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ふと思い立って、朱鳥は笛の音を真似て口ずさみながら舞い始めた。
シャラシャラと衣擦れの音にも耳を澄ませながら舞っていると、カタッと音がして振り返った。
――え?!
そこにはいるはずのない公達がいる。
「失礼した」
ぎゃーと叫び声をあげようとすると、ガシッと公達に掴まれて口を塞がれる。
もがく朱鳥に早口で公達が言った。
「あ、怪しいものではない。私は頭中将、別荘に人がいると聞いたので、てっきり蒼絃だと思い入ってきた。手を離すから、叫ばないで」
口を塞がれたまま朱鳥が忙しく上下に首を振ると、ようやく頭中将は手を離した。
胸元を隠して真っ赤になる朱鳥から、頭中将は慌てて顔を背ける。
「あまりに美しいので、つい……」
「み、見たのですかっ?!」
「あ、い、いやその。――ちらっとだけ」
やっぱり見たのねっ!と悲鳴をあげそうになったところを必死に堪えた。騒げば頭中将はまた振り返るに違いない。
この状況にクラクラしながら、朱鳥はその場にしゃがみこんだ。とにかく透けて丸見えの上半身を隠さなければならない。
――と、とにかく、そこをどいて!
じゃないと屏風の陰にも几帳の陰にも入れないじゃない!と心が叫ぶが。
「蒼絃は?」
頭中将は一向に立ち去る様子を見せない。仕方なく朱鳥はその姿勢のまま答えた。
「兄は山に行きましたので、ここにはおりません」
「そうですか……。あの、あなたは先日の舞姫?」
「あ、は、はい。先日は、沢山の土産物ありがとうございました」
「いえ。あの日の舞も見事でした」
――そんなお世辞はいいから、はやく行け!
と泣き叫びたくなるが、頭中将は相も変わらず動かない。
「……ありがとうございます」
仕方なくお世辞のお礼を言ったところで、「姫さま」と呼ぶ海未の声が響いてきた。救いの神の登場だ。
「さあ、早く行ってください。あなた様とは、お会いしていないことにします。何しろこの格好ですから」
急かすように早口でそう言った。
「わかりました」
体を隠すように俯く朱鳥の横を、頭中将が通り過ぎ、その後から気品ある香りが追いかける。
「また、会いに来てもよろしいですか?」
――え?
朱鳥は耳を疑った。
――今まさに結婚しようという人が、何を言っているのですか?
これだから男は油断ならないと憤慨し、「ご正室を迎えられるそうで。おめでとうございます」と、お祝いの言葉の中に皮肉をこめた。
ハッとしたように頭中将は振り返り「それは……」となにかを言いかけた。
だが、その言葉に海未の「姫さま、どちらに?」と呼ぶ声が重なり、その声はすぐそこまで近づいている。
悔しそうに唇を噛んだ頭中将は、するりと姿を消した。
海未が朱鳥を見つけた時、朱鳥は衣桁に掛けた生絹を見上げていた。
「こちらにいらっしゃったのですね。お見えにならないのでどうかなさったかと」
「生絹を着ようかと思ったの」
「では、お昼寝される時に着替えましょう」
「そうね」と言いながら、朱鳥はついさっきここを出て行った頭中将のことを考えていた。
――背も高く、狩衣もよく似合って、頭中将は噂とおり素敵な公達だった。
『また、会いに来てもよろしいですか?』
もしかすると、あの言葉はただ舞を見たいという意味だったのかもしれない。こうして落ち着いて考えてみると、そんな気がしてきた。特別な意味などなかったのかもしれないのに、私は一方的に早とちりをして拒絶するような言い方をしてしまった。
――失礼な女だと思ったことだろう。
今更ながら恥ずかしいと思った。肌を晒して踊っている品のない姫のことなど、本気で誘うはずがないではないか。
「どなたかいらっしゃいました?」
「え?」
「いえ、香りが……」
「あぁ、生絹を出した時に香ったのね」
朱鳥はそう言うが、それにしては高貴な香りだと海未は首を傾げた。どちらかといえば男性的な香りであるが、蒼絃が好んでいる香りとも少し違う。
――はて?
と、悩んだが、だからと言ってここに他の誰かがいたとは考えにくい。
気を取り直して「さあ、準備が整いましたから行きましょう」と朱鳥を促し、朱鳥の後を歩きながら、海未は振り返った。だがやはり人影はなく、にわかに吹いた風がカタカタと御簾を揺らすだけである。
空が夕焼けに染まり、それから更に時が経って夜のとばりが落ちた頃、蒼絃が帰ってきた。
普段なら行った先の話を聞きたがる朱鳥も、今夜はずっと空を見上げている。ぽっかりと浮かんだ満月は、隠す雲もなく銀色に輝いていた。そう遠くない秋の到来を告げる虫たちも、今宵は鳴くことも忘れ月を見上げているのかもしれない。不思議なほど静かな夜だった。
もう寝なければと思いつつ、寝付けない朱鳥は簀子に座り、ぼんやりとその丸い月を見上げていた。
明るく大きな月のなかに、須和の君が浮かぶ。
『結局、ここ左大臣家の姫を迎えることになったが、それはそれで良かったのかもしれない。あの野の花のような純真な姫を、醜い権力闘争に巻き込んでは可哀そうだ』
どんなに見つめても、月の中の須和の君が見つめ返してくれることはない。
――あぁ。
深いため息が漏れた。
どれほどの時が過ぎただろうか。やがてあきらめにも似た気持ちが悲しみを静めた頃、不意に蒼絃が現れた。
「朱鳥、ここにいたのか」
「兄君」
「おいで、話がある」
話ならここでもできるのに?と疑問に思いながら兄についていくと、そこは朱鳥が足を踏み入れたことがない部屋だった。
壁に仕切られて扉があるその部屋は、陰陽師である父と兄だけが入ることを許されている。
先に入った蒼絃がともす燈台の灯が、扉の隙間から広がった。
「入ったら扉を閉めて」
「……はい」
扉に手をかけ、そっと閉じてから恐る恐る振り返った朱鳥は、驚きの声を飲み込んだ。
――え!?
大きな星のような模様が描かれた床の中央に、ひとりの女性があおむけに倒れている。
「こ、この人は? い、生きているのですか?」
「ああ、今は眠っているだけだ。と言ってもこの姿は実体ではないが」
よくよく見れば、女性の体は透けていて床の模様が見える。
女性は、見たこともない服を身に着けていた。違和感は服装だけでない。成人の女性ならもっと長いはずの髪が胸のあたりで切り揃えられている。
「いったい、この人は?」
唖然とする朱鳥が蒼絃を振り返ると、横たわった女性を見つめたまま彼は驚くべきことを口にした。
「彼女は千年の時を超え、ここにいる」