10
その日も洸は明るいうちに帰った。
「お帰りなさいませ」
出迎えるのはメイド服の飛香ではなく、白シャツに黒いギャルソンエプロンを腰に巻いたアラキ。
わかってはいたはずだが、心が沈む。
「ただいま」
スッと手を伸ばし、鞄をアラキに預けた洸は人差し指でネクタイを緩める。
夕暮れは心寂しくなるというが、屋敷全体が火が消えたように暗く沈んで見えた。
「なんですかその物凄いガッカリっぷりは。さすがの私も傷つきますよ」
そう言いながらもアラキは、どこか楽しそうだ。
「気のせいだよ、気のせい」
「まぁ別に構いませんが、食欲はおありですか?」
「うん、まぁ普通に」
「それはよかった」
部屋に入ると、テーブルの上にメモがあった。
『お仕事、お疲れさまでした。 飛香』
最近はあまり見かけない縦書きの文字。
シンプル過ぎるところまで飛香らしいと思いながら、そのまま一度ソファーに腰を下ろして読んだ。
――飛香。
メモをテーブルに戻し、額に手をあてる。
可愛らしいメイド服が呆れるくらい似合っていた飛香。満面の笑みで出迎えてくれた彼女を抱き上げて、そのまま寝室まで連れていきたかった。
その衝動を自分でもよく堪えたと思う。
深い溜め息が溢れる。
――こんな時、人はどうやって気持ちを静めるのだろう。
集中して仕事に向かっている時はまだいい。
問題は、こうして一人になった時だ。
冗談みたいに襲ってくる寂しさと、孤独。ふいに、いるはずのない飛香を探してしまいそうになる。
今だって、もしかしたら『住み込みになってもいいですか?』なんて言いながらひょっこり顔を出すんじゃないかと、期待している自分がどこかにいるのだ。
タイミング良くコンコンと扉が叩かれ、ハッとして顔を上げた。
「失礼します」と顔を出したのは、飛香のはずはなくアラキだ。
「飛香さんの電話番号です。SMSなら何時でも、頼みたいことがあれば何なりとおっしゃってくださいとのことでした」
受け取ったメモを見て、今更のように気づいた。自分は彼女の電話番号さえ知らずにいたのかと。
手を伸ばせばすぐそこにいるような気がしていたのに、実は遠い存在のようにも思えてくる。
「飛香さんに、お見合いの話をされたのですね」
「え?」
「『洸さんはお見合いするんですよね?』と、聞かれました」
「それで?」
「具体的な話はないと言っておきました。お見合いをした話していないのですよね?」
「話してないよ」
「そうですか。飛香さんは、若がそういう結婚をするものだと思っているようでした」
「どういうこと?」
首をかしげたアラキは、「『洸さんの結婚相手は、皇族の姫さまとか大企業のお嬢さまとか、そういう方とじゃないといけないです』って真剣な顔で言っていましたから」
途中、飛香の口真似をしてみせた。
「何それ」
「さぁ」
アラキは肩をすくめて「お食事は一時間後くらいでよろしいですか?」と確認し部屋を出て行った。
ひとりになった洸は、電話番号のメモを手にしたまま唇を噛んだ。
それにしても、迂闊だったとため息をつく。
仮装パーティの後だ。
そろそろ結婚しようと思っているとか何とか話をした記憶があるし、しまいには『今度お見合いをしようと思ってね』そんなことまで言ったかもしれないと思い出す。
――飛香は僕のことを一体どう思っているのだろう?
もしかすると、見合いをしながら飛香を誘う軽い男だと思っているのか?
『残念!』とはぐらかされたのは、見合いの話があったからなのか?
当時の自分を呪いながら頭を抱えた洸は、今日の飛香との会話を思い返した。
『働きたいなんて、どんな心境の変化なの?』
『自立した大人の女性になりたいんです』
『自立?』
『いずれは一人暮らしもしたいし、ひとりで生きていけるようにならなくちゃ』
――飛香はそのままでいいのに。
そう思っても口には出さなかった。というよりも言い出せなかったと言うべきか。健気な気持ちに水を差せるはずもない。
『碧斗の手伝いとかあるんじゃなかったの?』
『お兄さまは家元になる準備が忙しいし、秘書さんがついていますから』
『そっか、それならいっそ住み込みでここにおいでよ』
『それじゃあ、お兄さまが可哀想です。今は私が家事を引き受けているんですもの』
――妹をなんだと思っているんだあいつは。
考えているうちにムクムクと怒りが湧き上がってきた。
家元らしくメイドのひとりも雇ったらどうだ!
そう言ってやりたいところだが、飛香の手前そういう訳にもいかない。
目を閉じて腕を組み、組んだ足をゆらゆらさせていた洸は、突然閃いたようにスマートホンを手に取った。
ルルルと呼び出し音の後に『はい』と出た声の主は親友のひとり氷室仁。
「仁、仕事の話なんだけど、仁のところに英語しか話せないメイドとかいたよね?」
『あぁ、いるよ』
「ついでに護身術もできる人とかいる?」
『突然客に襲われても大丈夫なように、うちの従業員には護身術は教え込んでいるけど。そうだなぁ、たとえばどこだ?雇い先は』
「藤原碧斗。あいつ親父さんが別荘で静養中で、妹とふたりで暮らし始めたんだ。今度家元になるらしくてね」
『ふーん』
「で、その妹に英語を教えつつ、護身術も教えつつ、家事をやってもらうメイドがほしいわけ」
『あぁーあの平安オタクの美人な妹か、ちょうどいい子がいるよ。歳も同じくらいで引っ込み思案の大人しい子が。コスプレが趣味なオタクだから話も合うんじゃね』
「平安オタクってなに、仁、飛香のこと知ってるの?」
『パーティで会ったじゃないか。碧斗と一緒に出て舞を演じたあの子だろ? あの時そんな話してたよな。それにお前と一緒に来てたじゃないか、青扇のコスプレパーティ』
「ああ、そうだそうだった。実は飛香が今日からうちで働いているんだよ。行儀見習いついでにアラキの手伝いで」
『へぇー』
「ま、そんなわけだからその時はよろしく。じゃまた」
『ん? あ、ああ。じゃあな』
ピッと電話を切ると、今度は碧斗にかけた。
『はい』
「あ、碧斗、飛香はどう?疲れたとか言ってる?」
『ああ、洸。大丈夫だ。色々ありがとう、飛香は喜んでいるよ。アラキさんにも礼を言っておいて』
「碧斗さ、仁のことろからメイド雇ったら?」
『え? メイド?』
「英語しか話せなくて、護身術もできるメイドがいるらしいよ。飛香の勉強にもなると思う」
『へえ』
「考えてみたら?」
『うん。そうだな、仁に聞いてみるか。あ、ちょっと待って飛香に代わる』
「もしもし」
『洸さん、こんばんは。今日はありがとうございました』
「こんばんは。お勤めご苦労さま、疲れてない? 大丈夫?」
『もちろん大丈夫ですよ。楽しくて、明日からも楽しみです』
「そっか、よかった。ゆっくり休んでね」
電話を切り、 背もたれに体を預けた洸はホッと一息ついた。
胸のモヤモヤは消え、心の平穏が戻ったところでまたスマートホンを手に取った。
新たに連絡先を登録するのは、アラキから渡された飛香の電話番号。
早速メッセージを送ってみる。
『アドレスに登録したよ。明日はお昼には帰れないから会えないと思うけど、がんばって。おやすみ、飛香。 西園寺洸』
メッセージの返事はすぐに返ってきた。
『登録ありがとうございます。がんばります。おやすみなさい。 飛香』
予想を限りなく下回るシンプルな返事である。
――短い。短すぎる。
もう一言あってもいいだろう?
たとえば。会えなくて寂しいです、とか、洸さんもがんばってくださいね、とか、たとえば……。
ふと頭に浮かんだ文字に我ながら呆れた洸は、左右に頭を振って溜息をつくとソファーから立ち上がった。
――馬鹿げてる。
時間を惜しむようにスーツを脱ぎ捨て、バスルームに向かうと頭から勢いよくシャワーを浴びた。
ありえない妄想を水に流そうと水量を強くしてみたが、強い水音の中で返事までもが思いつく。
『好きです、洸さん。夢の中で逢いましょうね』
『好きだよ、飛香。君を抱いて眠りたい。この腕に抱いたまま――』
――どうかしている。
でも、どうしようもない。
打ちつけるシャワーの雨は、胸に籠った熱を冷ましてはくれなかった。




