159.子は親を越えるもの
シンディーと別れたあと、俺は彼女が用意した馬を駆って、再び帝都への帰路を急いだ。
シンディが用意した馬はかなり良質なもので、速さや体力はもちろんのこと、手綱への反応――つまり人間からの指示には過不足なく反応してくれるいい馬だった。
選りすぐりで、かつ腕利きにより調教がみっちり積まれてきたのが乗っているだけでよく分かる。
その馬を駆って、途中でシンディとのやり取りで一休みはしたが、予定からほぼ遅れることなく、かつ体力をかなり温存した状態で帝都に帰り着くことが出来たのだった。
☆
夜、皇后の寝室。
帝都の離宮、もと十三親王邸に戻ってきた俺は、意識逸らしの技を駆使して、オードリーの部屋に潜入してきた。
オードリーは机の前に座り、物静かに読書をしている。
気配そらしの技を解除し、わざと足音を立ててオードリーの前に立った。
夜間の照明は俺の足元だけを照らして、上半身は闇の中に隠れたような状態だった。
「……だれ?」
オードリーは一瞬ビクッとして、身構えた。
しかしほとんど動揺する事なく、誰何しつつゆっくりと顔を上げた。
「動じないのだな」
「陛下」
声で俺だと分かって、オードリーは大輪の花が咲いたような、少女のような笑みを浮かべて立ち上がった。
「いつ、お帰りになったのですか?」
「ついさっきだ。余が戻った事はまだ内密にな」
俺はそういい、唇に人差し指を当てる古典的なジェスチャーをした。
その仕草一つで、オードリーは少女の笑みから皇后の厳かな表情に切り替わった。
「何かあったのですか?」
「それはこっちが聞きたい。帝都で何か変わった事はなかったか?」
先入観を与えないために、俺はなんの事かは限定せずに聞いた。
オードリーは思案顔をした。
「変わったこと……はございませんが、兄が今年の騎士選抜の選抜官が誰になるのかを探って来ました」
「ふむ、ねじ込みたい家人でもいるのかな」
「はい」
オードリーはそういいながら、今し方まで自分が座っていた椅子を袖で軽くはたいた。
それで綺麗さがさほど変わるわけではないが、結婚している皇族の給仕をするのは正室の役目、というのは皇帝・皇后になっても同じだから、オードリーは形式的に椅子を「綺麗にして」俺を座らせた。
俺はそれに座り、オードリーの手をとって、側にあるもうひとつの椅子に座るように促した。
オードリーは「いけませんわ」のような表情をしたが、俺は「二人っきりだから構わん」と視線で返した。
オードリーは一呼吸の間だけためらったが、俺に従って椅子に座った。
二人とも座って、同じ視線の高さでやり取りを続けた。
「何人位なのかは聞いているか?」
「直接は聞いていませんが、兄の家人が一人、伝手で託されたのが一人」
「ありがちだな」
「はい」
オードリーはそうとだけ相づちを打って、それ以上は何も言わなかった。
彼女は賢い、ここで俺が求める以上に意見をするのは国政干渉になりかねないと分かっている。
後宮、特に皇后のルートから干渉して国政を誤らせたケースは歴史上枚挙に暇がない。
彼女はそのことをよく知っていて、己が「本分」をよく守っている。
「今年の試験官はオスカーだ、それを伝えてやるといい」
「よろしいのですか?」
「ああ、そのかわりオスカーだとしったあと、どういう行動をとったのかを追跡しろ」
「顛末を陛下にご報告すればよろしいのですね」
「いや、もしオスカーに賄賂を送るようなありきたりな事しかしないのなら報告しなくていい、そのまま見なかったことにしろ」
「……陛下はすごい」
「ん?」
改めてオードリーをみた。
彼女は感嘆していた。
「そして、お厳しい。もしも賄賂でどうにかしようとしたら、今後一切陛下のお眼鏡にかなう事はないのでしょうね」
「実力ある人間ならどこかで頭角を現わしてくる」
「……っ! だから報告させないのですね」
俺はふっと笑った。
俺も人間だ、そこで詳細、つまり名前を聞いてしまえば色眼鏡で見てしまわないとも限らない。
本当に人材だった場合、そして将来何かしらの形で俺の前に現われた場合。
先入観無しで登用するためにも知らない方がいいと思ったのだ。
「すごいです、陛下」
オードリーはますます感動し、尊敬の眼差しで俺を見つめた。
尊敬の熱がピークを過ぎて、オードリーははっと思い出したような顔になった。
「申し訳ございません、陛下。陛下が内密で戻ってくるほどの『なにか』はなにも……」
「そうか。かまわん、お前はそれでいい」
「本当に申し訳ございません……陛下のお役に立てずに」
「お前は後宮の主、国母だ。『知らなくていい』事は知らなくていいし、知らなくていい事を『知らない振り』し続けていられるのならもっと褒めてやる」
「あっ……」
オードリーは頷き、真顔になった。
「分かりました、これからも内事はお任せください」
「ああ、それでこそだ」
俺は手を伸ばして、オードリーの頬に触れた。
オードリーはその手に頬を預け、甲の方に自分の手を重ねて、愛おしげにさすった。
皮肉なものだ、と俺は思った。
第十四皇女アーリーンと、その婿アンガス・ブル。
少し前に二人のために伝統の一部を取っ払い、二人を「皇女と入り婿」のくさびから解き放ち、普通の夫婦にしてやった。
そんな俺が、ここで伝統に縛られている。
皇帝と皇后、夜の閨房すら記録に残るお互いの身分と立場を鑑みれば、今のふれあいが最大級の愛情表現だった。
だけど、俺も人間だ。
ノアになる前は庶民だった。
庶民の――人としての情愛はとうに忘却の彼方だが、まったく知らない訳ではない。
オードリーがとても愛おしく感じられた。
「オードリー」
「はい」
オードリーはしっとりした、穏やかな声で応じた。
「余は今決めたぞ。父上は60年間在位していた。余は決してそれを超えない」
「上皇陛下を見習って譲位なさるのですね」
「ああ、自分がまともな内にまともな跡継ぎに譲ることにする」
「すごいです陛下、権力をまるで意にも介さないなんて」
「だからオードリー」
俺はオードリーをまっすぐ見つめた。
オードリーは俺の視線に少し驚き、戸惑った。
「お前も長生きしろ」
「え?」
「老後を余と過ごせるように健やかでいろ」
「――っ、はい!」
オードリーは頷き、さっきよりも遙かに、嬉しそうに微笑んだのだった。
☆
オードリーの寝室を出て、離宮を離れ、帝都の大通りを歩いた。
帝都の夜は眠らない。大通りは歓楽街を縦断していて、完全に日がおちた後でも享楽を求めて人々が行き交っている。
俺は一直線に第一宰相邸――ドンの屋敷に向かった。
屋敷の表には門番が立っていて、かがり火がたかれている。
ここで意識そらしの技を使って中に入った。
「――はっ!」
この技の威力をもうひとつ、思い知った形だ。
これまでは――いや、今までの誰もが、「極秘の訪問」をいかにして「極秘」に留めておくのかに腐心したものだ。
いかに当事者同士が口が堅かろうが、そういう「極秘」の訪問をする様な身分の時点で、まわりに多くの人間がいる。
人払い一つとっても、「人払いをした」という事実が残る。
秘密というものは、関わった人間が多ければ多いほど、露見する確率が爆発的に上がるもの。
この技であれば、「極秘」は当事者同士、今回の場合は俺とドンの二人だけに留めておける。
「父上を……越える事ができる?」
歴史書で読んで、心に深く刻み込んだ言葉が脳裏に浮かび上がってきた。