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朱鳥の天女の舞は無事、好評のうちに終わった。
何しろ、羽衣をまとった式神が舞姫と一緒に舞うという、かつてない演目を目の当たりにしたのだ。
左大臣は大喜びで、山のような土産を並べて、ふたりを労った。
せっかく来たのだからゆっくりしていってほしいという言葉に甘えて、朱鳥は左大臣の広い寝殿を散策させてもらうことにした。
「一緒にいなくて、大丈夫かい?」
「はい、海未もいますから大丈夫です」
まだ少し左大臣や他の客と話をするという兄とは、『時を告げる寺の鐘が聞こえたらここで』と待ちあわせた。
権力を誇る左大臣の邸はとても広く、東と西それぞれに寝殿がある。どちらの寝殿にももちろん北対、東対、釣殿などがそれぞれにあり、渡り廊下で繋がっている。
宴が催され、客で賑わっている東対から離れて左大臣家の女房に案内されながら、朱鳥はお供の海未と一緒に、東北の対に向かった。
「あちらは、涼しいですよ」
「ありがとうございます」
初めて目にした左大臣家は、几帳も屏風も、それはそれは見事なものばかり。見慣れぬ豪華さに目がくらむ。
東北の対に着くと、お菓子と甘酒を振舞われた。
氷が入った甘酒も、唐から伝わったという初めて食べるお菓子も、驚くほど美味しい。
「素晴らしい舞でございました。もう二度と見ることができないのは、とても残念だと皆が申しております」
式神との天女の舞は、もともと今日の限りの約束になっている。
朱鳥は二度目があっても構わなかったが、兄の蒼絃は一度限りと断言する。兄がそう言うからには必ず意味があるので、朱鳥はそれに従うだけだ。
「ありがとうございます」と微笑んでうやむやに流した。
そのまま世間話をしていると、ふいに女房が「もうすぐ若君さまがご結婚されるものですから」と言う。
「頭中将がですか?」
「ええ、先の帝の姫さまなんですよ。先日伺ったんですが、大変お美しい姫さまでいらっしゃって、若君とはとてもよくお似合いで」
――え?
動揺に喘ぐ胸にそっと手をあてて、朱鳥は気を静めることに集中した。
荘園の君が頭中将だと決まったわけじゃない。そう思いながら。
「そうでしたか、それはおめでとうございます」
それから先はどんな話を聞いても、頭の中をただ通り抜けるだけだった。
しばらくすると、ボーンと寺の鐘が聞こえた。
兄との約束の時間である。
途中、案内の女房と別れ御簾の中を静かに進んでいくと、ふたりの男性の微かな話し声が聞こえてきた。
先を進むに従い、声はどんどん近づいてくる。
ひとりは兄の蒼絃の声。もうひとりの声は若々しい男性の声であることから頭中将かもしれないと思った。
さらに近づくと、こちら側に顔を向けている兄が見える。もうひとりの顔は見えない。
「ありがとうございます」と言っているのは蒼絃。
外に面した簀の子にいるふたりは、御簾の中にいる朱鳥からよく見える。
向こう側からはこちらが陰になり見えないことはわかっているが、とっさに几帳の陰に隠れた。
「ここで待っていてね」
「はい」
朱鳥は海未にここで待つよう耳打ちし、ひとりでその場を離れ彼らに近づいた。
――もう少し近づけば、公達の顔が見える。
「昔、周防国にある荘園に向かう途中、ひとりの姫に会ったことがある」
公達の話し声がはっきりと聞こえた。
「猪に襲われそうになったその姫を助けて少し話をした。今どき珍しいほど生き生きとした姫でね。私はひと目で気に入ったんだが、先を急いでいたし、姫にも迎えが来た」
今公達が話をしているのは、まさに自分のことではないか!?
胸を高鳴らせ、屏風の端からそっと覗くと……。
間違いなかった。
――荘園の君……。
その精悍な目元には、あの日の少年の面影が残っている。何度も夢に現れた荘園の君その人だ。
「それから私はずっとその姫を探していた。すぐに見つかると思っていた。そこは朝廷の土地で貴族の荘園ではなかったからね。でも結局見つからなかった」
「そうでしたか」
――え?
そういえば、家の者が迎えに来たあの時『こんな遠くまで』と驚かれたことを思い出した。荘園からは随分離れていると、両親にとても叱られたことを。
――あれは、うちの荘園ではなかった?
「結局、あの姫のことはあきらめ、ここ左大臣家の姫を迎えることになったが、それはそれで良かったのかもしれないと思っている。あの野の花のような純真な姫を、醜い権力闘争に巻き込んでは可哀そうだ」
呆然とするうち、声は聞こえなくなっていた。
『可哀そうだ……』
混乱の中その声だけが、いつまでも朱鳥の頭の中をぐるぐると渦を巻く。
そして、絶望させた。




