12
夏の日の出は早く寝覚めも早い。心躍らせることが待っているならば猶更だ。
洸の部屋は二階の東南の角にある。
目を覚ますと、真っ直ぐに東の窓に向かいカーテンを開けた。
窓辺に立てば東にある西園寺家の門が見えるし、門から続くアプローチを歩く飛香も見えるはず。日傘をさして歩いてくるのか、帽子を被ってくるのだろうか。服は?バッグは?勝手な想像をして少しの間楽しんだ。
だが、今はまだ六時。このまま飛香を待つにはまだ早すぎる。
とりあえずシャワーを浴びて、持ち帰った仕事を始めた。
「おはようございます」
アラキがバターコーヒーを持って入ってくる。
「おはよう」
あきらかに仕事をしているらしい洸を見て、アラキは微かに苦笑した。
せっかく休んだというのに、朝から資料を広げてパソコンに向かっている。休んだからにはのっぴきならない仕事があるわけではないだろうに、この状況は若い独身男性としていかがなものか?アラキは内心、首を傾げる。
だが本人はそれについて何の疑問もないのだろう。黙々と画面と資料を見比べている。
不意に思い出す彼の少年時代。
当時十九歳のアラキはブラジルのサンパウロのしがない八百屋で働いていた。
仕事の関係でしばらくサンパウロに滞在していた西園寺家は上客で、野菜を届けに行くのがアラキの仕事だったのである。
両親が日本人なので日本語が話せることもあったし、陽気なアラキに洸が懐いた。
アラキは一人っ子だった。更に言えばその三年前、マフィアの抗争事件に巻き込まれて両親は亡くなり天涯孤独の身の上だったのである。そんなアラキにとって洸は弟のような存在であり、西園寺家での洸との会話は楽しいひと時だった。
洸はいつも何かしらの勉強していた。教師がいることもあるが大概はひとりである。
『友達と遊べなくて、つまらなくないのか?』
そう聞くと、当時九歳の洸は大真面目に答えた。
『僕には、西園寺グループの社員たちの幸せを守るシメイがあるんだ』
『へえー、大変だな。でもそんな人生でいいのか?例えば明日死んだらどうする?もっとこうすればよかったとか思ったりするかもしれないぞ』
『ホンモウだよ』
「ホンモウ? なんだそりゃ」
血は日本人とはいえポルトガル語やスペイン語に馴染んだアラキには、知らない日本語だった。
親が残した薄い辞書をひいて知った『本望』という言葉。アラキは辞書を閉じてゴロリとソファーに横になり、フッと口元を歪めた。
9歳の少年がどこまで言葉の意味を理解していたのかはわからないが、それでも彼は少年らしい純粋さで、『彼らの幸せを思いながら死ねるのは本来の願いだ』と本気で思っていたのだろう。
人は彼のことを、道を外すことなく純粋培養されてすくすくと育った真面目な御曹司と言うが、そうではない。
彼には道を外れる暇などなかったのだ。
誰よりも勉強し、体を鍛え、センスを磨き、人を見る目を養う。全ては勝つためであり、人々の幸せな暮らしを守るためだった。
近くで見てきたのだから、痛いほどわかる。
大人になった今でもその気持ちのままでいるのか、あらためて聞いたことはない。だが恐らく今同じ質問をしたら、彼は同じように答えるだろう。『本望だよ』と。
「精が出ますね。飛香さんに頼みたい用事があれば優先させますが何かありますか? ちなみに彼女は簡単な入力はもちろんですが、表計算のちょっとした関数なら普通に使いこなせます」
「そうなの?」
「ええ」
記憶と一緒に普段生活で使うことがない多くを忘れているだろうと思っている洸は意外そうに聞き返すが、飛香の実情を知っているアラキにもそれは意外だった。
平安時代にコンピュータや関数はない。飛香が平安の都から来たいう言葉を信じれば、当然何も出来ないはず。
だからその疑問をそのまま飛香に投げかけた。
『勉強したのですか?』と。
『最初は何一つわかりませんでした。でも一度やってみると、それからは出来るんです。兄に聞いてみたんですが、多分脳が覚えているからだろうと言っていました』
飛香が自分の元で働くように仕向けたのは洸のためもあるが、理由は他にもある。
可能な限り彼女の謎を知るためだ。何しろ藤原飛香は、とてつもない秘密を抱えている女性なのだから。
「そっか、じゃあ色々頼もうかな。とりあえずここに来るように言って」
「はい。わかりました。朝食はここにお持ちしますか?」
うんと頷くのを見届けて、アラキは部屋を後にした。
途中朝食を済ませ、洸が仕事の手を止めた時には、書斎のデスクに向かってから二時間以上が経過していた。
時計が示す時刻は8時40分。
ゆっくりと立ち上がった洸は窓辺に立った。
警備員の高藤と飛鳥が話をしている姿が見える。我ながらたいしたものだと思う。洸の耳は、門のある方角からする話し声を聞き逃さなかった。
警備員の高藤に向かって頭を下げると、飛香は正面の玄関へと続くアプローチから逸れて邸の北にある通用口へと向う。
飛香の歩みが部屋の下に指しかかった時、洸は窓を開けた。




