129.もうひとつ先へ
連載再開します、また十万字くらい書きます
深夜、天幕の中は甘ったるい匂いが充満していた。
女の性的魅力を最大限に引き出して、男の情動も高める夜の香り。
お香に精製したそれを焚いた香りが天幕の中を充満している。
そんな香りの中、俺はアリーチェと二人っきりになっていた。
アリーチェは俺の横で、まるで妻のようにかいがいしく寄り添っていた。
俺が空けたグラスに、さっとまた酒をそそごうとしたが。
「あっ! す、すみません!!」
たどたどしい手つきでそそがれた酒は、手の震えもあってグラスからこぼれて、俺の太ももに少しだけかかった。
アリーチェは慌てて酒瓶をおいて、布を取ってきて、俺にかかった酒を拭く。
俺はグラスを持ったまま彼女の好きにさせた。
「本当にすみません! 次はちゃんとつぎます」
「気にするな。余は気にしていない」
「で、ですが――」
「むしろ少し安心している所だ」
俺がフッと笑うと、アリーチェは「えっ?」ときょとん顔になった。
今のどこに安心する所なんてあるのか、という顔をしている。
「お前のような歌姫であれば接客も仕事の一つに含まれているだろう。そのために必要なことは実戦の中で一つずつ覚えていく」
「えっと、はい」
「だがお前は覚えていない。『実戦』がなかったからだ」
「はい……陛下の庇護をいただけたおかげです……」
アリーチェはかすかに目を伏せて、ためらいがちに俺を見あげた。
その瞳には強い感謝の色がある。
そう、彼女のような人間は、純粋な娼婦とは紙一重なところがある。
店で歌う、いわば歌姫と呼ばれるような職業なのは間違いない。
しかし、才色兼備の女となると、金か権力か、あるいは両方もった男に目をつけられるのはどうしたって避けられないことだ。
そしてそういう人間が近づいてくる理由の九割九分が、その女を抱きたいという即物的なものだ。
良い・悪いではなく、そういうことがあるのが現実で、そしてそれは男が男である限り未来永劫なくならないものだと俺は思っている。
一方で、アリーチェはそうはならなかった。
それは彼女が名を馳せる前から俺が目をつけて、金を出して援助してきたからだ。
かつては十三親王、そして賢親王をへて、今は帝国の皇帝だ。
俺の「お手つき」に手を出す命知らずな人間は帝都には存在しなかった。
故にアリーチェはそういう「仕事」をする必要が無く、それに必要なスキルもまったく持ち合わせていない。
「知っている、だから気にしてはいない」
「ありがとうございます、陛下。すぐに覚えますから――」
「いや、その必要はない」
「え?」
「お前はそれを覚える必要はない。とりあえずさせてはいるが、この遠征が終わったらやり方全部忘れていい」
「ですが……」
「この剣をどう思う?」
俺はそう言いながら、横に置かれている剣を引き抜いた。
リヴァイアサンではない、皇帝の身の回りには常に様々な装飾品があり、この剣もそのうちの一つだ。
柄も鞘も華美な装飾に彩られている、実用性が極めて低い儀礼用の剣だ。
それを抜き放って、アリーチェに見せながら聞いた。
「えっと……立派な剣、です?」
「ああ。こいつで魚を捌いたり、大根を切ったりするのはどう思う?」
「ええっ!? そんな、も、もったいないです」
「つまりそういうことだ」
「…………あっ」
十数秒くらいだろうか、アリーチェはきょとんとしたあと、ハッとした。
俺がこの剣をアリーチェに例えて、体を売る娼婦のようなことをさせるのはもったいないといったのを理解したようだ。
「陛下……」
「世辞ではないぞ。バナジン通りで大観衆の心を震わせることが出来たお前だ。そんなのは覚えずに歌っていてほしい」
「陛下は……私を過大評価しすぎです」
「そうかな? これでも低く見積もっているかも知れないと思っているのだがな」
「そんな……」
「もし余が過大評価しすぎだというのなら、その評価に追いつくようにすればいい」
「はい……そうします」
「うむ」
「やっぱり陛下はすごい人です……」
俺はふっ、と穏やかに微笑むだけに留めておいた。。
ああはいったが、アリーチェは感激した表情で更に酒をついできた。
今この場に必要な振る舞いだし、あえて止める必要もないから好きにさせた。
「それにしても」
「ん?」
「陛下って、お酒も強いんですね」
「ああ……それはちょっとしたズルだ」
「え?」
「飲んだそばからアポピスで解毒している」
「あぽぴす……?」
アリーチェはきょとんとした。
「余に付き従っている精霊のようなものだ」
「な、なるほど」
「それで飲んだ側から体内に入った酒を解毒させている。それをやっている限り、余はいくら飲んでも決して酔うことはない」
「すごい……そんな事もできるんですね」
「泥酔に等しい量を飲んだ事実はいるが、本当に泥酔していては話にならないからな」
俺はふっと笑った。
昼行灯を演じるために、アリーチェを侍らして大酒を飲んでいる。
わかりやすく酒色に耽っている姿を演じている。
それもこれも、全ては「最初の一太刀」のため、である。
「ん?」
「どうしましたか?」
「外が何か騒がしいな」
「見てきます」
アリーチェはそういい、立ち上がった。
天幕の入り口までいって、外に身を乗り出して何かをいった。
しばらくして、何かを受け取って、それをもってこっちに戻ってきた。
「陛下、デュセルの代官から密報が」
アリーチェはそういい、持ってきたものを俺の前にさしだした。
箱だった。
「ああ、フワワの箱か」
「ふわわの……箱?」
「余にしか開けられない、厳重に施錠された箱のことだ。大事なことを知らせる時に使われる」
「このようなものが……」
「デュセルならゾーイか。ゾーイは知ってるな?」
「え? あっ、はい。陛下のお側で何回か見たことが」
「うむ。彼女はいまデュセルの代官をしている」
「な、なるほど……」
女なのに代官なのが不思議なのだろうか、アリーチェはやや困惑したような表情をしていた。
そんな彼女から受け取った箱を開封する。
残存したフワワの力を使うと、箱そのものがぱらり――とまるで蕾が花開くかのような形で開いた。
中から出てきたのは綺麗に折りたたまれた手紙だった。
俺は手紙を手にとってじっくり読んだ。
「…………ふむ」
「何かありましたか?」
俺が読んでいる間は邪魔にならないように黙っていたアリーチェは、俺が声をだして読み終えたのを待ってから話しかけてきた。
「ああ、デュセルで水害があったようだ」
「水害」
「それでゾーイは昔の余がしたように、商人に買いあさられないように土地を保全しようとしたが、金がたりなくて――と泣きついてきたんだ」
「あっ……」
「水害で商人どもが群がることはわかるか?」
「はい……そういう話、よく……聞きます」
「うむ」
俺は小さく頷いた。
珍しい話でもない。
水害の後、商人がいち早く乗り込んで、ほとんど捨て値で土地を買っていくことはどこにでもある事だ。
それをゾーイは防ごうとしている、俺が昔そうしてやったみたいに。
「どうなさるのですか?」
「そうだな……二段階に分ける必要があるな」
「二段階……ですか?」
「ああ、土地の保全はかつて余が行った、ゾーイはそれを見ている。まずは都にいるオスカーに命じて予算を出させる。先立つものがあればゾーイは経験があるからどうとでもできよう」
「それが一段階目ですね。二段階目は?」
「無論、復興だ。種籾、農具、そして牛馬。それを来年の春くらいに無料で提供できる形を整える。初年度にかぎり種籾での借金も禁じさせたほうがいいのかもしれんな」
「無料なんですか?」
「水害は肥沃な土地を運んでくる、しかしその時ほとんどの民は肥沃な土地を活かせる金がない。それも商人どもが群がる理由の一つだ。肥沃な土地をすぐに活かせるように種籾も農具も牛馬も用意してやる」
「それで食べていけるようにするのですね!」
アリーチェは感動した瞳でいった。
「それもある」
「も……ですか?」
「救助はするつもりだが、人間は腹だけ膨らませてもダメだ。希望がなければ生きていけない。無料の種籾と道具があれば、立て直す希望になる」
「すごい……そこまで考えていて……」
アリーチェはますます感動した瞳で俺を見つめてきた。