156.必要火急
「む?」
「あら?」
俺とアリーチェがほぼ同時にそれに気づいた。
天幕の外に、けたたましいくらいの足音が聞こえてきた。
それは鎧の擦れ合う音が混じった足音で、だれが聞いても急いでいると分かる足音だった。
「何かあったのでしょうか」
「ふむ」
足音はこっちに向かって、近づいてきている。
それで少し様子見をしていると、足音は天幕の真っ正面、入り口の所でとまった。
「ヘンリーでございます、陛下」
「うむ」
「お休みの所申し訳ございません、お耳に入れておきたいお話が」
音と天幕越しの影で、跪くのが見えたのとほぼ同時にヘンリーの声が聞こえてきた。
アリーチェは戸惑った様子で俺に目線を向けてきた。
これまた急いでいる――いや、焦っているのがはっきりとわかる声だったからだ。
俺はアリーチェに頷き、「入れ」といった。
アリーチェは立ち上がり、無言のまま、入ってきたヘンリーと入れ替わりに外に出て行った。
夜の、皇帝の寝室。
俺の意識じゃ皇帝には個人の時間はないと思っているが、普通はそこまで思っていないと言うことも理解している。
こんな夜遅くのプライベートな時間と場所に、ヘンリーのような男が慌ててやってきた。
それはほぼ間違いなく政事か軍事であろうと、そう理解したアリーチェは何も言わず、入れ替わりにすっと出て行った。
尻目にアリーチェが退出したのを確認した後、ヘンリーは険しい顔のまま俺に近づき、一通の封筒を差し出してきた。
封筒は飾りっ気がなく、しかし作りがしっかりしてて厳重に封をした跡がみられる。
密報。
その言葉が俺の脳裏に浮かんだ。
「火急のご報告でございます」
「うむ」
俺は受け取り、ヘンリーが封をきったであろう口から中の紙を取り出した。
それを開いて、内容に目を通す。
「……陛下が?」
眉根がくっつくくらいにきつく寄せられたのが自分でも分かった。
その密報は帝都から届けられたもので、内容は上皇である父上が倒れた事を報告するものだった。
俺は視線をあげて、ヘンリーをみた。
ヘンリーは俺に勝るとも劣らないほどに眉をひそめていた。
なるほど、と思った。
これが届いて、居ても立ってもいられずに、急いで俺の所に駆け込んできたという訳か。
ヘンリーが急いで来た理由は痛いほどよく分かった。
かなり前になるが、父上が倒れたことがあった。
俺がまだ少年くらいの頃で、法務親王大臣を拝命していた頃だ。
あの時も父上が倒れて、そこそこの騒ぎになったことがある。
あの時からかなり時がたった――というのは、そのまま父上が老いたという事でもある。
高齢、いやもはや老齢と言っていい父上。
今回倒れたのは前回以上に緊急な事態、と考えるのが普通だ。
ヘンリーが慌てるのもよく分かる。
俺は少し考えて、ヘンリーに聞いた。
「これはいつ届いたんだ?」
「つい先ほどです。私の所で留めておけるような内容ではございませんので、急ぎ報告にあがった次第です」
「そうか、分かった。倒れたとは言ってもこれでは仔細がわからん。この程度の文面であれば、まあ『最悪の事態』にはなっていないだろう」
「はい、それはおっしゃる通りかとおもいます」
「ならば当面は準備、余だけでも帰れる程度の準備を整えておけ」
「はっ!」
ヘンリーは深々と頭を下げた。
もしこれが帝都か、もう少し近場にいるのなら早馬を駆ってでも帰っていただろうし、瞬時に連絡が取れる手段があるならすぐにそうした。
だが、残念ながらそのどっちもない。
すぐには帰れないし、連絡も取れない。
すぐに動けるように、続報を待つしかないのだ。
それをヘンリーも分かっているようで、とりあえず俺に報告が出来て、まっとうな指示をもらえたことで少しだけホッとして、眉を開いた。
そんなヘンリーに、俺は真顔で言った。
「一つだけ小言だ」
「え?」
顔を上げたヘンリー、小言? って顔をしていた。
「ヘンリー、お前、これを受け取ってすぐに来たといったな」
「はい、急ぎ耳に入れた方がいいと思った次第で」
やはりきょとんとしたままのヘンリー。
俺はちらりと、しかしヘンリーにも分かる位に、視線を一度入り口のほうにむけた。
アリーチェが退出した天幕の入り口だ。
「アリーチェも気づくほどだ、途中でお前の慌てっぷりを見た者もそこそこいるだろう」
「はい……あっ」
ヘンリーははっとした。
そして今度は「やってしまった」という顔をした。みるみると青ざめていく様子は、普段のヘンリーからは中々見られない、新鮮な反応だった。
俺は封筒を持った手ごとあげて、更につづけた。
「そうだ、これは急報ではあるが、密報という形で届けられた。ただの急報であれば問題はないが、密報でそのようにあわてて来られると最後の最後で『密』の意味が薄れる」
「も、申し訳ございません!」
ヘンリーは青ざめるのを通り越して、まるで紙のような顔色になって、俺に跪き頭を下げた。
「あまりの知らせだったので、つい――」
「よい」
俺は手をかざして、ヘンリーの謝罪と弁明をとめた。
「上皇陛下――父上の容体のことだ。息子としても、また、帝国の大臣としても平静ではいられまいよ」
「はっ……」
「余も本気で責めているわけではない。小言だ。頭の片隅においておけばよい」
「御意……」
もう一度頭を下げてから、ヘンリーはゆっくりと立ち上がった。
そして、表情をまた切り替えて、俺を見つめてきた。
「どうした」
「やはり陛下はすごい。このような事にも動じずに、陛下としての振る舞いを十全に全うされておられる」
「……ヘンリー」
「はっ?」
「礼を言う」
「……え?」
ヘンリーはきょとんとなった。
今度はなんの事か、という顔をした。
俺はそんなヘンリーを見つめ返しながら、真顔で続けた。
「皇帝に『私』はない、あるのは『公』だ。ヘンリーが代わりに慌ててくれたおかげで余は冷静でいられた。だから――」
一旦言葉を切って、改めて、という感じで続ける。
「感謝している」
「そんな! ……もったいないお言葉でございます」
☆
ヘンリーが天幕から出て行ったあと、俺は視界の隅にあるステータスを眺めていた。
――――――――――――
名前:ノア・アララート
帝国皇帝
性別:男
レベル:17+1+1/∞
HP C+A 火 E+S+S
MP D+B 水 C+SSS
力 C+SS 風 E+C
体力 D+B 地 E+C
知性 D+S 光 E+S
精神 E+A 闇 E+B
速さ E+A
器用 E+A
運 D+B
―――――――――――
ステータスに変化はまったくなかった。
そういう感想、あるいは意識か。
それを持ったのは、前回父上が倒れたときは盛大にステータスが変わったという経験があるからだ。
。
あの時は、+の後ろにあるものが全部最大になった。
それは一時的な物とは言え、倒れた事さえも利用した父上が帝国の全権限を俺に預けた、という意味だと俺は解釈した。
今回はそれがない。
帝国の全権限が俺にはない。
つまり、父上は健在ということだ。
詳しい状況は相変わらず分からないが、少なくとも危機的な状況では決してない、と俺は判断した。
「……」
だが、とも思った。
あのヘンリーがあそこまで慌てた理由もわかる。
父上はもうかなりの高齢だ。
あれだけの高齢だと、今は大丈夫でも次の瞬間急変したとしてもなんら不思議はない。
俺は元十三親王――十三番目の子だ。
俺が生まれたときには、父上は既に初老の域にさしかかっている。
あれから十数年がたった、今はもっとお年を召していらっしゃる。
そこまで考えると――。
「陛下?」
「うん? ああ、アリーチェか」
いつの間にか天幕の中にもどってきたアリーチェが、心配そうな表情で俺を見つめていた。
「お顔の色が優れないようですが……」
「ヘンリーの事は言えんな」
俺は自嘲気味に笑った。
ヘンリーにあんな事を言っておいてアリーチェに気づかれるような表情をしていた。
猛省しなければなと思った。
「私になにか出来る事はありませんか?」
「余は今から急ぎで都に戻るが、だれにも知られたくない。数日はごまかしておいてくれ」
「わかりました」
「方法は任せるが……二日だ、二日間はお前以外のだれも知らないような状況を保っていてくれ」
「その……」
「うむ?」
アリーチェを見た、彼女は少し驚き、そして言いよどんでいた。
「気になることがあるのなら遠慮無く聞け」
「はい、その。ヘンリー様には?」
「黙っておけ」
「……」
アリーチェの表情が、驚きから困惑へと変わっていった。
「言わなくて大丈夫なのですか?」
「ああ」
俺は小さく頷いた。
黙っておけとは言ってみたものの、アリーチェが「ごまかし」をやろうとした時点で、どううまくごまかしてもヘンリーなら気づく。
むしろ上手くやればやるほどヘンリーは気づくだろう。
それは仕方ない事だし、余計な負担をかけてしまうからアリーチェには黙っておこうと思った。
「ヘンリー様にも黙っておくのですね」
「……敵を騙すにはまず味方からだ」
アリーチェも「まず味方から」の方だが、当然今は言わない。
「頼んだぞ」
「分かりました」
「ごまかし方は任せる、なんでもいい」
「なんでもいい、ですか?」
「好みなら余が股を打って血尿をだしたことにしてもいい」
俺はいたずらっぽい笑みを浮かべて、いった。
アリーチェが少し緊張してるからほぐそうとおもっての言葉だ。
「そ、そんなことは」
「冗談だ、が、まるっきり冗談でもない」
「え?」
「とにかく方法はなんでもいい、余が二日間この天幕にこもっていることに出来ればそれでいい」
「はい……分かりました」
「今から二通の手紙を残していく。もし二日以内に露見した場合の指示と、二日保った場合の指示だ」
「はい」
「たのんだぞ」
「はい! ――え」
アリーチェは何かに気づいた様子で、ぱっと後ろに振り向いた。
俺はその間にさっと天幕をでた。
「……あっ」
天幕越しにアリーチェの声が聞こえて来た。
驚きと、納得が入り交じったような声だ。
俺が気配で視線を逸らした事に気づいた反応だ。
俺はそのまま陣地の中を進んで行った。
気配で視線を逸らしつつ、だれにも見られないように歩く。
そうやって軍馬がつながれている所にやってきた。
いつでも乗れるように準備しておく、馬装している一頭の馬にまたがった。
その馬にのって陣地をでた。
しばらくはゆっくり歩かせたが、足音が届かないであろう程度の距離が離れてから、鐙を通して馬を走らせた。
「アポピス」
『――』
心の中で、アポピスが言葉にならない返事をしてきた。
「疲労を誤魔化せるか? 一時的でいい」
『――』
アポピスから「是」とする返答が返ってきた。
アポピスは薬や毒を扱うことが出来る。
薬や毒の中には、俺が要求した一時的に疲労や痛みを誤魔化せる代物がある。
それをアポピスに要求した。
直後、指輪が光って、目の前にゆっくりとしずくが落ちてきた。
まるで綿かホコリのように、しかしまっすぐゆっくりと落ちてきた大粒のしずく。
俺はそれを手に取って口の中に放り込んだ。
瞬間、はっきりと目がさえていったのが実感できた。
どんな濃茶を飲んだときよりもはっきりと目がさえていった。
アポピスに俺自身と馬の疲労をごまかしてもらい、俺は、一直線にそして最高速に、帝都を目指して馬を疾走させるのだった。