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アイラブ☆吾が君  作者: 白亜凛
平安☆仄見える千年の時
3/57

「姫! 待ちなさい! 扇はどうしたの。扇を持ちなさい!」


 北の方には、立ち上がる体力がない。脇息を抱えるようにして体を支えた北の方は、また深々とため息をついた。

 朱鳥が嫌がるのも無理はない。

 北の方も槙大納言の悪評を知らないわけではないし、母として本当は、可愛い娘をあんな男の嫁にはしたくないとも思っている。

 朱鳥は確かに変わっているところはあるが、琴の音は心を打つと評判であるし、髪は艶やかで長く、子供っぽくはあるが器量もいい。身内の贔屓目もあるだろうが、なによりあの無邪気な笑顔をみれば、どんな殿上人でも恋に落ちるはずなのだと。

 実際いままで、朱鳥の琴の音を聞いたとか、評判を聞いたと言って妻にしたいという話は、いくらでも聞こえてきた。そんな訳なのだから正妻とはいかなくても、本来ならとっくに通いの婿がいてもいいはずだった。

 なのになぜか、我が家には男が忍んで来ない。来ないものはどうにもしようがない。

 耳に入ってきたのは、この家は陰陽師家だからいざとなると怖いという話だが、そんな理由はかつて聞いたことがない。もしや蒼絃あおとがなにか?とは思ったりもするが、妹想いの兄が妹の幸せを奪うとは考えられず、原因はわからないままだ。このままでは行き遅れて、本当に嫁の貰い手がなくなってしまう。


「大納言さまは年寄りだからいいのよ。どうせ早く死んでしまうでしょうし、お屋敷のひとつもいただければそれだけでもいいんだから」

 そんな身も蓋もないことを言った北の方は、「朱鳥に扇を渡してきておくれ」と女房に頼み、またため息をついた。


 すたすたと進む朱鳥を慌てて追いかけてきた女房が「姫さまこれを」と衵扇あこめおうぎを差し出した。

「ありがとう」と受け取ったものの朱鳥は扇で顔を隠すことなく、ブツブツと文句を言いながら大股に進む。


「冗談じゃないわ。ただ年をとっているだけならいざしらず、槙大納言といえば好色で有名じゃない。そんな爺のところに嫁に行くなんて、おかあさまは酷すぎる!」

「ひ、姫さま。そうおっしゃらずに。北の方は姫さまの心配をなさって」


「わかってる!」

 カンカンに怒りながら角を曲がると、目の前に白いものが現れた。


「おっとっと、あ、兄君」

 朱鳥が見上げたのは兄の蒼絃。


 背の高い蒼絃は、手にしたしゃくを口元にやり、朱鳥を見てクツクツと笑う。


「随分と怒っているようだな。朱鳥のブツブツ言う声が渡殿わたどのまで聞こえたぞ」


 削ぎ落とされた端正な顔立ちに、切れ長の瞳。その薄い色の瞳が時折冷たく金色に輝いて見えることがあるが、今は薄茶の瞳が穏やかに朱鳥を見下ろす。


「手を出してご覧」


 朱鳥の手を取った蒼絃は、その上に自分の手をかざす。するとどうだろう、朱鳥の手のひらには茶巾の形をした揚げ菓子が現れた。


「うわっすごいわ!」


「さあ、おいで。甘酒を飲みながら話をしよう」


 紫の単衣に白い狩衣がよく似合うこの兄は、陰陽師だ。朱鳥の父も陰陽師であるが、この藤原家には時折ずば抜けて優れた者が現れる。兄の蒼絃あおとがそうだった。出世にはまったく興味がなく、煩わしい権力闘争に巻き込まれることを嫌っている蒼絃は、のらりくらりと頼まれごとをかわし、その能力を隠している。

『蒼絃の能力は、そら恐ろしいほどだ』父がそう言うのを聞いたことはあるが、その能力とはいったいどれほどのものなのか、朱鳥には知る由もない。兄妹でも朱鳥にはそういった不思議な能力は無かった。


 式神を操ったり、何かを予知するとか、悪を祓うとか。そのどれかひとつでもいいから自分にもそんな力があったらよかったのに。そう思うと残念でならなかったが、兄はこんな力などない方が幸せだよと言う。


『未来の不幸を知ったところで、人ができることには限りがある。無理だとわかってしまった時は、あきらめるしかなくなってしまう。ならいっそ、そんな未来は知らぬまま、ただ一途に信じて進むほうがいい』


 そして、蒼絃は朱鳥をこう慰めた。

『朱鳥の弾く琴の音は、人の心を癒すことができる。舞も同じ。それは朱鳥だけが持つ素晴らしい能力だ』

 誰よりも自分を理解して受け入れてくれる優しい兄。朱鳥にとって兄の蒼絃は誇りであり、唯一無二の存在だ。


 ふたりが向かった先は北の対。北の対の簀子には、夏とはいえ壺庭の遣水から涼しい風が吹いている。


「大納言さまと結婚なんて嫌です」


 冷たい甘酒で喉を潤しながら朱鳥から事情を聞いた蒼絃は、母には私から言っておくから大丈夫だと朱鳥を慰めた。


「結婚なんかしなくても、このまま家にいたらいい」

「それでは兄君に迷惑をかけてしまうでしょう。私は舞師になって自立するの」


「迷惑なんてことはないさ、朱鳥がいないと寂しい。まあ朱鳥ならいい舞師になれるとは思うが」

「そう思ってくれる? ふふふ。私、舞師になってちゃんと禄(給料)を頂くの」


 希望に満ちた瞳を輝かせる朱鳥を見ながら、蒼絃は小さく微笑んだ。口には出さないが、蒼絃にはわかっている。舞というよりは踊りといってもいい朱鳥の舞が、宮中で受け入れられることはないだろうと。

 朱鳥の軽やかな舞を広めようとがんばったところで、朱鳥のように身軽に動ける貴族の姫など、まずいない。見ただけで皆、音を上げるに違いないのだ。


 それだけではない。無理なことは他にもある。舞師となるからには、まず宮中に行かなければならない。女房装束を身に着けるだけならいいが、化粧はどうしたものか。

 朱鳥の肌は透けるようにきめが細かく美しいが、その分弱い。白粉を塗ろうものなら、すぐさま赤く腫れあがってしまう。


 それに、女官たちの女房装束は体が動かせないほどの重ね着である。それが正装なので仕方がないが、真っすぐに立ってすたすたとは歩かない。動きは恐ろしく緩慢だ。果たして、ここで伸びやかに暮らしている朱鳥が、そんな宮中での暮らしに耐えられるだろうか?


 苦労の連続になることは目に見えている。

 努力家で我慢強い朱鳥のことだから必死にがんばるだろうが、そんな苦労をする朱鳥を想像するのは、蒼絃には耐えられないことだった。

 ――唯一無二の、なによりも大切な妹なのだから。


 ふいに朱鳥が首を傾げて兄をじっと見た。


「兄君、"お籠り"でまた少しお痩せになりました?」


 時折蒼絃は部屋に籠もる時がある。

 声をかけることも誰ひとり入ることも許されないので、蒼絃がそこで何をしているのかはわからないが、両手の指を数えきるほど何日も部屋を出てこないこともあった。


 不安になった朱鳥が部屋の外で寝起きをして待つこともある。でもそんな心配をよそに、兄はある日突然飄々として現れる。それを朱鳥は"お籠り"と呼んでいるが、今日も蒼絃は十日ぶりに部屋から出てきたところだった。


「痩せた? そうかな」

「ええ、お痩せになりましたよ? でもお顔の色はよいので、大丈夫ですね」


 この不思議な兄は、"生"ということにまるで無頓着にみえる。ふいにこの世から消えてしまうのではないかと、朱鳥は不安になる。

 兄の蒼絃が朱鳥を心配するように、妹の朱鳥も兄が心配でならなかった。


「それで? 舞は決まったのかい?」

「え? あ、はい!」


 笛を吹くから見せてご覧と言って、蒼絃は衣から人の形をした紙を取り出した。

 蒼絃が息を吹きかけると、人形の紙はくるくると回りながら小さな舞姫になる。その小さな舞姫の正体は、陰陽師の蒼絃が操る式神という妖怪だ。

 蒼絃が横笛を吹き始めると朱鳥も舞い始め、その周りを複数の式神が笑いながら舞いはじめた。

 式神は時折蝶になりキラキラと鱗粉を輝かせる。その中心で楽しげに舞う朱鳥はまさに天女であり、この世のものとは思えぬ美しさだ。


 踊りながら朱鳥は思った。


 ――姫なんてつまらない……。


 ここ平安の都で姫と生まれたからには、寝殿の奥深く隠れるようにひっそりと息をして、殿方に愛されることを願うしかない。つまらないとか面白くないとか、そう思っても、貴族の姫には他に生きていく術がないのだから仕方がないことだとわかっている。

 ――ただ、もし。

 それでももし、迎えに来てくれる人があの方ならと、朱鳥にも思う人がいないわけではなかった。


 脳裏に浮かんだのは、想い出に眠る美しい公達。

 ――あの荘園の君は、今どうしているのだろう。


 いつか迎えに来てくれはしないだろうか?と夢にみる初恋の人は、どこの誰かもわからないままだった。

 いつまでも夢をみて待っているわけではないが、だからといって他の人を受け入れることは考えられなかった。


 自分はもう一生独り身なのだろうと、ぼんやりと思う。

 ――それでも好きでもない人と結婚をしたり、妾になるくらいなら独りのほうがいい。

 そう思って、縁談がある度に兄の蒼絃に相談して断ってもらっていた。


 蒼絃がこんなことを言ったことがある。

『朱鳥は、生きる時代を間違えてしまったのかもしれない。あと千年』


 くるくると踊りながら、朱鳥は思った。


 ――千年……。一体どんな時代なのだろう。


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