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洸が邸に帰ったのは、午後四時だった。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
出迎えたアラキは、そのまま洸の部屋まで付いていく。
何しろ今回のことは夫人はもちろん、サワも含めてアラキと洸以外誰も知らない。洸の部屋以外では話は出来なかった。
「どうでした?」
「うん」
「続けてお会いしてみますか?」
「――そうだね。夕食でも一緒に」
「わかりました」
余計なことは、アラキは聞かない。
それだけ言うと、洸の部屋を出た。
洸が帰ってくる前に、綾乃から電話をもらっている。
『気づかれなかったと思います。洸さんはずっと紳士でしたよ。好意は感じましたが、残念ながら、それ以上の気持ちを引き出すことができたとは思えません』
アラキが部屋を出ると、洸はそのままバスルームに向かいシャワー浴びて、身を投げ出すようにソファーに沈み込んだ。
多分、自分が思い描いた妻となるべく女性は、綾乃のような女性なのだろう。頭のいい女性だった。会話はウェットに富み品もよく美人で、一緒にいて疲れない優しさをもっている女性だと思った。
――断る理由がない。
一緒にいてもつまらない、ということ以外には……。
そのまま暫くぼんやりとしていると、微かに琴の音が聞こえてきた。
――飛香か。
着替えて和室に向かい、和室に続く客間に入るとそこには母もサワもいなかった。
ひとり、飛香が琴を奏でている。
気づかれないよう静かに椅子に腰を下ろし、飛香を見つめた。
いつになく明るい曲である。
弾いている飛香も楽しいのだろう。口元には笑みが浮かんでいる。
ふいに飛香が顔を上げ、手を止めた。
「洸さん」
「そのまま続けてて良かったのに」
「洸さんにお会いするのは、なんだか、すごく久しぶりな感じです」
「そうだね。まるで何ヶ月も会っていなかったみたいだ」
クスクスと飛香が笑う。
「またお琴弾かせてもらっちゃいました。お邸だととても音の響きがよくて、弾いていて気持ちがいいです。私の家とは大違い」
「これからこっちにいるの? 那須じゃなくて?」
「はい。多分」
「ふーん」
何かが心の中でムクムクと鎌首をもたげた。
「だったら、ずっとここにいたらいいのに」
「え?」
「たとえば、僕のお嫁さんになるっていうのはどう?」
一瞬間をおいてアハハと飛香が笑う。
「洸さんたら、またそんな冗談言って。それに私を迎えに来てくれる貴公子は、5歳上までと決まっているんです。残念!」
――へ?
ザンネン? 今、『残念』って言ったのか?
「それはなにか? 僕はオヤジだと?」
「そんなことは言っていませんよ」
「言った」
「言ってないですって」
「こうしてやる」
洸は、おもむろに飛香の両方の頬をギュウと引っ張った。
「ヒャア、や、め」
「ちょっと! 何してるの洸?! やめなさい!」
トレイを手にした夫人が驚いて、あやうくトレイを落としそうになり、ポットを手にしたサワが、「おっとっと」そのトレイを支える。
そりゃもう大騒ぎとはこのことだ。
「まったく、いい歳して何をやっているのあなたは」
「私は全然大丈夫ですよ」
ほんのり頬を赤くした飛香が、ニコニコと紅茶を口にする。
「軽く引っ張っただけじゃないか」
洸は、ツンと澄ましたままカップを手にとった。
「まぁまぁ、仲がよろしくて何よりでございます」
サワがその場を取り持つように、はいどうぞとケーキを配る。
「まぁ美味しそう」
「綺麗なケーキです!」
「洸さまは? あ、いらない? そうですか。はい。では私が代わりにいただきますね」
洸は口元だけニッコリとさせて「どうぞ」と目で睨んだ。
その日の夜、頭痛がするといって早めに休んだ洸は、そのまま熱を出した。
シャワーを浴びたあと、エアコンが効いた部屋でしばらく裸のままぼんやりしていたのかもしれない。だが、それにしても洸が熱をだすのは、何年ぶりの事か。
夫人も慌てて主治医をすぐに呼んだが、おそらく風邪だろうということだった。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
アラキがタオルを変えながら、心配そうに顔を覗く。
「お見合いなんて、慣れないことをしたからかな」
「洸さま、今回の話は断りましょう」
「ごめん」
「いいんですよ。とにかくゆっくりお休みください」
見上げる天井に、『残念』と笑う飛香が浮かぶ。
――まるで僕が振られたみたいじゃないか。
あれは冗談で言ったことで、飛香も冗談で流しだけだというのに。
飛香は23歳。
24、26……数えながら手を出して指を折る。
29は、1歳オーバーするだけだ。
ありえない。
あんな小娘に、軽くあしらわれるなんて。
ため息のまま、洸は眠りについた。




