妹がほしい17
「皆さん、もうすぐご結婚なんですね」
帰りのリムジンの中で、飛香がそう言いだした。
「お幸せそうでした。ふふふ。洸さんは? ご結婚の予定はないのですか?」
聞きながら洸を見つめる飛香の笑顔は、あくまで無邪気だ。
それがなんとなく心に引っかかったせいなのか、気が付いた時にはわざわざ言わなくてもいいことを言っていた。
「僕は昔から三十歳には結婚すると決めているんだよ。だからそろそろ相手を決めようと思ってる」
「そうですか、素敵な人なんだろうなぁ、洸さんが選ぶ人だもの」
フッと口元に笑みを浮かべたものの、それがどんな女性なのか、洸の脳裏に具体的に浮かぶものはない。
西園寺家の嫁としてふさわしい女性。自分の嫁としてふさわしい女性。それはその女性のバックグラウンドが重要ということなのか。それとも見た目のことなのか。聡明さを求めるべきなのか。
あるいはその全部ということかもしれないと思ったが、その女性の姿は霞がかかったようで実体として感じられない。
――僕の妻か。
素敵な妻。大切な、愛おしい妻。
影でしか浮かばないその妻に、洸は問いかけた。
――君はいったい誰なんだ……。
「お疲れさまでした。お荷物はこちらに置いておきます」
――荷物? そんなものあったか?
濡れた髪を拭きながら、アラキを振り返って思い出した。
飛香が魅入っていたキラキラの靴は、あの時こっそり注文をしてクロークに回してもらっていた。オークションで買ったものと一緒に、車に積んでもらったまま忘れていた飛香へのプレゼント。
「ああ、サンキュー」
「洸さま、お見合いの話ですが、次の土曜はいかがでしょう」
「え?土曜? 随分手際がいいな」
「形式ばったお見合いではなく、とりあえず気軽にお二人だけで会ってみるという事にされてはいかがかと」
「ああ―、うん。そうだね」
「では、よろしいですね?」
「いいよ、すすめて」
アラキはそれだけ言うと部屋を出て行った。
扉を閉める音とともに、耳鳴りでもしそうな静けさに襲われた。
その瞬間まで感じなかった不快な闇が気を重くする。
髪を拭く手をとめて、体を投げ出すようにソファーに沈んだ洸は、その闇を吐き出すように大きく息を吐いた。
――気鬱の原因は、見合いか……。
そんなはずはないと思いたいが、断ろうと考えただけで気分が軽くなる。
ということは、そういうことなのだろう。
断ろうかと、ふと思う。
たとえば今、やっぱり止めておくとアラキに言えば、少なくとも気が楽にはなるだろう。それは間違いないが、それではだめだと首を振った。今、原因をはっきりさせておかない限り、また同じことの繰り返しになる。先送りしたところで何の解決にもならない。
唇を噛んだ洸は、チッと舌を打つ。
したくなければ別に結婚する必要はない。この時代、妻がいなくても遺伝子だけ残す方法だってある。
――何が嫌なんだ?
幸せな家庭をイメージしようとして目を閉じると、ふいに飛香の泣き顔が浮かんだ。
――そういえば。あの時、飛香は一体なにを思って泣き出しのだろう?
『僕の子供の頃から得意技教えてあげようか?』
あの話は咄嗟についた嘘だ。
いつでも涙を流す特技などあるわけがない。そもそも泣くくらいならさっぱりと負けを認めるほうがいいに決まっている。なぜなら次の機会に、倍の形で勝てばいいのだから。
だから、あんな風に涙を流したことはもちろん、涙を人に見せたことも初めてだった。
――それにしても何故だ。あの琴の演奏を見ながら、なぜ飛香は突然泣いたのだろう。忘れた記憶となにか関係があるのだろうか……。
鈴木が言っていた話をふいに思い出した。
『彼は、飛香さんを不良から助けたことがあるそうですよ』
――燎か?
ヒーローが登場したシーンを飛香は覚えていた?
だとすれば、燎が恋人を連れていることをどう思ったのか。
そんなことを考えるうち、洸は飛香に靴を渡そうと思い立った。
濡髪でバスローブを羽織っただけの恰好だが、リビングや廊下で何度もこの姿を見ている彼女は許してくれるだろう。渡すだけなのだから問題ない。
いつの間にか見合いのことなど忘れた洸は、早速靴の入った紙袋を持ち、廊下を進んだ。
コンコンと軽くノックをして「飛香、ちょっといい?」と声をかけてドアを開けると、部屋の中には音楽が響いている。
テレビ画面の中で、今人気の歌手がゆったりとした切ない歌を歌い、ダンサーが踊っているのが見える。
そして飛香を見た洸は、仰天して目を見開いた。
飛香は口ずさみながら踊っている。
今日壺装束の彼女が被っていた垂れ布のように、薄いシルクのガウンをひらめかせて。
――下着も身につけずに……。
咄嗟に扉を引いた洸は、慎重に、音を立てないように扉を閉じた。




