157.跡目
「ぶひひひぃーーーん!!」
人間の俺でもはっきりと分かる位の、苦悶の色が濃く出たいななきを放った後、馬はがくっと膝から崩れ落ちて、転んでしまった。
背中に乗っていた俺はいななきを聞いた瞬間に気づき、とっさに飛び上がって事なきを得た。
スタッ、と着地して、馬の側に向かう。
地面に倒れた馬は四本足を力なくバタバタさせていて、顔には色濃く疲労の色がでている。
それは限界を超えた類の疲労だった。
「……アポピス、楽にしてやれ」
手をつきだして、命令を下した。
指輪が光って、その光が凝縮されて、透明な液体になって、馬の口の中に吸い込まれていった。
しばらくして、馬の顔から苦痛が消えて、穏やかな顔で逝った。
「ご苦労……ありがとう」
しゃがんで、馬のまぶたを閉じさせてやる。
そして立ち上がり、まわりを見る。
夜明け前の街道は他に人の姿が見えない。
前も後ろも、俺以外の何者の姿も見えない。偶然でもだれかが通り掛かってくれれば少しは楽だったのだが、しょうがない。
「しばらくは徒歩だな――むっ」
割り切って、再び歩き出そうとした瞬間、足ががくっときた。
俺も膝から崩れ落ちそうになって、とっさに力を入れて踏みとどまった。
当然だなと思いつつ、ここで立ち止まっているわけにはいかないと思った。
「アポピス、もう一度だ」
『――』
「自分の体だ、ラインは把握している、やれ」
あのアポピスが俺の体を案じてきたが、それを却下してもう一度命じた。
別の解釈のしようがない、有無を言わさないような口調で命じた。
一呼吸ほどの間があいてから、指輪からまた光が溢れ、今度は濃紺色のしずくになった。
わずか一滴の、宙に浮かんでいるしずく。俺はそれを手の平ですくい取って、口の中に放り込んだ。
途端、どんな濃茶よりもてきめんに目が冴えた。
「よし……いくぞ」
声に出して自分を鼓舞しながら、俺は小走りで走り出した。
次の街まで行ければ、おそらく馬をなんらかの形で手にいれられる。
それまでもう少しのやせ我慢だ。
そうして走ることしばし、徐々に近づいてくる地平の果て、街道の横に一両の馬車が止まっているのが見えた。
馬車のまわりに何人もの用心棒らしき男がいた。
こっちが用心棒らしき男と、見た目の詳細が分かるほど近づいたという事は向こうもこっちの事が見えると言うことでもある。
俺の姿を認めたからか、男らは馬車の中に向かって何かを告げるようにうごいた。
次の瞬間、馬車から一人の女が降りてきた。
その女を見た俺は、一気に駆け抜けようとしたのをやめて、馬車の少し前に足を止めた。
そして、女と向き合うような形になった。
女はしずしずと俺に頭を下げてきた。
「お待ちしておりました、陛下」
「シンディーか、何故ここにいる」
女は顔なじみで、名前はシンディー・アランという。
数十年前、まだ子供だった俺が、当時の第三宰相のパーティーで出会った商人パイロン・アランの義理の娘だ。
その時は彼女も幼かったが、聡明で物怖じしない事から俺の印象に止まって、それが巡り巡ってパイロンという男を俺とつなげる事になった。
お互い幼い頃からの顔なじみ、庶民であれば幼なじみになろうかという間柄だ。
そのシンディーが何故か街道にいて、俺を待ち構えていた。
「超特急でしたらこのあたりで馬がつぶれる計算でございました」
「なるほど」
「どうぞお乗り下さい。お話がすむ位の距離に新しい馬を用意させてます」
「相変わらず如才ないな」
シンディーを褒めつつ、馬車に乗った。
馬車の中に入った俺は少し驚いた。
てっきりシンディー以外は無人だと思っていたが、そうではなく男が二人いた。
ただの男ではなかった。二人とも盲人であることを示す、黒布の目隠しをしていた。
さらにその二人の他にも、安楽椅子が一台置かれていた。
「どうぞ、陛下。按摩の腕のいい者をお連れしました。もちろん目が見えず耳も聞こえませんのでご安心を」
「そうか」
按摩――つまりマッサージだが、盲人が特にうまいというのはよく知られている事だ。
よく「他にできる仕事がないからこれをやってる」という誤解をされがちだが、盲人の多くは自然と触覚が研ぎ澄まされていくため、常人よりも筋肉の細かい状態がよく分かり、それがマッサージのうまさに繋がっている。
それにくわえてシンディーは「耳も聞こえない」者を連れてきた、それはつまり何をはなしても大丈夫だというメッセージだと俺はうけとった。
動き出した馬車の中で腰を落ち着かせつつ、横に侍るように同乗するシンディーに話しかけた。
「父親は元気か?」
「はい、最新の情報――」
「そうじゃない、パイロンの事だ」
「――えっ? あっ……」
驚き、慌てて頭を下げるシンディー。
「も、申し訳ございません! 私、てっきり」
「かまわん、こっちも言葉が足らなかった」
で? と言外に促す。
「ありがとうございます。父は最近、その……仕事どころではなくて」
「うん? なにかあったのか?」
「その……弟が、生まれまして」
「ほう」
少し驚いて、瞠目もした。
パイロンについて知っている情報を頭の中に広げてみた。
パイロンはかなり早い段階から俺の、十三親王の紋章を掲げて商売を指定いるものだから、その辺の商人や臣下よりもよく知っている相手だ。
そのパイロンの情報を全部頭の中で広げてから、「それ」にきづいた。
「……なるほど、初めての男子か」
「はい」
「めでたいことだ」
「ありがとうございます。50を越えてからできた初めての息子ですので、それはもう、目に入れても痛くないほどです」
シンディーの言葉に、俺は小さく頷いた。
「当然といえば当然だな――なにか書くものはあるか?」
「え? はい、もちろんございます。こちらです」
シンディーはそういい、馬車の隅っこにある机を指した。
俺を出迎えて、盲人たちを用意したということは機密的な話をするつもりだから、その流れで俺が何か指示のために書き記し事は当たり前の想定、最低限の想定としてある。
だからシンディーも当たり前の様に用意してはいるが、このタイミングで聞かれたことで「もう?」という顔を一瞬した。
俺はそれをスルーしつつ、机に向かい、用意されてある上質な紙にペンを走らせた。
簡潔だが、解釈違いのしようがない文面をしたためてから、それをシンディーに渡す。
「これを持っていろ」
「これは……名字、を?」
「そうだ、余の恩賞という形でお前に名字を一つやる。実際何の名字にするのか、空欄にしておいたから必要な時に好きなものを書き込むといい」
「どうしてこのような……」
「役に立つ日が来ないのがベストだが、念の為にもっていろ」
「………………っ! あ、ありがとうございます!」
かなりの長さ、時間にして十秒近く、シンディーはまったく理解できなかったが、ようやく思考が繋がってはっとした顔になった。
そして紙をかかえたまま、器用に馬車の床で俺に平伏した。
「申し訳ございません! 陛下のご厚意、すぐに理解もできずに」
「よい、男でなければそのようなものだろうし、そもそも」
「そもそも?」
シンディーは平伏したまま、顔だけ上げて不思議そうな表情で見つめてきた。
「親子関係が良好なまま育ったという証左でもある。謝る必要などどこにもない」
「ありがとうございます……」
シンディーは俺が渡した紙を胸もとにかかえて、感動した表情でつぶやくようにいった。
ゆっくりと立ち上がってくる間も、彼女の感動した表情は収まるどころかますます強くなっていくばかりだ。
俺は彼女に「新しい名字」を与えた。
皇帝、ないしは親王が下の者に「新しい家」を立ち上げさせる事は珍しい事ではない。
もともと「家」を持っている者でも、功績次第で皇帝や親王が追認した家にして、箔をつけさせてやることはよくある。
それと同じことをシンディーにした。
シンディーの義父、パイロン・アランは50を越えて初めて男の実子ができた。
それ自体はいいことだ。
帝国は今でも、男子相続、そして長子相続が一般的だ。
ある程度立身出世を果たしたものであれば、男の子供に自分の生きた証を継承させる事を願うものだ。
それはいい、問題は歴史上、ここからお家騒動に発展するのは枚挙に暇がないということだ。
そういう場合のお家騒動で怖いのは、年をとってから――つまり残された時間が少ないことから、それで生まれた焦りで行動が過激になり、ストレートに子供にとって障害になる相手を粛清という手段に出ることが多い事だ。
先の子供や、一族の他の男子に矛先が向けられることが多い。
この場合シンディーが、場合によっては継承の邪魔と見なされる可能性がある。
だから俺はシンディーに「新しい名字=家」をやった。
それを使えば跡継ぎ争いから離脱する名目が立つ。
何しろ「皇帝からもらった家名」を優先するという言い訳が立つから、継承を争わないという言い訳が出来る。
人間っていうのは面白いもので、この場合俺がシンディーに与えた物の方が「格」としては上なのに、ほとんどの人間はそれで跡目争いに絡んでこないということにホッとする物。
つまり、これが彼女の身の安全を保証する最善の一手だ。
「すごいです陛下。陛下に言われるまで、そんな事気づきもしませんでした」
「さっきもいった、親子関係が良好な証左でもある。気にするな」
「それが分かるのもすごいです!」