137.女の特権
ヘンリーに諸々を任せるといった後、俺は天幕の中にもどってきた。
天幕の中ではアリーチェが静々とした居住まいで座っていた。
「ただいま」
「お疲れ様です、陛下」
アリーチェはにこりと微笑んだまま立ち上がって、よく絞った手ぬぐいを作って俺にさしだした。
天幕をでて少ししか経ってなくて疲れたとかはまったくないが、何もいわずに心遣いを受け取り、顔を少し拭いた。
「ん」
「はい」
アリーチェは使い終わった手ぬぐいを受け取った。
そのまま、何も聞いてこなかった。
好奇心がないわけでもないだろうに、それでもアリーチェは何も聞かない。
まるで糟糠の妻のように、かいがいしくしてくれた。
俺はいつもの場所に座ると、アリーチェも横にやってきた。
「明日からしばらく留守にする」
「……!」
これにはさすがに驚いたのか、アリーチェは目を見開き俺を見つめてきた。
「どこに行かれるんですか?」
「敵地に潜入してくる――」
「いけません!」
最後まで聞かずに、大声をだして制止しようとするアリーチェ。
大声を出してからハッとして、ばつが悪そうな顔で自分の口を押さえた。
「気にするな、さっきもヘンリーに諫められてきた」
「当然です、危険すぎます」
「だが今しかないのだ」
「どういう事ですか?」
「リヴァイアサン――レヴィアタンがかつて超長距離狙撃で、帝都近くにいながらアルメリアの反乱軍首魁を仕留めた事がある」
「は、はあ……」
いきなり何を言い出すんだ、と言う顔で曖昧な相づちをうつアリーチェ。
俺は構わず先を続けた。
「あれは絶大な効果を生み出した、が、あれは強烈過ぎたせいで対策が取られた。今ではもう同じことは出来ない。仮にあの時やっていなければ、今回も親征をする事なく超長距離狙撃で敵軍の首魁を一撃で仕留められる」
「……でも、それでは次が」
「そういうことだ」
俺はふっと笑った。
地頭がいいアリーチェは俺が言いたいことの本質を言い当てていた。
「どんな強い技だろうが優れた技術だろうが、使っているうちに対策されて、陳腐化して効力が減退する。知っているか? かつては魔術師一人のファイヤボールで城壁を打ち破れたのだが、今や対策が取られて魔術師数百人を投入して一斉射しなければまともな戦果があげられんようになった。もっといえばさらに太古だと鉄の武器を持っているだけでも一騎当千の働きができた」
「……はい、歌も同じです」
「だろうな。余は詳しいことは分からないが、お前ほどの女が見えている景色ならきっとその域にあろう」
俺は頷き、そう言った。
どの領域でもそうだ。
歌のようなメジャーで研鑽する人口が多いジャンルだと技術も日進月歩だろう。
かつての名手が現代に生きても必ずしも活躍出来るとは限らない――とはよく言われることだ。
それはある意味で正しく、ある意味で間違いだと俺は思う。
かつての名手が昔の技術のままだったら活躍できないだろう。
しかしかつての名手がその才能で日進月歩に発展した現代の技術を学べばやはり活躍できるだろう、と俺は思う。
思考がそれたな、と改めてアリーチェを見る。
「もどかしいです」
アリーチェは言葉通り、もどかしそうな顔をしていた。
「それが進歩なのだ、人間全体のな」
「……」
「どうした、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「ううん、陛下ってやっぱりすごいなって。同じような事を言った人を何人も知ってますけど、皆自分の事しか考えてなくて、変化は嫌だ、って言ってましたから」
「そうか」
そういう人間は俺もよく見てきた。
ノアに転生してからも、転生する前の前世も。
アリーチェの話をきいて、そういう人間にはなるまいと改めておもった。
そして、更に話を続ける。
「今、余は視線誘導という技を編み出した。今は絶大な威力を発揮するだろうが、そのうち対策されて効果を成さなくなるだろう」
「そんな事ができるのですか?」
「例えばだ、この技は余にしか扱えぬというのが分かれば、どこにいるのかまったく気にせず、100メートル四方を戦術級範囲魔法で焼き尽くせば、視線誘導どころではなくなる」
「えっと……」
「難しかったか。家のどこかにいるけど見つからない、なら家ごと燃やそう」
「あっ、は、はい」
「今のは極論だが、いくらでも対処法を思いつけるということだ、人間が必要に迫られたらな」
「なるほど……」
「だから、今のうちに、効力が最大限発揮できるうちに使い倒しておきたい」
「でも! そうだとしても! 陛下が自ら危険をおかす必要は! 陛下のお力を他の誰かに――」
「今しかないのだよ」
「――えっ?」
どういう事なのか、ときょとんとなるアリーチェ。
「人間は、可能性があるから迷う」
「可能性……迷う?」
「帝国皇帝が自ら斥候をするなど、考えられるか?」
「それは……いいえ、まったく」
「うむ。それは今までやった皇帝がいなかったからだ。しかし余が今ここでやれば、今後少なくと余はそういうことをする人間、現れるかも知れない――と敵対する人間はそう思わざるを得なくなる」
「……」
「例え、余が親征しなくてもだ。いないといいながら実際は来ている、と疑心暗鬼になる。そして安全にそれが出来るのは、余が初めての親征をして、放蕩を演じて相手が油断している今が最も危険が少ないタイミングだ。次回なら、余はもう放蕩皇帝ではないからある程度の警戒はされる」
アリーチェは複雑な、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「そこまで考えていらっしゃるのですね……」
「うむ」
「すごいです。すごいです……けど」
アリーチェは泣きそうな顔をした。
楚々とした泣き顔、後ろ髪引かれる姿だが、今後のことを考えるとここはやらなきゃならない場面だ。
アリーチェの表情は心中同様揺れ動き、軋み、最終的にはどうにか立て直してきた。
「ご武運を……お祈りします」
「うむ」
俺は少し考えた。
アリーチェを悲しませたままにしておくのもどうかと思い、何かないかと考えた。
「何か欲しい物はないか?」
「え?」
驚くアリーチェ。
いきなりの話題の変わりっぷりにものすごく驚いていた。
カッと見開いた目、まなじりに涙の跡がきらめいていた。
「今回はよくやってくれた、褒美をやらねばならん」
「そんな……」
「お前ほどの女だ、もう金でもなかろう」
「そ、そんな……」
「そこは謙遜してくれるな、お前を見いだしてくれた余の眼力も含まれているのだ」
「は、はい……ありがとうございます……」
今度は恥じらって、微かにうつむいてしまう。
うつむいたままの上目遣いは嬉しそうな色が現われていた。
「そういうわけだ、何がほしい。何でもいえ。帝国皇帝が用意できないものなどそうそうないはずだ」
「陛下……」
「うん? どうした、遠慮しなくてもいいぞ」
「……では」
「うむ」
「また……お店に来て下さい」
アリーチェはすこし溜めたあとそういった。
俺はふっと微笑んだ。
「そうか、わかった」
頷き、立ち上がる。
ここしばらくはアリーチェに取ってきて貰っていた、天幕の隅っこにある文房具一式の所にむかった。
そこでペンをとって、最低限の文言だけ書き込んで、最後に皇帝の印をおした。
それをもって、アリーチェの所に戻る。
「ほら」
「え?」
持ってきた紙を差し出すと、アリーチェは不思議がりつつも、俺の手から受け取った。
そして視線を落とし、文面を読もうとする。
「これは……ほとんどなにも書いてありませんが……」
「白紙手形のようなものだ」
「え?」
「余は、お前が何を飲み込んだのかまでは知らないが、何かを飲み込んだのか位はわかる。そこまで朴念仁ではないつもりだ」
「陛下……」
「無理強いはしない、飲み込んだということは今は言いたくないのだろう」
「……」
「いいたくなったら、それか本当に欲しいものを思いついたら自分で書き込むといい」
そこまできいて、ようやく手に持っている紙の意味の大きさを理解したアリーチェはハッと驚いた。
無粋だから口に出して言わないが、これは俺がノアに転生してからで、一番大きな贈り物だ。
貴族の義務に倣い、ことあるごとに数百から数千リィーンをその時相対する者達に分け与えていたが、この紙はそんなものの比ではない。
帝国皇帝が手ずから書いた白紙手形だ、現金にすれば数百万リィーンどころの騒ぎではない。
それをアリーチェに渡した。
理由はいくつかあるが……一番大きいのは彼女の気持ちに答えられなかった事への詫びだ。
アリーチェが俺に行ってほしくない理由は分かる。
ヘンリーと似ているが、本質では似ても似つかないしっとりとした感情がそこにあるからだ。
それはわかる、わかるが、俺はいまそれに応えられない。
俺は帝国皇帝。
今後の治世のためには、今この仕込みをしておかなければならない。
それで彼女を悲しませた、その詫びだ。
それをもらったアリーチェはまた百面相をした。
今度はさっきよりも幾分明るい表情でだった。
「陛下はすごいです」
「そうか?」
「すべて見抜いてらっしゃるんですね」
「……そうだな」
「わかりました――では」
アリーチェはそう言って立ち上がり、俺が白紙手形を書いた所にいき、同じペンをとってささって白紙手形の詔書に何かをかきこんだ。
そして戻ってきて、それを俺に手渡す。
「これは……『生きて帰って下さい』?」
「はい。それが私の一番の願いです」
「こんなことがか? いや、余は斥候をしに行くのだ、生きて帰る事が前提だぞ」
「だとしてもです」
アリーチェはそういい、婉然と笑った。
その笑顔は今までに見た彼女の顔で一番魅力的で、ちょっとどきっとしたほどだ。
「面白い使い方をする」
「女の一番のわがままですし、女の特権です」
「そして面白い言い方をする」
「陛下の真似です」
「ん? ああ、ははは、そうか」
女の特権――貴族の特権。
なるほど俺を真似たのか。
それを口にしたアリーチェはいたずらっぽい笑みを――悲しみを一掃した笑みをうかべていた。
「わかった、必ず生きて帰る」
これ以上の問答は無粋だろう。
俺はアリーチェが書きこんだ詔書を大事に扱って、懐にしまった。
それが意思表示だとアリーチェは正しく受け取ってくれたようで、少し前までの暗い表情が跡形もなく消えて、時間さえあればいつまでも見ていたい笑顔だけになった。