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春の花が咲き乱れる中迎えた、左大臣家の宴の日。
朱鳥は兄の蒼絃とふたり、牛車に乗る。ゆっくりと進む牛車の中は畳だけでなく、ふかふかの茵(しとね・座布団)が敷いてあるので乗り心地はそう悪くはない。
滅多に外に出る機会がない朱鳥にとって牛車での外出は、大層楽しみな出来事だ。いつもなら物見窓からこっそり外を覗いては、あれは何?あの人は何をしているの?と兄を質問攻めにするのだが、今日は違う。
おとなしく座ったまま、硬い表情で瞼を落としていた。
「無理をしなくていいんだよ? 気が重ければ物忌みだとか言って引き返せばいいんだから」
少し心配そうに蒼絃が声を掛けた。
「え? 物忌み?」
物忌みとは、不浄を避けて一定期間心身を清めることをいう。
急に体調が悪くなってしまったとか、家を出たものの動物の死骸に出くわした等々、そういった良くないことは全て『物の怪』による仕業とされたので、それを避けるために『物忌み』をする。
でも今は、何も起きていない。要するに嘘である。兄の蒼絃は陰陽師のくせに、この『物忌み』をさぼる口実に使うことが多かった。
朱鳥が弾かれたように笑う。
「兄君ったらまたそんな。私は大丈夫です。ちょっと緊張しちゃってるだけですから」
「間違ったりしても式神が上手くやってくれるから心配いらないよ」
朱鳥はにっこりと頷いて、ホッとしたように息を吐いた。
「あの、兄君?」
「ん?」
「……えっと、あの」
朱鳥にはずっと気になっていたことがある。
「皆さまがご覧になる場所は、離れているのですよね?」
「ああ、朱鳥が笑顔なのか泣き顔なのかもわからない程度に離れているよ」
本当に聞きたいことは、また聞けない。
「そうですか、よかった」と言って、朱鳥はにっこりと微笑んだ。
本当に聞きたいこと。
――今から向かう藤原家の御曹司、頭中将はどんな方なのですか?
噂では都で一番の出世頭であり、加えて目の覚めるような美男子だという。
評判の美男子といえば兄の蒼絃もそうだ。風変わりではあるが謎めいた神秘的な美しさであり、蒼絃は月に喩えられる。
それに対して頭中将は明るく力強く人を照らす、太陽のようだと人は言う。
昔、朱鳥が出会った『荘園の君』もまたそんなふうに力強い光をもった素敵な人だった。
あの日。荘園の一角に大きな桜の木があった。
その時期にしては遅咲きのその桜は満開を少し過ぎた頃で、風が吹くたびにあたりは花吹雪に包まれた。舞い散る花びらと一緒にくるくると回って遊んでいると、そこに現れた小さな猪。
『一緒に踊る?』
つぶらな瞳が可愛くて思わず近づこうとすると、突然大きな猪が姿を現した。
獰猛に光る眼。恐れおののき、驚きのあまり逃げることもできず立ち尽くしていた朱鳥の前に、ヒヒーンという鳴き声と共に一頭の馬が飛び出してきた。
馬上の公達が弓をつがえ猪に向け矢を放つ。
何本か続けざまに打った後、馬を下りた彼は、『大丈夫か?』と朱鳥の前に屈んだ。
『猪は死んでしまったのですか?』
『いいや、脅かしただけだから、死んではいないよ。今は子育ての時期だから、猪の母親は気が立っている。気をつけて』
ホッとすると同時に今更のように涙が溢れてきた朱鳥を優しく慰めてくれた彼。家の者が探しに来るまで、束の間ではあったが、ふたりで話をした。
『桜の花びらが、沢山付いている』
公達はそう言って、髪についた花びらを取ってくれた。
『ありがとうございます。桜の花と一緒に舞を舞っていたんですよ』
『ああ、そうだったね。見惚れたのは私だけじゃなく猪の子も一緒だったんだね』
『え、見ていたのですか』
『とても綺麗だった。天女のようだったよ』
『まぁ』
朱鳥を呼ぶ声が聞こえると、思い出したように『先を急いでいるから行くね』と公達は立ち上がった。
別れ際、馬に乗ってまさに走り出そうとする背中に『お名前を』と聞いた時、彼は振り返って何か言ったが、その声は『朱鳥さまー』という声と重なり聞こえなかった。
だから荘園の君の本当の名前はわからない。
その後すぐ父に事情を話して、助けてくれた人を探してもらったが、結局何の手がかりも掴めなかった。
当時の朱鳥はまだ裳着(もぎ、女子の成人式)も済ませていないほんの子供だった。
公達はその身なりから元服を済ませた成人には違いなかったが、目元にはまだ少年の面影が残っていた。もしかすると朱鳥の七歳上の兄と同じくらいの年齢かもしれないと思った。
その日、他に抜けられない用事があって荘園行きに同行しなかった蒼絃は、何か予感がしていたらしく、ぎりぎりまで朱鳥の荘園行きを反対していたのだが、後から事件を聞いて『無理にでも止めるべきだった』と自分を責めた。
その日以降、あの日の話を少しでもしようとすると、蒼絃はとても辛い顔をする。あれから十年あまりが経つが、以来その時のことは禁句になっている。
時々思い出しては、宮中に出入りしている顔の広い兄に頼めば何かわかるかもしれないと思ったりもしたが、兄の苦痛な表情を思い出すと朱鳥は何も言い出せない。
――恐らく兄君は、想像すらしていないだろう。その時の公達への淡い恋を、私がいまだに胸の中で温めていることを。
そんなことを思いながら、朱鳥は目の前に座る兄を見た。
考え事をしているのか寝ているのか、蒼絃は瞼を閉じている。
長い睫毛が隠している切れ長の知的な瞳は、人の心を容易に掴んで離さない。
すっと線で描いたような高い鼻筋を辿ると、輪郭のはっきりした唇がより一層知的さを匂わせている。
妹から見ても、本当に見目麗しい兄だ。
だがこの美しい兄は、男女の愛とか恋というものには遠い存在である。
人としての生業というか本能とかいうものを超越したところで息をしているようなところがあって、どこかの姫のもとに通っているとか、正妻を娶るような話がでたこともないし、浮いた話を聞いたことがない。
朱鳥と並んで、母にはそんな息子も悩みの種だった。
『朱鳥はいつまでも子供のままだし、蒼絃はあんな風だし。一体この家はどうなってしまうのでしょう』
以前朱鳥は聞いたことがある。『兄君はご結婚とかしないのですか?』と。
兄はこう答えた。
『さあ、どうだろう。私にもわからない。ただ、子は成す。――らしい』
"らしい"とは、どういうことなのか。
なぞなぞのような返事を聞いたところで、朱鳥にはさっぱりわからない。どう答えたらいいのかわからず、『そうですか』としか返せなかった。
――いっそ兄くらい突き抜けていれば、無駄に迷うこともなく生きていけるだろうに。
そんな兄とは違って自分はといえば、口では結婚なんかしなくてもいいと言いながら、それでもどこか不安で、言い知れぬ寂しさが心の奥で疼いている。
その寂しさから逃れる術は見つからず、なにもかも中途半端な自分であることが辛く悲しい。
――もっと強くなれればいいんだけど……。
そう思いながら朱鳥は瞼を伏せた。
そんな妹の沈む心を知ってか知らずか、薄っすらと瞼を上げた蒼絃はうつむく妹を見つめ、そっと横笛を手に取った。
絹のように繊細でなめらかな笛の音が響く。
誘われるように蒼絃の袖から顔を出した式神が、くすくすと笑いながら明るい光を放ち、朱鳥を囲み包んでいった。