6
「常務、いかがです? まだやっていかれますか?」
時計を見れば七時を回っている。それほど遅い時間とはいえないが、帰れる時は一分でも早く帰る習慣が少しは板についてきたのかもしれない。洸は、パソコンを打つ手を止めた。
「帰ろうかな。どう? 君も一緒に。久しぶりに泊まったら?」
言われなくても自分から言うつもりだった鈴木は、大きく頷く。
「はい。ありがとうございます」
早速仕事を片付けて、すれ違う社員たちと挨拶を交わしながら廊下を進む。だがいつにも増して西園寺常務を見上げる女子社員の頬が赤らんで見えるのは、気のせいか。
「常務、なにやら楽しそうですね。なにかありましたか?」
「ん? 別になにもないよ」
――いやいや嘘だ。
少し後ろから歩いているので顔は見えないが、お疲れさまと言う声がより一層優し気である。
車に乗ってからも、ここ最近は力なくぼんやりと外を見ているか目をつぶっていることが多かった。
だが今は違う。
「鼻歌を歌いましたよね?」
「え? そうだった?」
――ではその足はなんですか?
車内に流れているクラシックは軽快な曲とは言えないのに、組んだ足の先を曲に合わせてゆらゆらと揺らしているではないですか。
見てはいけないものでも見てしまったように、鈴木はまっすぐ前を向いて眉をひそめた。
これはもう……。
原因は藤原飛香としか考えらない。
鈴木が予想した通り、西園寺家に到着するなり洸は出迎えたアラキに「どうなった?飛香は」と聞く。
「決まりましたよ。うちで働いて頂くことになりました。使用人のようなことをして本当によいのか、申し訳ないですが」
「碧斗が了解したんでしょ?」
「ええ、あれから早速碧斗さんに連絡を取りましたら、わざわざ来てくださいましてね。ギャラリーの受付とか私からいくつか提案をさせて頂いたのですが、色々話をして結局ここがいいだろうということになりました」
驚いた鈴木が話に割り込んだ。
「飛香さんは、こちらで働くんですか?」
「ええ、メイドのような仕事だけでなく、私からお願いしたい伝票の入力とか細々とした仕事もして頂こうかと」
「うちなら安心だ」と満足そうな笑みを浮かべ、洸は自分の部屋に行く。
「鈴木さんもどうぞ、いつものゲストルームに」
「すみません」
いくつかあるゲストルームのうち、鈴木がここに泊まるときはいつも同じ部屋だった。
いっときは、ここに住んだらいいのにと洸に詰め寄られたほどなので、鈴木専用の着替えは常備してある。
アラキとふたりになった隙に、すかさず鈴木は聞いた。
「彼は飛香さんを好きなんですか? あきらかに様子が変なんですが」
「ええ、確かに変ですね」と、アラキは、クツクツと楽しそうに笑う。
「この家から飛香さんがいなくなってからというもの、生ける屍のようでしたから」
「そうなんです。普段はさすがに表には出しませんが、常務の執務室に入った途端、あきらかに肩が下がるんです。あんな彼を見たのは多分初めてですよ」
普段から冷静な鈴木にしては、珍しく興奮気味だった。
彼が恋をしたとして、なぜ屍になってしまうのか? それが理解できない。
自分にも経験があるが、あの時は訳もわからず一方的に恋人に逃げられたからという、それなりの理由がある。
「まさか、まだ始まってもいないのに振られるわけもないでしょうし。いや、彼が振られるとは思えないが」
そこまで言ったところで、もしや、と思いついた。
「彼は……その、自分の気持ちを認められないとか?」
アラキはそれには答えず、今度は確信がある微笑みを浮かべた。
「いずれにしろ、今回、彼女がここに来ることで色々はっきりするでしょう」
「そうか、そうですね」
「うちの若がどう思おうと、恋はひとりじゃできませんからね」
そう言われて鈴木は、ハッとした。
洸が失恋する未来など、あるのだろうか?
そんな恐ろしい未来が。




