準文学少女
一
階段を上りながらため息を何回もつく。目的の場所に近づくにつれて足取りが重くなってゆく。
最初は何度か迷ったが、もういい加減身体が覚えた。
ドアの前に立ち、大きく深呼吸をする。なんとか心を落ち着けて、ノックをした。
「はーい」
部屋の中から気の抜けた声が聞こえると同時に、滑りが悪いスライド式のドアを開ける。
「よお。」
わざと感情のこもっていない声を出した。ここまでは上々だ。
「なんだ。陽介かよ。」
ベッドの上で本を読んでいた幸は、大袈裟に肩を落とし、いかにも残念そうに言った。
部屋の中は、薬と湿布の匂いがした。
「なんだよ。文句あんのか。この女ゴリラ。」
「バスケ部の櫻井くんだと思ったの。それに、ゴリラは本なんて読みませーん。」
悪く言えば悪口の応酬、よく言えばいつも通りの会話だった。我ながら上手くできたと思う。
会話が途切れないように、何とか話の種になりそうなものを探す。
「また本読んでるのか。」
「そうよ。私、文学少女だもの。」
このやり取りも何度目だろうか。
幸は入院してから、本を読むようになった。今まで本と無縁の生活をしてきた幸としては大きな成長だ。
ただ、幸はよく分からない恋愛小説しか読まない。そして、幸はそれを純文学だと言い張る。
「誰が書いたかも分からねえ恋愛小説だろ。」
「言うことがナンセンスね。そんなこと関係ないのよ。これは純文学だわ。」 また言った。自分を文学少女と呼ぶのも気に入らない。
そんな幸のことを、僕は心の中で「"準"文学少女」と呼んでいた。文学少女のひとつ下の位だから「準」。そして、この「準」には純文学の「純」もかかっている。我ながらいいネーミングだ。これを幸に言ったらきっと怒るだろうが。
「で、何しに来たのよ。」
幸は興味なさそうに言った。僕は少し詰まりながら答える。
「そりゃ、見舞いだよ。」
幸は病気だった。それも、命に関わるほどの。難しい手術を何度かしなければ治らないらしい。今日は、そんな幸を見舞いに来たのだ。
今日は、と言っても、一週間に三回は来ている。もともと幸とは家が近所で、小さい頃から家族ぐるみでの付き合いをしているのだ。母さんが「さっちゃんのところに行ってやりな」 と言う度に病院に来ていた。
そんな幸と話すのが、最近少し難しい。僕も今年で十四歳になる。母さんからは思春期だからと言われるが、もっと深いところに何かある気がするのだ。それに、幸との会話にぎこちなさを感じるようになったのは、幸が入院してからだ。
「あんたも暇ね。」
「暇じゃねえよ。」
「じゃあなんでここに居るのよ。」
「なんでって、そりゃあ…。」
勝てない。幸は口が達者だ。僕は昔から言い負かされてきたのだ。
でも、こうやって憎まれ口を叩かれるくらいが、僕は安心できる。昔の幸を見ているようだ。
昔の幸と言っても、特別変わった所はない。ただ、僕が勝手に変わったと思っているだけだ。
僕は、幸が大きな病気にかかっていることに実感を持てない。昔から男に混じって遊ぶようなやつだったし、今だって幸以外全員男のサッカー部に入っている。
そんな幸が、なんで命に関わるような病気にかからなければならないのか。色の白い、か弱そうな女の子ならまだ分かる。そんな女の子の正反対に位置するような幸がどうして、と僕は思ってしまう。
「まあいいわ、ここにいても。私は本読んでるから。」
「けっ、なんだよ、その言い方。」
結局、幸と話すと言い争いになる。でも、僕は、こんな会話が嫌いではなかった。どこか落ち着くのだ。
少し気が楽になった。そのあとは、ぽつぽつと取り留めのない会話を続けた。
昔の話だ。あれからもう六年が経つ。月が明るい。満月の光がベランダに僕の影を作る。
今年で僕も二十歳だ。何か変わったことがあるかと言われれば、首を横に振らざるを得ない。
東京の大学に通ってはいるが、本当にやりたいことは見つからない。僕は何をしに東京まで行ったのだろうか。
そんなことを考えているうちに、大学に入ってから二回目の夏休みになった。とてつもなく長い夏休みを東京で過ごすのは、僕にとっては苦行だ。夏休みだけはこちらに帰ると決めている。
生暖かい風が僕の顔をなぜる。
ふと幸の顔が浮かぶ。
今なら分かる。僕は幸に恋をしていた。それも分からない年頃だったのだ、あの頃は。
でも、幸との会話にぎこちなさを感じたのは、それが原因ではなかった。幸が病気だという事実を受け入れられなかったのだ。
身近な人間が死に近づいているという現実を受け入れるには、僕はまだ子どもすぎた。今はそう思うことにしている。
二
ずっと続いていた雨が嘘のように晴れた。
幸は今日も本を読んでいた。
いつもより集中している。僕が病室に入ってきたときもこちらに目線を向けなかったし、今も会話がない。
ふと窓の外を見つめる。そこには、抜けるような青空が広がっていた。
そして、その青空を飛行機雲が二つに分ける。僕はしばらくその様子を見ていた。
すると、突然幸が布団を叩いた。
「字が小さい!長い!読みにくい!」
ぼうっと空を見つめてた僕は、現実に引き戻された。
「なんだよ急に。」
「あんたが私の読む本馬鹿にするから、ちゃんとした本読んでみたのよ!」 幸から読んでいた本を受け取る。夏目漱石の『こころ』だった。確かに、幸には難しそうだ。僕も言えた口ではないが。
純文学を読んだ反応がこれでは、やはり幸は「準」文学少女だ。
いかにも幸らしく、少し笑ってしまった。
その様子を見て、幸が気色ばんで言う。
「何笑ってんのよ。馬鹿にしてるの?」
「そういう訳じゃねえよ。」
僕の曖昧な答えに納得がいかなかったのか、幸は「ふん」と鼻だけ鳴らし、黙ってしまった。
静寂が僕たちをつつむ。最近、幸と話すのにぎこちなさを感じなくなってきた。むしろ、一番穏やかな気分になれる。話の内容は相変わらずだが、僕たちはそれでいいのだと思う。
三
夏になった。蒸し暑い日々が続く。日差しとともに、蝉時雨が降りかかる。 幸の口数が減った。以前のように、憎まれ口を叩くようなことも少なくなった。顔も少しやつれている。
幸の病室に来ても、十分もしないうちに帰ることが増えた。幸の体力の問題らしい。今日もそんなに長くは居られないはずだ。
「ねえ、陽介。」
消え入るような声で幸が言う。
「どうした。」
「怖いよ。死ぬの。」
幸が真っ直ぐ僕を見つめる。 その表情は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
掛ける言葉が見つからない。僕は幸にどんな言葉をかけてやれば良いのだろう。何をすれば幸は救われるのだろう。
分からなかった。死を恐れる彼女にかける言葉を、僕は見つけられなかった。
目頭が熱くなる。気付いたら僕は泣いていた。溢れる涙は頬を伝い、静かに床に落ちてゆく。
そんな僕を見て、幸は今度こそ笑った。
「なんであんたが泣くのよ。馬鹿。」
久しぶりに幸の憎まれ口を聞いた。なぜかそれが今、胸に染みる。
幸がベッドから体を起こし、僕を静かに抱きしめる。
「俺は、俺はどうすればいい?分からないんだ。涙が止まらないんだ。」
幸が僕の頭をなでる。
「そのままでいいよ。そのまま私のために泣いてくれればいい。私はそれで十分。」
幸も泣いていた。声を出さずに、静かに涙を流していた。
このまま時間が止まってしまえばいいのに、と思った。そうすれば、幸は死なないですむ。
四
月に見守れながら夜道を歩く。目的地は────幸の家だ。
僕はあのとき、どんな言葉をかければ良かったのだろうか。未だに悩むときがある。でも、やはり答えは出ない。
僕はあの頃から何一つ変わっていないのかもしれない。きっと、幸も。
僕の家から幸の家は、歩いて五分といったところだ。少し考えごとをしていればすぐに着く。
「こんばんわ。おばさん。」
「いらっしゃい、陽ちゃん。」
幸の母親にも久しぶりに会う。一年振りだ。前に会ったときよりも少し白髪が増えた。
「ありがとうね。毎年。幸も喜んでるわ。」
笑いながら会釈で返す。こういうときに、僕はどう返事をすればい良いか分からない。
幸の母親のあとに続き、幸の部屋へ入る。
幸はそこにいる。写真の中で、いつも通りの笑顔を浮かべていた。
幸は、僕たちが十四歳になった年の夏に旅立った。八月十五日。今日が命日だ。
手を合わせ、目を閉じる。
生きていれば、当たり前だが、幸も二十歳だ。
幸はどんな人になっていただろうか。
サッカーは続けていたのだろうか。大学には通っているのだろうか。誰かと────付き合っているのだろうか。
もしかしたら、純文学を好んで読むようになっていたかもしれない。
そこまで思い浮かべ、少し笑う。きっと、読んでいる本は、よく分からない恋愛小説のままだろう。
帰ろうとしたとき、幸の母親が一通の手紙を持ってきた。
「覚えてる?立志の誓いって。陽ちゃんも十四歳のときに書いたでしょ?二十歳の自分に向けて。」
確かに書いた。家に届いていたが、まだ見ていない。
何を書いたは覚えていないが、おそらく大したことは書いていない。幸のこともあり、そんな気分ではなかった。
「幸ね、陽ちゃん宛に書いてるのよ。読んであげて。」
幸の母親から手紙を受け取る。驚きを隠せなかった。この手紙を書いたのは七月。すでに幸の病状は悪くなっていたときだ。
そんなときに幸は、二十歳の僕に何を思ったのだろうか。全く想像ができなかった。
「お邪魔しました。」
「ありがとね。お母さんによろしくね。」
幸の家をあとにし、帰路につく。幸の手紙を見つめる。
あのとき、幸が思っていたことがこの手紙には書かれているのだろうか。それとも、僕に何か伝えたいことがあったのだろうか。
開けて読めば分かることだが、手が震える。僕が知らなかった幸を知ることになる。
ゆっくりと封を切る。便箋は一枚。三枚折になった便箋を、目をつむりながらゆっくりと開ける。
そこには、あの頃の幸がいる。
固く閉じていた目を開ける。
《今夜は月が綺麗ですね。》
一言だけ、便箋の罫線を無視した大きな字で書かれていた。
確かあの頃、幸は『こころ』を読んでいた。
いかにも幸らしい。字の書き方も、夏目漱石と聞いてこの言葉にたどりつく単純さも。
幸は幸のままだった。「準」文学少女のままでいた。
「『死んでもいいわ。』」
こんなありきたりな返ししかできない僕も、何も変わっていない。
月を見上げる。本当に綺麗だ。ここだけは、六年前のあの頃なのかもしれない。
月が作り出した僕の影は、静かに揺れた。