妹がほしい19
連休明けの午後三時。
「失礼します」と、西園寺常務の執務室に入ってきた鈴木は、応接セットのテーブルにおしぼりと紙袋を置いた。
「社食でサンドイッチを作ってもらいました」
そして、コーヒーメーカーに向かう。
午前中の会議が長引き、シリアルバーを口にしただけで午後の打ち合わせへと向かってから今に至るまで、飲み物以外は口にしていない。
大きく伸びをした西園寺洸は、ゆっくりと立ち上がってソファーに移動した。
「なんだか久しぶりに仕事をした気がする」
「連休中お忙しかったからじゃないですか? 仮装もしたし、慣れない兄役で疲れたんでしょう」
「ああ、そうだね。まぁでも次の日曜には碧斗が迎えに来るそうだから」
「そうでしたか」
「それにしても碧斗のやつ、あれ以来まったくメールを寄こさないんだぞ。しつこいと思ったら今度はそれだからな。何なんだ、あいつは」
クスクスと鈴木が笑う。
「飛香さんに止められているのかもしれないですね」
「ん? どうしてそう思うの?」
「いえ、ただなんとなく……」
学園のチャリティパーティでの様子からなんとなく鈴木はそう思ったが、これと言って理由を言えるものはない。
「ああいうのは、本当に困るね」
「何かあったんですか?」
「何もないんだ。一見ね。あの子は、無邪気な笑顔の中に全てを隠す」
――ねぇ、君はどう思う? 僕はね、あの子のために涙を流したんだよ。
わけのわからない悲しみの淵に立つあの子を励ますだけのためにね……。
心の中でだけ、そう言ってみた。
「とりあえず僕の役目は終わったし、今日からマンションに帰ろうと思っている」
気のせいではない。
それは一瞬だったが、鈴木がかつて見たこともないほど、洸は辛そうに顔を曇らせた。
「そうですか。では今夜は打ち合わせを兼ねて夕食をご一緒にいかがです?」
「ああ、そうしよう」
一体、彼の中で何が起きているのだろう?
驚きのあまり、味を感じないまま飲み込んだサンドイッチの残りに目を落とし、もしかするとこれは大変なことになるかもしれないという言い知れぬ不安に、鈴木は緊張した。
「洸ったらまったく。先週は珍しく家にいたと思ったら、今週はまたマンションなんですって。本当につまらない子ねぇ」
西園寺夫人が夕食の席で、飛香を相手に文句を言った。
「連休明けで、お仕事が忙しいそうです」
そう答えたアラキは、ついさっき洸のマンションに行ってきたところだ。
温めればすぐに食べられる冷凍した料理や、飲み物に着替えなどを整えてきた。
「飛香ちゃん、今夜は琴を聞かせてくれる?」
「はい」
「あぁ、残念だわ。もうすぐ飛香ちゃんのお琴も聞き納めなのね」
夕食後しばらくして、西園寺家には飛香の弾く琴の音が響いた。
「今夜の曲は、いつにも増して胸に響くわね」
「ええ、本当に」
西園寺夫人はそっとハンカチで涙を拭いた。
後ろに立っていたサワも、エプロンから取り出したティッシュで涙を拭う。
更にその後ろで、ただひとり涙を浮かべていないアラキは、響くその音に、昨日聞いた飛香の話を重ねていた。
『――私は、平安の都から来ました』
『どうやって?』
『平安の都での兄は、力のある陰陽師なのです』
しばらくの間、藤原飛香を邸で預かることになる。そう夫人から連絡を受けたアラキは直ちに藤原飛香について可能な限り調べた。
藤原家を信用していないわけではない。飛香の兄は洸が幼い頃からの友人のひとりでもあり、疑う要素はなかったので、最初はあくまで念のためだった。
ところが、奇妙なことがわかった。
飛香は事故で記憶を無くしたと家族は言っているが、その事故で医者にかかった形跡が一切でてこないのである。
事故そのものが些細なものであっても、記憶を無くしたとなれば大変なことだ。
普通ならまずは医者に頼るだろう。
なのに恐らく医者にもかからず、彼女は家族に見守られながら那須の別荘で二年間、隠れるように暮らしていた。
でも、だからといってその事が西園寺家に問題を起こすわけではないので何も報告はしなかったが、それでは済まなくなってきた。
いざ藤原飛香が西園寺家に来ると、まず夫人とサワが彼女を気に入り、夫人に至っては『アラキ、あの子が洸の嫁になってくれないものかと思うのよ』と言い出したのである。
そうは言っても本人がどう思っているかもあるので、とりあえず様子を伺うためもあり今回帰国した。
御曹司は少なからず心を動かされているようだが、まだわからないとアラキは思った。
人の心の動きは何かによって誘発される。些細な一つをきっかけに心が冷めることもあれば、心を奪われることもある。
わが御曹司は、恐らくどちらかに転ぶ過程にいるのだろう。
冷めるなら何も問題はない。
問題は御曹司が、心を奪われた時だ。
彼女を西園寺家の嫁として迎えることを考えなければならない。
『私は、平安の都から来ました』
顔には出さなかったが絶句した。そのまま信じるには、あまりに突拍子もない話である。
とても事実とは思えないが、事実でないとすれば、なぜそんな嘘をつくのか。仮に本人が平安の都から来たと信じこんでいるとしても、嘘を言っているにしても、どちらにしても問題である。
かといってそれを言った時の彼女の瞳は、嘘をついているようにも異常をきたしているようにも見えなかった。
アラキはただそんなことを思い、ひとり和室で琴を弾く飛香を見つめている。




