123.商人と皇太子
俺は頬についた血を親指で拭い取った。
「す、すみません陛下! すぐに通報して、あの者達を追いかけさせます」
アリーチェの次に我に返ったのは店主だった。
長年顔見知りの店主は、さっきの連中に勝るとも劣らない、四つん這いで地面を這う格好で俺の前にやってきて、平伏したままそう言った。
「いや、必要ない」
「え?」
「大した罪ではない。頬にかすり傷など、裁判所に持っていっても説教する程度だ。むしろ持ってこられても困るだろう」
「し、しかし、陛下にこのような事をするなど言語道断、いや万死に値する」
「逸るな。余は名乗っていなかった、不敬罪にはあたらん」
この話をするのは何度目だろうな、と俺はちょっとおかしくなった。
法務大臣になってから、当時の皇帝である父上に求められて法解釈をしてきた中で、おそらく一番勘違いされて、正してやらなきゃいけなかったのがこの不敬罪の解釈だ。
不敬罪というのは、庶民が貴族に不敬を働いたときに対する罰則を定めた法律だ。
その中でも、特に皇帝に対するものは「大不敬罪」と呼ばれることはあるが、これは俗称で正式には不敬罪の中の一条に過ぎない。
その不敬罪は、はっきりと「相手を王侯貴族だと認識した上で」と定められている。
つまり今回のようなケースだと、皇帝が名乗る前だから不敬罪にはならずに、頬を傷つけたというただの傷害罪になる。
……というようなことは、子供の頃から何度も父上の前で言ってきたことだ。
「ただの傷害罪で、余も報復法の原則に基づいて脅威を排除しただけだ」
「おお……なんという寛大さ」
店主が感動した様子でそう言った。
すると、他の客達も歓声の中で一斉に俺を称えだした。
「では、せめてあいつらの正体を突き止めます。組合に人相書きを流してこのあたりを出禁に致します」
「それも必要ない」
「え?」
「最後に余は名乗った、そうだろ?」
「え? あ、はい」
店主は慌てて頷いた。
リヴァイアサンの力で具現化した紋章。
あれは、何も知らない人間にでも「皇帝だぞ」と刷り込む力――いや技。
前回のレアララトに行く道中で編み出した技だ。
「お前がもし、知らなかったとは言え皇帝に傷を負わせたらどうする」
「それはもちろん……逃げます、あっ――」
「そうだ、逃げる。余は不敬罪を適用させるつもりはさらさらないが、お前達も含めて、普通はその方向で物事を考える。あいつらもそうだろう。もう帝都にはいられまいよ」
「す、すごい……そこまで考えられた上で……」
「大した事じゃない。万が一怖がらずに恨みを持ったとしても、その矛先は余に向かってくる――余はアリーチェが歌う場所を守ったにすぎない」
「陛下……」
店主の横で話を聞いていたアリーチェが感動した様子で、目を潤ませた。
「というわけで……アリーチェ、迎えは改めてよこす。店主、アリーチェがいない間はお前がちゃんと店を守れよ」
「は、はい! 命に代えても」
俺はにこりと微笑みながら。
「みんな楽にしろ」
俺はそう言いながら手を振って、店からゆっくりと立ち去った。
店を出た後、一人で街の中を歩いた。
散策するくらいの気軽さで、歩きながらあれこれ眺めた。
帝都の風景を、繁栄を。
もう少ししたら出兵するから、今のうちにまぶたに焼き付けておこうと思った。
実質的な意味合いはないが、いざという時、もしかして「守るものがある」ということで、俺の心と気持ちを奮い起たせてくれるかもしれない。
なんとなくそんな事を思いながら、帝都を散策しながら、あっちこっち見て回っている。
あれこれ眺めながら歩いていると、目の前で一台の馬車が止まった。
馬のいななきと共に馬車が止まって、直後に一人の男が降りてきた。
「陛――ご無沙汰しております」
「アランか」
馬車から降りてきたのは見知った顔の商人、バイロン・アランだった。
バイロンは俺が六歳だった頃に知り合った商人だ。
確か第一宰相ジャン――いや、当時は第三宰相か。
ジャン=ブラッド・レイドークの屋敷で開かれたパーティーに招かれた時に知り合った。
あの時は壮年だった男も、今や還暦間近の初老で、髪に白髪が混じっていて、立派なひげを生やすようになった。
「どこかへ行く途中だったのか?」
俺はアランが乗ってきた馬車をちらっと見て、聞いた。
「店へ戻る最中でございます。各地から発注したものの一部が届いたと知らせが入りましたので」
「へえ」
そう返事しながら、俺は歩き出した。
バイロンは御者に手を振って何か合図を送ってから、一人で俺の後についてきた。
真横ではなく、わきまえて俺から一歩さがった位置でついてくる。
「なにか面白いものでも仕入れたのか」
「子供が喜ぶものを、少々」
「子供?」
ちょっと驚き、目を見開いてアランの方に目線を向けた。
アランほどの商人が「子供が喜ぶもの」というのは普通に考えられないことだ。
何かあるのか? と彼の顔を観察するように見た。
「はい。もっと正しく申し上げれば、大人が思う、子供が喜びそうなものでございます。さるやんごとなきお方が、しばらくの間孫を可愛がるとの情報を仕入れましたもので」
「……ああ」
俺は頷き、くすっと笑った。
街の中だからバイロンは明言を避けたが、それは父上の事だった。
俺は父上にセム――俺の息子の「お守り」を頼んでいた。
そして父上の元には、バイロンが送り込んだ妃がいる。
商人というのは、政治の中枢からの情報があるのとないのとでは商売に大きな違いがでる。
ではどこからの情報がもっとも価値があるのかといえば、もちろん中枢のさらに中心である皇帝そのものからの情報がもっとも価値が高い。
皇帝から情報を引き出すのは普通に考えれば難しいが、皇帝もまあ男だ。
男からは枕語りでいろいろ情報を引き出せるのは――まあ数百年、いや千年以上前から変わらないことだ。
だからバイロンは妃になるための女を選び、それを俺が協力して、当時皇帝だった父上の後宮に推薦して入れたわけだ。
そのルートが今でも生きている、というわけで、俺が父上に頼んだセムのお守りという情報がバイロンに流れたというわけだ。
「どういったものを用意したんだ?」
「はっ、そのお方は厳格な方ですので――」
「シンプルに幼い子供が喜ぶものを半分くらいは揃えた方がいい」
俺はバイロンの言葉を遮った。
語り出しからある程度の想像はついたから、それを否定する形になった。
「え?」
「父親と祖父というのは違う。子供に厳格な男でも、孫相手だとまったく違う一面を見せる。違うか?」
「た、たしかに……頑固一徹の老人でも孫だけは溺愛することがよくある……」
「が、確かな事は言えん。だから半分くらいでいい」
「わかりました」
「その代わり……」
「え?」
「さるお方がどう思うのかは分からないが、丁度俺にも息子がいる、たぶん同年代のな。その息子が何を喜び、何が特に好きなのかの話ならしてやれる」
「――っ!! ありがとうございます!!」
バイロンは大げさな位の勢いで頭をさげた。
……大げさでもなんでもないか。
話に出てきた「孫」とは俺の息子セムのことだ。
そのセムが何を好きなのかをあらかじめ知っていれば準備が出来る。
妃経由の枕語りじゃなく、俺本人からの情報。
普通ならいくら金を出しても買えないような情報だから、バイロンの反応は至極当然と言える。
俺はバイロンにセムの好きなものを教えてやった。バイロンはものすごく喜んだ――が。
「……」
直後、彼はものすごく困った顔をした。
「どうした」
「そ、その……なんとお礼をすればいいのか……」
「……ああ」
俺はふっと笑った。
よく考えれば当然だ。
バイロンと知り合ったとき、俺はただの十三親王だった。
親王――つまり王族相手であれば謝礼も渡せる。
が、今の俺は皇帝だ。
帝国の全てのものは余のもの――というのが皇帝だ。
皇帝相手に、知らないならいざ知らず、正体を知っているのに謝礼を渡せるはずもない。
返礼ができない――というか、しようが無いことにバイロンは気づいて、困り果てた。
そもそも、ストレートに「皇帝に謝礼」というのは、不敬罪にもなり得る。
皇帝の「恩賜」とはそういうものだ。
だから厳しい貴族だと、今の迷いにすら「不敬だ!!」と言い出すのもいる。
俺はもう一度笑い、話を変えてやった。
「そういえば、暁光馬――というのをしっているか?」
「暁光馬……ですか。いえ、寡聞にして……」
「全身の毛が山吹色に光り、あたかも暁光を放っているように見える馬のことだ」
「そのような馬が!?」
バイロンの目の色が変わった。
暁光馬の姿をイメージして、それが「金になる」と商人の勘が働いたんだろう。
「もちろん本当に光っている訳ではない。ある品種の白馬に、ある飼料を与えると、その飼料の影響で汗の色が変わり、白毛と合わさって暁光を放っているように見えるだけだ」
「な、なるほど」
頷いたバイロン。
瞳の色も落ち着いたが、「それならそれでやはり金になる」と、完全に失望したわけではないような表情になった。
「その飼料の質――純度というのかな、それが高ければ高いほど輝きが増す。丁度その飼料が欲しいと思ってた所だが――ざっくり半年分、揃えられそうか」
「ーーっ! お任せ下さい! 必ずや!」
「なら、頼んだぞ」
「はっ!」
バイロンは深々と頭を下げた。
まわりの通行人が何事かと注目を集めたが、さほど珍しい光景でもなく、すぐに興味が潮のように引いていった。
俺は再び歩き出す、バイロンもついてくる。
「しかし……さすがでございますな」
「ん?」
「暁光馬……でしたか。そのような馬の事は初耳です。どうやって調べ上げたのでございますか?」
「古い文献の断片から集めたものを復元させただけだ」
「なんと……」
「ん?」
バイロンが又、立ち止まった。
さっきよりも驚いた顔をしている。
「どうした」
「す、すごいです……そのような学者のような事もなさっていたとは」
「必要だったからな」
「必要?」
「ああ、はったりに何かいいものはないかって調べてたら、黄金の馬というのが複数の文献にあったから、念入りに調べてみた」
「それだけで……さすがでございます! 学者の家系に生まれていたとしてもきっと大成なさったことでしょう」
「学者か」
それはそれで心ひかれる未来ではあるな。
「そういえば」
ふとある事を思い出した俺は、歩きながら首だけ振り向き、肩越しにバイロンに目線を向けた。
「はい、なんでしょう」
「お前になにか、これは絶対に許せないことだ! っていうのはあるか」
「もちろんです! 私には恩人がいて、その方をないがしろにするような者は絶対に許せません!」
「ふふっ」
俺はクスッと笑った。
今の「恩人」というのは俺で、バイロンは俺にゴマをすっている訳だ。
「その話はわかった。二番目だとどうだ?」
「二番目……でございますか……」
バイロンは眉をひそめ、すこしばつの悪そうな表情になった。
俺が言外に「お世辞じゃない方を話せ」って言ったもんだから、それで困っているようだ。
「なんだ、ないのか?」
「い、いえ! その、強いていえば」
「うん」
「娘を……不幸にした者は許せない、でしょうか」
「ああ」
バイロンには義理の娘がいる、俺とも面識がある。
その子の事か。
「そうか、娘のことを大事にしてやれ。悪かったな、変な話を聞いて」
「いえ! 滅相もないです」
「暁光馬の件、頼むぞ」
「はっ!」
バイロンはそう言って、一度頭を下げてから、身を翻して歩き出した。
「娘、か」
バイロンの絶対に許せないことは、思いのほかわかりやすかった。
あれほどの商人なのだからもっと複雑なものだと思っていたから、少しだけ拍子抜けしたのだった。