朱鳥から飛香へ 1
ブラインドから縦に差しこんでくる短い陽射しが、季節が夏であることを教えている。
その奥にある一鉢の観葉植物は直射日光を避ける位置にあり、無機質な部屋に生気を与えながら管理された場所でなければ生きていけない美しさを存分に味わっている。
ここは西園寺常務の執務室。
今から二年前――。アメリカから帰国した西園寺洸は海外事業部の一役員にすぎず、個室は持たずに広いフロアの一角にあるガラス張りの部屋に席を持った。
西園寺ホールディングスは、他の一流企業同様厳しい入社試験を勝ち抜いた者だけが席を連ねる人材の宝庫である。自信に溢れていた彼らが、西園寺家に生まれた時からその地位を保証されている直系の御曹司を、胸のうちに何を思って迎え入れたのだろうか。噂に違わぬ風貌に、女子社員が瞳を輝かせた事こそ言わずもがなだが、男性社員はどうだったのか。出世の野心に燃やす瞳を向けたのか? それとも内心、いかほどの者かと鼻白んで見ていたのか?
どんな視線を向けられていたにせよ、凡そ臆するということを知らない西園寺洸は、部屋を開け放ち、自ら率先して対話の中に入った。
彼の柔軟な微笑と甘い口元は、女性を魅了する為だけにあるわけではない。西園寺洸は人を懐柔する天才だった。いつしか彼のデスクは常に人に囲まれるようになり、女性職員が出す珈琲を笑顔で受け取っていたのである。
――それから一年と少しした頃。
役員昇格に必要とされた何倍もの実績を上げた西園寺洸は、穏やかな微笑を残してガラス張りの部屋を離れ、若き常務取締役として、この静かなる個室を手に入れたのである。
今、この個室に足を踏み入れることが出来るのは、ほんの数人。その数人すら、専属秘書の鈴木の仲介抜きには中に入ることを許していない。
午後三時、淹れたてのコーヒーを飲みながら、ブラインドをチラリとずらして外を見下ろした洸は眉をひそめた。
いよいよ訪れた本格的な夏の日差しが、眼下に見下ろす街をぎらぎらと照らしている。
外はうんざりするほど暑いだろうと、ため息をつきながら空を見上げれば、梅雨明けの空は雲ひとつない。晴れ渡った空の清々しさに暑さのことも忘れ、洸はふいに思った。
――今のこの空なら、昔とそう変わらないのだろうか。
千年の時を遡っても。
見つめる青空に、ミステリアスな舞姫が浮かぶ。
それは昨夜のパーティでのワンシーン。平安絵巻をお楽しみくださいという司会者のアナウンスと共に、薄暗くなった会場の奥でステージが紫色に浮かび上がった。
中央には藤原碧斗。彼は白い狩衣を着て現れた。
向かって左には十二単に身を包んだ女性と直衣姿の男性。彼らが奏でる繊細な琴と笛の音が響く中、碧斗は花を生ける。
手にした枝を見極める様子や挿すところまで、所作の全てが流れるように静かで美しい。
そしてその右。プロジェクションマッピングが映しだす美しい蝶と煌めく鱗粉の中、現れたひとりの舞姫が舞いはじめた。
その姿を見つめているうちに思い出した。源のところで体験した平安時代のVRの中で舞っていたのはこの子ではないか?と。
真っ直ぐ伸びた漆黒の髪。穢れを知らないような澄んだ瞳、白い肌。血色のいい紅くて小さな唇。
日本人形のようなという表現があるが、彼女の場合は少し違う。むしろその逆で、舞を終えた彼女がそのまま人形になってしまいそうな、もしくは消えてしまいそうな、そんな錯覚を覚える不思議な女性。
そう感じた理由は、幻想的な世界にすっかり溶け込んでいたからかもしれない。彼女はコンピュータが作り出す美しい映像の一部になりきっていた。
だが、やはり言い知れぬ違和感が心に残る。
――なにかが違う。
そんなことを考えつつ、思い出したように冷めたコーヒーをひと口飲んだ洸は、クルッと振り返った。
「ねぇ、君はさ、藤原の言うことどう思う?」
洸の視線の先で書類に目を落としているのは、彼のスーパー秘書、鈴木翼だ。
洸の言う藤原とは、?扇学園の同窓生のひとりであり、昨日久しぶりにパーティで再会した華道界の若きプリンスのことである。
鈴木は書類から離した目を上司に向けると、微かに眉をひそめて首を傾げた。
「常務の前世は貴族だという話ですか?」
藤原家は、華道藤凪流の家元一族であり、更に遡ると陰陽師でもあったという。
その名残なのか、神秘的なオーラを漂わせている彼は、時折謎めいたことを口走った。
碧斗は源と一緒にいて、彼らはちょうど平安時代の話をしているところだった。それは先日、西園寺洸や鈴木が体験した例のVRの話である。相変わらず、洸が源を『落ち武者』と言うと、碧斗はこともなげに『ふたりとも元は貴族だ』と言いだした。
『ふたりとも、千年前も今も、たいして変わっていない』
それはまるで、過去のふたりも知っているかのような言い方だった。
『彼は?』と、洸が鈴木のことを聞いた。
『遣唐使』
『千年前のお前は?』
源がそう聞くと『わたしは陰陽師』と答えた碧斗は、口元に薄い笑みを浮かべたのである。
「その話じゃない。だいたい僕の前世が貴族で、君の前世が遣唐使なんて誰にでも想像できる話じゃないか」
「まあ、そうかもしれませんが」
鈴木が苦笑すると、洸は「妹のことだよ」と言う。
「あぁ、飛香さんのことですか」
鈴木は昨夜のパーティでの彼女を思い起こした。
碧斗が庇うように連れていた、彼の妹、藤原飛香。肩の後ろへと流れる真直ぐな黒髪が印象に残る。歳は20代前半だろうか。
鈴木がなんとはなしに『妹さんは青扇ではなかったのですか』と聞くと、それに答えたのは兄の碧斗だった。
『青扇だよ、高校までは。歴史が好きなので大学は違うが』
『歴史というと、お好きなのは平安時代ですか?』
平安時代ですかと限定したことに大きな意味はない。
ついさっき見たパーティでの余興からそんなことを言っただけだったが、彼女は一瞬目を見開くと極々小さな声で『ええ……』と俯いた。
それからもほとんど声を出すことなく、ともすると後ろに隠れようとする妹を庇うように、碧斗は『この子は色々と慣れなくて……』と言葉を濁した。
「碧斗が妹のことを『特別』だって言ってたけど、あれはどういう意味だろう?」
「あ、そのことでしたか」
そういえば、と鈴木は思い出す。
遅れて西園寺洸がその場に来た時には彼女は既にそこから離れていたが、妹の後ろ姿を心配そうに見つめながら、碧斗は『あの子は特別なんだ』とつぶやくように言った。
――それは、ただの人見知りということではないということなのだろうか?
そう思いながら『特別?』と聞き返した時、碧斗は『人前に出ることに慣れていないから』と、うやむやに微笑んだ。
「確かに、私も気になりましたが」
「藤原は昔から妙な奴には違いない。いつだって浮き世離れしていて、心ここにあらず。何があっても驚いたりしなかった」
洸が言う通り、碧斗が感情を表に出すことはほぼないに等しい。そんな彼が妹の後ろ姿を見つめる時は、辛そうに表情を崩していた。
「やはり身内のことになると違うのでしょうか? 妹さんのことをとても大切に思っているようでしたね」
何を考えているのか西園寺洸は、瞼を閉じて何かを考え込む。
そんな洸を見て、鈴木は不思議に思った。
――確かに碧斗の発言は気になるといえば気になるが、それほどだろうか?
そもそも常務が女性に興味を持つなんて珍しいですね? 鈴木はそう聞こうとして口を開きかけたが。
瞼を開けた時にはすでに、洸の脳裏に彼女の姿はなかったらしい。
「明日のプレゼン、少し気になる点がある。担当者を呼んでくれる?」
一見変わらないように見える彼の瞳の奥は鋭く、すっかり仕事の色に代わっている。
「はい。わかりました」
どうやら考えすぎだったらしいと、鈴木はすぐに思い直した。