朱鳥から飛香へ 2
西園寺洸と鈴木が飛香の噂話をしていたちょうどその頃、藤原碧斗は珍しく悩んでいた。
彼らが言っていたとおり、碧斗は感情の起伏が少ない。
突然目の前にUFOが飛んで来ても幽霊が現れても、恐らく彼は眉ひとつ動かすことはないだろう。冷静というよりはむしろ冷淡すぎるくらいの彼が、今は苦悶の表情を浮かべて考え込んでいた。
――さて、どうしたものか
心配の原因は、碧斗の妹、飛香のことだった。
今、彼の両親はひと月という予定で先週からフランスにいる。その父が昨夜から熱を出して寝込んでしまったという。滞在先はパリの郊外にある華道藤凪流の研修所。碧斗に来てほしいと母から電話があった。
父が出席するはずのイベントがいくつかあるためだ。
藤凪流というのは、『凪』の文字の通り初代家元の時代からひっそりとしている。進んで普及するなどの精力的な活動をせずにきた。それは、国内はもとより海外に対しても同じだったが、頑なに門戸を閉ざしているわけではない。入門は紹介制と厳しかったが、先日碧斗や飛香がパーティの余興を演じたように、請われるまま表に出ることもある。
今回の父の旅もそうだった。熱心なフランス人の弟子が、自らの資金でパリの郊外に研修所を建ててまで、家元の指導を受けたいと願ったからである。
他にもヨーロッパでいくつかのイベントをこなす予定であり、直近ではその研修所において要人を迎えた式典が五日後にあるのだが、付き添っている母がとても心配していた。
『疲れからくる風邪だろうと医者はいうのだけれど、このところ無理をしていたから心配なのよ。碧斗来てくれないかしら』
緊急事態であるし、都合がつかないわけではない。父の様子も心配だ。
問題は飛香である。
千年の時を越えてここに来た妹。
年齢的には立派な大人だが、いまだ勝手がわからないことだらけの飛香をひとりで留守番をさせるわけにはいかない。
何しろこの妹は、ほんの二年しか今の時代を経験していないのだから。
乗り物にしても車に酔わなくなったのはつい最近のこと。そもそも平安の都にいた朱鳥には速度のある乗り物の経験がない。女性である彼女が乗ったことがあるのは牛車だけで、駆け足で走ったことさえ子供の時だけだった。ほんの数時間のフライトを経験させるのならまだしも、いきなり十時間以上の飛行機の旅をさせるわけにはいかない。
『飛香は西園寺さんにお願いしようと思うのよ』
母はそう言った。
西園寺夫人は穏やかで心くばりができる優しい女性であり、独身時代から習い事のひとつとして藤凪流に通っている。同じように家元の直弟子だった碧斗の母とは当時からの長い付き合いで親友でもあった。
親友だからといって、飛香は平安の都にいた朱鳥と入れ替わったとはさすがに言えないが。西園寺夫人には、飛香はちょっとした事故で記憶が曖昧になってしまったと告げている。ある意味それは本当の事だ。
夫人の息子である西園寺洸とは友人である碧斗も、西園寺邸には何度か泊まったことがある。
都内の一等地でありながら庭も広く、ゲストルームもいくつもあり使用人もいて随所に行き届いた西園寺邸。
飛香も静かにゆっくりできるに違いなく、最近ほとんど交流のない京都の親戚たちのところに頼むよりも、よほど安心できると思われた。
――やはり、西園寺がベストの選択か。
「お兄さま、これも覚えなくてはいけないの?」
タブレットの画面を覗き込んで、タッチパネルの動きと格闘していた碧斗の妹が、ふいに振り返った。
背中へ流れる艶やかな黒髪に、抜けるような白い肌。ほんの少し切れ長で黒目がちの瞳が印象的な彼女の名前は、飛香。
飛香は下唇を噛みながら、困ったように眉の端を下げた。
「どれのこと?」
飛香が指をさしたのは、窓際のテーブルの上にあるノートパソコン。
「パソコンがどういうものなのか、感じ取れれば十分だよ」
碧斗がゆったりと微笑んだ。
「今の時代でもコンピュータが苦手な人はいるからね。さあ、お茶にしよう」
それなら私がと席を立った飛香は、ほどなくして冷えた麦茶を持ってきた。
「ありがとう。飛香は麦茶が好きだね」
「これはあまり変わらないから」
そう言ってにっこりと頷く飛香は、何と比べて変わらないのか、それ以上は言わない。
口に出さなくても兄には伝わるし、今はなるべく平安の都での生活を振り返るような発言はしないようにしているのだ。――他人の前でうっかり口を滑らせたりしないために。
何を隠そう一見何も変わりないこの妹は、外見は飛香であるが、その中にいるのは平安の都にいるはずの"朱鳥"なのである。
こうばしい香りと共に冷えた麦茶が喉を伝っていくのを感じながら飛香は目を閉じた。そうすると慣れ親しんでいる味が、遠い時間の溝を忘れさせてくれるのだ。
「美味しい……」
どんなに時が流れても変わらないものは変わらない。そんな安心感に心が満たされたところで、飛香はちらりと向かいのソファーを見た。
そこに座っているのは、平安の都の兄蒼絃と瓜二つの、妹思いで優しい兄碧斗。
彼はさらりとした長い髪を、平安の蒼絃のように後ろでひとつにまとめている。同じ切れ長の瞳。その薄い色の瞳が時折金色に輝いて見える神秘的なとこまでそっくりだ。
だから、安心できる。
生まれ変わりなのかどうなのかまでは、飛香にはわからない。現代に住む碧斗のもとに、時々蒼絃が来ていたと知ったのは、彼女が現代に来ることになった時だった。
『時空を超える?』
『ああ、千年の時を飛び越えるんだ』
平安の都で蒼絃が部屋に籠もったり、行方も知らせず何日も外出したりしていた時、彼は現代に来ていたという。
でも現代の碧斗には、そこまでの力はないらしい。彼にできるのは、自分の体を蒼絃に貸すだけだという。
それでも彼にも特殊な能力があり、藤原家に代々伝わっている"鏡"を通し、蒼絃と話をすることができた。
現代の碧斗にも妹がいて、それが飛香だった。
飛香と朱鳥も呼び名"あすか"と同じである通り、生き生きとした瞳の輝きまでよく似ている。でも性格だけは少し違う。朱鳥は健康的で活発なのに対し、飛香は人見知りが強く本を読んでばかりいて引きこもりがちだった。
その"本来の飛香"の魂は、今、朱鳥として平安の都にいる。
そうなるに至った事情について今はさておき、とにかく朱鳥は千年を飛び越えて現代の飛香として存在しているだった。
この時代に来てから二年が過ぎ、朱鳥の年齢は二十一歳であるが飛香としての年齢は二十三歳になった。
突然の環境の変化に戸惑うであろう彼女のために、現代の家族が用意したのは関東の北、那須の別荘。雑木林の中ひっそりと佇むその家にいる限り、他人との接触も少なくて済んだ。
乗り物の速度に慣れるため、碧斗は朱鳥に自転車に乗ることから教えた。少し慣れた頃を見計らい碧斗が運転する車で買い物や食事に連れ出すなど、突然の変化に飛香が精神的なパニックを起こさないように、両親も碧斗も細心の注意を払った。
そういった家族の気遣いのお蔭で、飛香は少しずつこの時代に馴染んでいった。
体にフィットする下着を身に着け、赤袴はスカートやパンツに変り、今はリネンのワンピースを自然に着こなしている。最初こそ、人前で腕や足など肌を出すことには抵抗があったし、踵だけが高い靴を履くことに体は慣れていても心がついていけなくて、上手く歩けなかったりもした。
でもそれもすぐに慣れた。
着物や袴と違って今の服は軽くて動きやすい。雑誌やテレビで見たとおり、目にする女性たちは顔を隠してはいない。お日様の下、男も女も顔を隠すことなく普通に話をしながら道を歩いている様子に、彼女は感動を覚えた。
『なんて自由なの!』
まだまだわからないことだらけだが、飛香は概ねこの時代が好きであり、とても気に入っている。
「飛香、実はね」
蒼斗はフランスに行かなければいけなくなった話を切り出した。
「――ということで、留守中の飛香の居場所なんだが、都内にいる母の知人の屋敷になる」
飛香は一瞬驚いたように目を見張ったが、それでも「はい」と頷いた。
「客用の部屋がいくつもあるようなとても広い家だし、ご主人は海外出張中だ。ビジネスマンのひとり息子は職場の近くのホテルで寝泊まりする事が多く、基本的にほとんど家にいない。昼間は夫人と使用人だけだ。夫人は飛香が小さい頃しか会っていないし、心配することはない」
もちろん不安がないわけではない。
それでも全面的にこの現代の兄を信頼している飛香に、疑いの気持ちは浮かばない。「わかりました」
と頷いて、にっこりと微笑んだ。
――"飛香"になりきらなくちゃ。
その夜、飛香はそう思いながら、本棚から"飛香の日記"を取り出した。
本来ここにいるはずの"本来の飛香"が、日記を書きはじめたのは中学生の時だった。
『平安貴族のように、私も日記を書こう』
そんな風に始まる日記からも、いかに彼女が平安の都に憧れ続けたのかがわかる。
彼女は不思議なほど平安時代に興味を持ち憧れていた。それはまるで、恋をしているようだった。
大学で専攻したものも卒業論文も平安時代に関することであったし、朱鳥の目から見ても遜色ないほど彼女は美しい筆字による『かな文字』も書いた。横書きでスタートした日記も、なんと、いつしか筆による『かな文字』になっていたのである。
今の飛香にとっては抵抗なく読むことができる『かな文字』の日記は、まさに教科書だ。
都内の雑踏があまり好きではないこと。出かけると言えばいつも本屋か図書館だということ。平安時代に固執するあまり、話の合う友人がいないことなど。
もちろん、こんな風に誰かに熟読されるとは思って書いていないだろうし、ましてや今のように他人と入れ替わることを予想して書いたわけではないだろう。それでも、この現代で生きていくことになった今の飛香には、なくてはならない貴重な記録である。
『平安貴族のように、私も日記を書こう』
"飛香の日記"にそうある通り、貴族の姫である朱鳥も日記を書いた。
竜胆の花は美しいとか、女性に生まれたことへの不満など、他愛もない事を記したのだが、恐らくその日記を朱鳥となった彼女も、同じように読んでいるだろう。
今こうして読んでいる日記ほど内容があるとは思えず気恥ずかしい気もするが、少しでもあの日記が彼女の役に立ちますようにと、飛香は願った。
そんなことを考えながら読み進めるうち、ふと自分が最後に残した日記を思い出した。
『やっと私の前に現れた荘園の君。でも彼はもう北の方を娶っていた。長かった私の恋は、身分違いの叶わぬ恋でした』
――そういえば、荘園の君と頭中将に似ている男性がいた……。
彼らを見かけたのは、先週。兄と一緒に参加したパーティでのことだ。
飛香は兄の友人たちとの会話に戸惑い、ピアノの演奏を聴いて来るといってその場を離れてしまったが、時々振り返って見た兄と一緒にいた友人たちのなかに彼らはいた。
――遠かったので、確信は持てないけれど。
朱鳥と飛香がそっくりなように、彼らもまたそっくりな姿で今の時代に存在するのだろうか?
もしかしたら、お世話になる西園寺邸の息子とは、あのふたりのどちらか?
ざわざわと落ち着かない胸に飛香は手をあてた。
『あの野の花のような純真な姫を、醜い権力闘争に巻き込んでは可哀そうだ』
そう言った荘園の君。
『また、会いに来てもよろしいですか?』
そう言った頭中将。
飛香は唇を噛んで、西園寺洸がそのどちらでもないことを願った。