものだ。
日常生活で背後からガサゴソと物音がすればまあ振り返るが、戦場とかだとそれ所じゃない、ってなるわけだ。
それと同じことだった。
父上の情報網はものすごいものだ。
それを担っている人間もたぶん凄腕揃いだ。
主君である上皇の命令で皇帝の事を見張っている。
その命令を受けた凄腕が発揮するのはどれほどの集中力だろうか。
どう低く見積もっても多少の気配逸らしにひっかかるような物じゃなくて、強くすればするほど逆に警戒してより集中して俺を監視するはず。
そう思ってやってみたら、そして「それがある」前提でやってみたら――見つけた。
俺を監視している気配を見つけた。
「……」
自分が高揚するのが分かった。
初めて、そうこの歳になって初めて。
転生して数十年。
初めて父上の情報網の、その正体の入り口に触れる事ができたのだった。
☆
「本当ですか?」
ドンの屋敷の中、その書斎。
俺はドンと向き合っていて、密談をしていた。
俺の説明を受けたドンは驚愕していた。
「うむ、おそらくだが、間違いないだろう」
「すごい……まさか上皇陛下の情報網を掴むことができるなんて……」
ドンはそういい、表情が感動から驚愕に横滑りしていった。
「お前にもとんでもないものだという認識なのだな」
「ええ、もちろんです」
ドンははっきりと頷いた。
「上皇陛下のあの情報網、何をどうしているのか今までまったく見当もつかなかったです。なのに会った人間話した言葉どころか、独り言の内容から下手したら鼻をほじった回数まで筒抜けなのです」
「よくわかるよ、余も子供の頃から何度もその場面に立ち会ってきた」
「それを……本当に?」
「十中八九、間違いないだろう」
「やはり陛下はすごい……あっ、でもそれだとこのやり取りも――」
はっとしたドンはまわりを見回した。
第一宰相の私邸、しかも自分の書斎という、ほんとうならもっとも安全な場所なのだが、父上の情報網のすごさをいままで体験してきたドンはここでもバレかねないと思っているようだ。
「それなら問題ないだろう」
「それはどうして?」
「すこし目を閉じていろ、十秒程度でいい」
「え? はい……」
ドンは言われたとおり、素直に目を閉じた。
俺は足音を殺して、音を立てずに意識して、書斎からでた。
そこで少し待つと――。
「目を開けます、陛下。――え?」
書斎の中から、ドンの驚いた声が聞こえてきた。
「陛下? どこにおられるのですか? え? いる?」
明らかに困惑しているドン、俺は「切って」、中にもどった。
「陛下!? 今のは」
「余の存在感だけをのこした」
「陛下の……?」
「ちょっとした応用だ。自分の気配を消すのではなく、気配をその場に偽装して残すものだ」
「……それで撒いてきたという事ですか!?」
「そういうことだ」
「…………はあ」
驚きが限界を超えた、といわんばかりの呆けた表情になったドン。
たぶん間違いなく撒いてきたはずだ。
向こうの気配を掴めたから、俺が残した気配でその場に釘づけになったのははっきりと分かった。
だから、撒いてきたのは間違いないはずだ。
「すごいです……陛下……」
ドンはその事に、いつまでも驚愕し、感動したのだった。