1
ガラガラと音を立てながら、ゆっくりと牛車が進む。
帰り道の牛車には左大臣からの土産物が山と積まれていたが、蒼絃も朱鳥も宴の余韻を残すことなく、ただ静かに揺れに身を任せている。
「疲れただろう?」
朱鳥は素直に頷いた。
「はい」
舞を演じたこと自体は、それほど疲れを呼んだわけではない。
突き出した釣殿に立った朱鳥からは、宴に集まっている人々の姿はよく見えなかったこともある。
すぐ隣で蒼絃が吹く笛の音に合わせて式神が楽しそうに笑うので、朱鳥も心から楽しんで舞うことができたし、緊張もしなかった。
疲れた理由は他にある。
荘園の君を見つけたまでは良かったが、既に北の方を迎えていたということまで知ってしまった。
喜びと悲しみが一気に襲ってきた現実を、朱鳥は受け止めきれないでいる。
夢だと思いたかった。疲れの全てを舞のせいにして、今は心の疲れに身をまかせたい。
なのに――。
「朱鳥、悲しい時は我慢せずに泣いたほうがいい」
蒼絃が不意にそんなことを言った。
「え?」
心が傷ついていることを気取られないように、兄の顔を見た時から口元に笑みを浮かべていたのに。
――どうしてそんなことを?
「彼は須和親王だ。朱鳥の手に負える方ではない」
――須和の君?
須和親王は第二皇子である。東宮は体が弱いこともあるが、聡明で見目麗しいことから須和の君と呼ばれ圧倒的に人気のある親王だ。
「よくて愛妾のひとりだろう。憎悪の対象になるのは目に見えている」
蒼絃は知っていたのだ。何もかも。
知った上で、ことを進めないように朱鳥を隠していた。
「涙と一緒に想い出は流してしまうといい」
――それでも。
それでも私は荘園の君と一緒にいたいです、兄君。
ずっとずっと、好きだったんですもの。待っていたんだもの。
たとえ、北の方になれなくても、時々しか会えなくても、それでも荘園の君と一緒に生きていけるなら。それだけで幸せなのに――どうして駄目なのですか?
その想いが涙になって瞼から溢れ落ちる。
朱鳥の心の叫びは蒼絃が奏でる笛の音に乗り、静かに響いてゆく。
牛を引く下人も、道行く人々も、その切なく響く音に心を取られ牛車を振り返る。ある者は足を止め、ある者は涙を流す。笛の音は朱鳥の悲しみとともに、霧となって空へと流れていった。
それから両手の指ほどの日が過ぎた頃。
頭中将が北の方を迎えるという話が都を駆け抜け、朱鳥の耳にも伝わった。
「それに比べて我が家は蒼絃といい朱鳥といい、まったく」
何も知らない母はぶつぶつと愚痴を言うが、母や家の者に気づかれないようにと、朱鳥は笑って聞き流している。
時は流れ、春が過ぎ、梅雨が明けて久しぶりに青い空が晴れ渡ったある日、しばらく留守にするとどこかに出かけていた蒼絃が、幼子をふたり抱いて戻ってきた。
「わたしの子だ」
二歳になる女の子と男の子の双子は、自分の子だと蒼絃は言った。
蒼絃の話では母親はふたりを産んだ後、長く患っていたが帰らぬ人となったという。見ればふたりとも蒼絃によく似ていた。
母は喜んでふたりを可愛がった。
「これで我が家も安泰ね」
朱鳥はといえば、穏やかに過ごしているように見せてはいたが、体のほうは嘘がつけず食は進まなかった。
今年の夏は例年にないほど暑い。
「暑くて食欲がないのです」と言い訳をして、兄の蒼絃と一緒に嵐山の別荘に来た。
ふたりの子供は母が離さない。蒼絃と朱鳥、お供は数人の下男と雑任女の他は海未だけの、気楽な旅だった。
「姫さま、さあどうぞ、庖丁が珍しいお菓子を作ってくれましたよ」
「ありがとう」
女房の海未は、兄を除けばこの家で唯一朱鳥の悲しみの理由を知っている。少しでも元気づけようと、甲斐がいしく朱鳥を気遣っていた。
「蒼絃さまが、しばらく山に行ってくるとお出かけになられました」
「いいなぁ、兄君は自由で。私も男に生まれればよかった」
正直な今の気持ちが朱鳥の口をついて出る。
海未は何かを言おうとしたが、上手く言葉にできず困ったように眉を落とした。
蒼絃さまだって悩みがない訳じゃないと思いますよ、と言おうとしたのだ。
でも、海未からみても蒼絃の悩みなど想像できない。生老病死さえ、もしかすると楽しむかもしれないとさえ思えた。
――そんなはずはない。蒼絃さまだって人なのだから。
「姫さま、元気を出しましょう。そうそう、左大臣さまから頂いた布でお着物を作りましょう。姫さまはお裁縫がお好きなんですし」
「あ、そうね。今のうちに兄君の冬の着物の刺繍をしようと思っていたの」
貴族の女性の必須教養と言われる裁縫だが、朱鳥はこの裁縫が好きだった。何の変哲もない布が裁縫によって命を吹き込まれていく様は、感動を湧き起こす。
「北の釣殿のほうは涼しいですから、準備してきますね」
屋敷は小さいが、釣殿と呼ばれる渡り廊下の先の部屋は、遣水を渡る涼しい風が吹き抜けてとても心地よい。
「ありがとう」
海未を見送ったあと、朱鳥もゆっくりと立ち上がった。
――子供の頃はよかったな。もっと自由に外にも出られたし、何をしていても楽しかった。暑ければ着物を濡らして川で水遊びもできたというのに。今はとにかく耐えることばかりで、つまらないし退屈だ。
そう思いながらため息をついた。
それにしてもこの夏は暑い。ため息をついただけでも汗が出る
――そうだわ!
朱鳥は、持ってきた生絹を取り出した。
下は赤袴だが上に羽織るこの生絹という衣は、風通しはとてもいいが透けるので胸も丸見えになる。間違っても人前に出られる姿ではないが、その分とても涼しい。ここは別荘だし、人といっても海未以外に顔を合わせることはないから心配はない。
朱鳥は嬉々として生絹の袖に腕を通した。
薄い青に染めた生絹は清々しい。衣から透かせて見る手の感じや、重なり合って濃淡がでるさまはいつまでも眺めていたいほど美しかった。