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「あの、洸さんは私が過去から来たことは」
「私からは何も」
左右に首を振るアラキに「――そうですか」と、答えた飛香はそのまま俯く。
飛香の心配事がその点であるとすれば、少なくとも彼女は前向きに受け止めたということになるのだろうか?
そう思いながら、アラキはゆっくりと語りかけた。
「隠す必要はありませんよ。彼はその事実を知ったからと言って、動揺するような人ではありません」
「でも、洸さんはその、なんていうか、現実的な考えの人ですから……」
口ごもる飛香を優しく見つめ、アラキはフッと薄い笑みを口元に浮かべた。
「だから、飛香さんの話なんて信じるわけがないと?」
飛香は伏し目がちに頷く。
「仮に信じてくれたとしても、無理ですから……私なんて」
それから先は、どう答えていいのかわからなかった。自信がない。西園寺家の御曹司と結婚するということがどういうことなのか、その先どんな試練が待ち受けているのか、飛香には想像もできなかった。想像できなければ立ち向かう覚悟もできない。あまりにも途方もない話なのである。
「飛香さんから見ると、彼はどんな人に見えますか?」
アラキにそう聞かれた飛香は、キュッと唇を噛んで天井を見上げた。
多くを知っているわけじゃない。会社でどんな風に仕事をしているかも知らないし、どんな風に成長したのかもわからない。
自分が知っているのは、西園寺家にいる時の今の彼だけだ。
「そうだすね……。洸さんは、太陽のような人だと思います。洸さんがいるだけで、そこは明るく照らされる。そんな人」
「いいところだけしか見えないですか?」
「え? でも洸さんの悪いところなんてどこにもないですよね? ないのが悪いところなのかもしれませんけど」
アラキはフッと微笑んだ。
「これから私の秘密と彼の子供の頃の話をします。私と西園寺家の方達だけが知る秘密ですので、どうぞご内分に」
――秘密?
いきなりそう聞かされた飛香は、緊張して両手を握りしめた。
「私は現在の国籍は日本ですが、ブラジルのサンパウロで生まれそこで育ちました。血で言えば日本人ですが、両親とも祖父の代から向こうに移り住んだ日系ブラジル人です。当時貧しかったこともあって、ろくに病院にも行けなかったのでしょう。父方も母方も祖父母は早くに亡くなり、私は一人っ子で両親と三人で暮らしていました。その両親も私が高校生の時、マフィアの抗争に巻き込まれて亡くなり、私は天涯孤独になったのです。私がいた街では、そんなことは割とよくある話でした」
アラキの打ち明け話はそんな風にはじまった。
「ひとりになった私は高校を卒業すると同時に、野菜の市場のようなところで働いていました。その野菜の配達先が西園寺家だったのです。ある時、ご両親がお出掛けになり洸さまだけがお屋敷に残っていた時のことです。なんとなくいつもと違う空気を感じた私は、隠れるようにして屋敷に入りました。すると丁度、彼は今まさに誘拐されようとしているところだったんです。詳しい事は長くなるので省きますが、私は彼を連れて逃げました。必死でね」
「警備員はどうしたんですか?」
堪らず飛香が口を挟んだ。
「犯人は現地の警備員の責任者だったんですよ。その日の警備員は全員その男が手配した偽者だったんです」
「なんてこと。それじゃ何も信じられない」
それについてアラキは頷くことで答えた。
「どうやって逃げたんですか?」
「実は私は両親の仇を討って人生を終えようと思っていたのです。ですからいつでもそれが実行できるように様々な凶器を隠し持っておりましてね。そこでまぁちょっと逮捕されても当然なくらいのことをしたのですが、それがまぁ私の秘密です。で、彼には配達用の野菜の中に隠れてもらいました。別の配達先に西園寺家と交流のある日本人のファミリーがいましたので、野菜と一緒に彼を届けて一件落着です。それをきっかけに私は西園寺家に拾ってもらいましてね。来日して大学にも通わせて頂き、こうして執事なんぞをしているわけです」
アラキの左腕には、深い傷跡がある。昨日たまたま掃除の手順を教えてもらった時、まくった袖からチラリと見えた。もしかするとその傷はその時のものなのかもしれないし、他にも同じような傷があるのかもしれない。
今、目の前でなんでもないことのように話す彼からは想像できないが、話の中で省かれた部分はどれほど壮絶だったのだろう。
それでも明るいアラキの笑顔に、そのまま明るく答えなければいけないと思った飛香は「アラキさんすごい!」と言いながらパチパチと両手を叩いた。
「ありがとうございます」とアラキもクスクスと笑う。
「洸さんはその時、一滴の涙も流しませんでした」
「え? 9歳の子供なのに?」
「ええ、口に貼られたガムテープを剥がした時、『僕は死ぬのか。まだ何もしていないのに残念だ』と憮然としていましたよ。ムッとしてそう言ってました」
それには飛香も思わず笑った。
「洸さんらしい」
「助かったとわかると『助けてくれて、ありがとう』ってニッコリ笑いましてね。今でもよく覚えています。その頃から彼は全く変わっていません。まっすぐな瞳で、逃げ隠れすることなく何事にもきちんと向き合う。そんな男です」
洸の部屋に向かいながら飛香は思った。
――自分の気持ちはわかっている。
メイド服を着た初日。お昼に帰って来た彼を見た瞬間、喉の奥が苦しくなるほどうれしさが込み上げた。
会う機会がないからという理由で西園寺家に来たというのは、自分についた嘘。
ほんの少しの可能性でも、会えるかもしれないからここに来た。仮に会えなくても、洸がいる家でその温もりを感じることができるなら、それでもよかったのだ。
初恋の荘園の君を思い続けたあの頃とは違う。想い出の中だけじゃない。
――今、この瞬間の彼のことが好き。
だけど、この気持ちのまま洸さんの胸に飛び込むことはできない。彼は私の秘密をまだ知らないし、平安の都に帰るかどうかまだわからないのだから。
どうしたらいいのかわからないという自分の気持ちを重く受け止めながら、トボトボと洸の部屋に戻る。
「失礼します」
カチャっと扉を閉じると、「じゃあ早速説明しよう」と新聞をテーブルに置いて洸が立ち上がった。
「はい。お願いします」
あんなことを言われた後だ。突然その続きが始まらないとも限らない。そんなことを思い変に身構えていた飛香の気持ちは肩透かしに終わった。
ひと通り説明すると「じゃ、よろしく。ちょっと出かけてくるね」そう言って洸は上着を片手に部屋を出た。
「はい。いってらっしゃいませ」




