155.本人証明
アリーチェに褒められながら、俺は少し前に、第一宰相ドンと二人でのやり取りを思い出していた。
☆
元十三親王邸は俺の即位にと同時に、名目が「邸宅」から「離宮」へと格上げされていた。
それに伴って、「離宮」の格式に沿った改修というなの増築がされた。
本丸の屋敷はもとより、庭園も相応の手が加えられている。
そんなますます豪華さを極めた庭園の中、俺はドンと二人っきりで、あらゆる使用人を遠ざけてそこを散策していた。
かつては兄上の腹心だったドンは、今や帝国の第一宰相として俺の懐刀的な位置に納まっている。
そんなドンを引き連れるような形で、俺達は庭園の中を散策するような形で密談をした。
「公共事業、でございますか?」
「そうだ、やれるだけやっておけ」
「とおっしゃられましても……そんなにやれることはありませんが」
「無理矢理作ればいい」
まずは大まかな方向性を示してから、具体例を挙げてみた。
「極端な話、今月はこの離宮の壁を剥いで上皇陛下の宮殿を修繕し、来月はその壁を剥いでこの離宮の壁を修繕すればよい」
「ずいぶんと無駄をなさるのですね」
「業者の中抜きにだけ気を配れ。人夫に金が渡ればそれでいい」
「夫役はいかがいたしますか?」
「そうだな」
俺は少し考えた。
ドンが聞き返してきた「夫役」というのは、雑に言えば「税を労働力で納める」者達の事だ。
税を納めているという形なのだから、本来は給料など出ないのだが。
「少しは払ってやれ。バランスはお前に任せる」
「陛下は……」
「ん?」
俺は立ち止まって、首だけ振り向いた。
ドンも同じように立ち止まって、その顔は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「……」
「思った事を話せ。どんなことでもかまわん、この場は不問にする」
「では遠慮無く。陛下は、帝国の財政が常に慢性的に赤字状態なのをご存じですか?」
「ああ、知っている」
俺は小さく頷いた。
それは俺が子供の頃からずっと言われてきたことで、今でもまったく解消されていないことだ。
図体が大きくなった帝国は相応に支出が増えていて、それが財政を徐々に圧迫しつつあるのだ。
今の所差し迫った危機になることはない、「慢性的な」レベルの話だ。
「知っている上で無駄遣いをなさるのですか?」
「家計が赤字だから支出を抑える、という話なら正しい」
「どういう意味でしょうか」
「正しい」という言葉を使いながらも、俺の語気がまったく同調していないものだと理解したドン。
彼は眉をひそめたまま聞き返してきた。
「それには一つ前提がつく」
「どのようなもので?」
「収入が固定、最悪でも安定していなければ成り立たん。毎月決まった給料をもらう者達であれば、な」
「……収入が固定なら、支出さえ減れば赤字は黒字に転換する」
「そうだ。だが、国はそうではない。国の――帝国の収入は主に何だ?」
「税収と……戦による戦果と属国の貢ぎ物」
「そうだ、帝国は戦士の国、戦を『転がす』ことで収入を維持してきた」
俺はそこまで言って、真顔に変えて、言った。
「支出を減らせば当然戦にかける金もへって、それで収入が減る。そもそもが支出を減らせば近隣の属国はどう思う?」
「……帝国の弱体化?」
「そうだ、そうなれば自然と属国からの貢ぎ物も減るだろう。そうなれば収入がそもそも減って、支出を減らしたのに赤字が減るところが、場合によっては更にふえることもあり得る」
「それはそうですね」
「つまりだ。『慢性的』程度であれば、帝国はやせ我慢をしてでも支出を減らすわけにはいかないのだ。支出を減らせば収入も減る、そうして赤字のまま更に支出をヘラそうして収入も更に減ってしまう――悪循環だ」
「なるほど……さすが陛下、そこまで考えが及びませんでした」
ドンはそう言いながら、さっきに比べて少し表情が明るくなった。
「公共事業をやって、税収の規模を維持しようという事ですね」
「そういうことだ」
「御意、その通りにすすめます」
「たのんだ」
「それにしても、景気が良くなっていればこんなことも必要なかったのですが」
「……景気がいいというのはどういう事だと思う?」
「え? それは……」
話題はいきなり変わっての、俺の質問。
そんな謎かけのような質問に、ドンは少し戸惑いつつも答えるべく、眉をひそめた思案顔で頭を巡らせた。
「民が金を持っていること……でしょうか」
「それだと50点だ」
「なにが足りないのでしょう」
「民が金を持っているだけでは景気はよくならん」
「……では?」
「昔話だ。貯蓄を美徳とし、民がみな蓄えをたくさん持っていた時代があった。一般庶民までもが、そうだな、倹約すれば十年は過ごせるであろう、というレベルの貯蓄を持っていた」
「良いことです」
「が、だれもかれも貯蓄をするだけで使おうとしない。金はあるのにだれも金を使わない。その状態でどうなったと思う?」
「え……あっ」
ドンはハッとした。
俺はフッと笑った。
「そうだ、民は金を持っているのに使わない。自然と景気は悪くなった。しかし、だ」
「……貯蓄はあるから危機感もない」
「そうだ。そうやって景気はじわじわと悪くなっていき、問題が表面化した時はもう手遅れな状態になった。貯蓄も相応に減っていたしな」
「思い出しました。フサール王国のことですね」
「そうだ」
俺ははっきりと頷いた。
少し前に歴史を調べたときに、気になって細部まで調べたフサール王国という国の歴史。
概要レベルであれば有名な話だから、ドンもそれくらいは知っていたようだ。
「さっきの答えだ。『民があまねく金を持っており、その上使う意思も旺盛』、これが景気が良くなる最小の構成条件だ」
「……あるいは今持っていなくても働けば手に入ると認識があれば」
「120点だ」
俺の「意思」から「認識」へと繋がったドン。
俺の第一宰相は相変わらず頭のまわりが早くて、少しだけ嬉しくなった。
「つまりはそういうことだ」
「なるほど……勉強になりました。そこまで本質を見抜いていたとは、さすがは陛下」
俺はふっと笑った。
「そういうことだから、都に限らず無駄な公共事業はやっておけ。人夫達に『明日も仕事はある』『働けば金は入る』という認識を常に持たせておけ。ああ、業者の中抜きだけはきっちり取り締まっておけ。見せしめに何人か極刑にしていい」
「御意! ちなみに人夫に重きをおくのは……?」
「中抜きする連中とはちがって、あの手の連中はため込もうという気質はない。稼いだだけ使うから、ばらまいておけば勝手に経済の起点になってくれる」
「そこまでお考えで……すごい……」
☆
俺はアリーチェを横に侍らせながら、報告書を眺め続けていた。
緊急の物に比べればどれも簡単な政務ばかりだった。
10件中9件は本当に「報告」のみのもので、俺はそれを読んでたった一言「わかった」とだけ、最後のあたりに書き加えた。
皇帝である俺の直筆で「わかった」とあれば、その報告書をもどしたらそのとおりに政務がすすめられるというわけだ。
そうやって俺が次々に処理していたが、さすがに件数がかさむとすこし疲労もたまってくる。
お決まりの「わかった」を書いた後、すこしだけ肩こりを感じたから肩をグルグルとまわした。
「そろそろお休みになってはどうでしょうか、陛下」
横でずっと黙っていて、俺が処理した報告書を綺麗に畳んでいたアリーチェがそんな事を言ってきた。
「ああ、そうだな」
俺はちらっと残された報告書の山を見た。
まだ結構残っているが、そもそもが不要不急の物ばかりだ。
後回しにしてもまったく問題のないものばかりだ。
「陛下はどうして、印ではなく手書きなのですか? こういった――」
アリーチェはちらっと、俺が最後に処理した「分かった」の報告書に視線をやって、言った。
「ご返事でしたら、陛下のハンコでも良かったのではありませんか?」
「お前は賢いな」
俺は本気でそう思い、言った。
「え?」
「お前の言うとおり、その方が労力を減らせる。が、それをやると本当に皇帝が読んだかどうかという証明にならん。ハンコなんて誰でもつけるしな」
「でも、それは陛下が肌身離さず持っているので」
「ほら」
俺はにやっと笑いながら、公式の文書に使われる皇帝のハンコをアリーチェに突き出した。
アリーチェは反射的に手を出して受け取って、それから思いっきり恐縮した。
「こ、これっ!」
「歴史上こういうことがよくあった。寵姫がかわりにやっておく、的なのがな」
「そ、そうなのですね」
「そもそもハンコでは何の証明にもならん、拇印なら話は別だが、その拇印も検証すれば証明になるが、一方に送った先じゃ――」
言いかけて、俺はとまった。
頭の中にある考えが浮かび上がった。
それは白い稲妻のように、俺の脳裏を駆け抜けていった。
「どうしたのですか? 陛下」
「いい事を思いついた」
「いいこと、ですか?」
「たぶん出来るはずだ……これを一番上手くやれるのは……」
俺は少し考えて、指輪を目の前にかざして、呼びかけた。
「アポピス、いけるか?」
俺の呼びかけにアポピスが呼応した。
肯定の意思をもらった俺は、まずアリーチェに背中を向けた。
そうして見えないようにしながら、その辺からまっさらな白い紙を取って、それの隅っこに手を触れた。
指輪からアポピスの力があふれ出る。
極彩色の液体が、紙の隅っこに俺の紋章をつくった。
それを見て、振り向き、きょとんとしているアリーチェにそれを渡す。
「見て見ろ」
「はい……あっ……」
紙を見た瞬間、アリーチェははっとして目を見開いた。
「これは……陛下!?」
「ああ、この紋章だ」
俺はそういい、今度は背後に紋章を顕現させた。
俺の事を知らない人間でも「皇帝だ!」と認識するあの紋章だ。
「これを流用した物だ」
「なるほど、これって、誰が見ても……」
「そうだ、本能で皇帝の物だと分かるようになってる」
今まで出来てたことだが、流用する発想はなかった。
その発想のきっかけを与えてくれたアリーチェは、自分の影響だとは知らずに。
「すごい……これ、ハンコよりも、手書きよりも『陛下』ってわかります……」
強い憧憬の瞳で俺を見つめてきたのだった。