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「姫さま、朱鳥姫さま」
「どこにいるの? 朱鳥」
娘を呼びながら、ここ藤原家の奥方である北の方は、やれやれとため息をつく。琴の手習いをしていたはずの娘、朱鳥姫が、いつの間にかいなくなり姿を見せない。
「これからお客さまがいらっしゃるというのにもう」
普段あまり動かない北の方は、ぜぇぜぇと息を切らす。ほんの少し歩いただけだというのに、北の方は自分で探すことを早々にあきらめた。
「とにかく、姫を、探しておくれ」
「はい、わかりました」
わらわらと八方に散る若い女房(女性の使用人)の背中に向けて「頼みましたよ」と声を投げかけ、北の方は困り果てたように頭を抱える。
「大丈夫でございますか?」
女房の長である笹野に支えられながら、北の方は嘆いた。
「姫は、もうすぐ二十歳になってしまうというのに、どうしたものか」
笹野は困った。何か言って励まして差し上げたいと思ったが、どう答えていいのかわからない。
『大丈夫でございますよ。姫さまは誰よりも琴も上手く、それはそれは美しい姫さまでいらっしゃるのですから』そう言い続けているうちに、親戚や近所の姫たちは皆朱鳥姫を追い越し、もうとっくに誰かの北の方となって嫁いでいる。あるいは、通いの婿がいて、既に子供のひとりやふたりいるのだ。
いまとなっては大丈夫と励ましたところで、空しく響くだけである。
笹野にできることは、せいぜい「大丈夫でございますか?」と北の方の背中をさするくらいだった。
その頃、当の朱鳥は舞を舞っていた。
西の邸の奥で、女房の吹く笛の音に合わせながら。
実はもうすぐ、栄華を誇る左大臣藤原家で行われる宴の余興として、朱鳥に祝いの舞を舞うことになっているのだ。
同じ藤原でも左大臣家は朱鳥の家とは別格である。今回左大臣に就任した儀式として開く大饗に呼ばれるのは名誉なことに違いなく、朱鳥はうれしくて仕方なかった。
人前で舞を披露するのは気が重いが、左大臣家は都で随一と言われる豪華な寝殿であるという。そんなところに行ける機会など今回を逃しては二度とないだろう。
しかも、兄が傍にいてくれる。
『わたしがその場にいるから、何も心配することはない』
兄の力強い励ましのおかげで、朱鳥は不安よりも期待に胸を躍らせている。
「朱鳥さま」と、遠くから呼ぶ声を耳にした朱鳥は、踊りの手を止め、ふぅーとひと息ついた。
「姫さま姫さま!北の方さまが、お探しになっていらっしゃいますよ」
「はいはい。わかりました」
「姫さま、どうぞ」
「ありがとう」
女房が差し出した手水鉢に布を浸し、朱鳥は汗を拭いた。
「おかあさまは怒っていらっしゃる?」
「ええ、着替えは済んでいるのかとおっしゃって。もうすぐお客さまがいらっしゃいますから」
「あぁ、そう。でも私には関係ないでしょう?左大臣さまの宴はもうすぐなんだもの、今は踊りの練習をしなくちゃ」
「ですが姫さま、お客さまに琴を聞かせてあげるようにとのことです。それに、万が一のこともありますし、そのお姿を見られては……」
女房が言い淀む。
朱鳥の服装は、小袖に袖を通しただけという簡単な出で立ちだ。
踊りやすいようにという理由はあるがそんな言い訳は通らないだろう。貴族の姫にあるまじきこの格好を人に見られては、朱鳥だけの問題ではなく藤原家としても恥になる。
女房の微妙な表情を感じ取ったのか、朱鳥は首を傾げてシュンと俯いた。
「そうね。すぐに着替えるわ」
朱鳥は深いため息をつく。
藤原家で朱鳥が舞を披露することは、母は大反対なのだ。
――仕方がない。練習の続きはお客様が帰ってからすればいい。
ここは平安の都。
そこに住む貴族の姫らしく、母の言うとおり着替えて琴を奏でようと、朱鳥は立ち上がった。
急いで着替えた朱鳥は、緋色の袴の裾を掴んで全力で走る。音を立てるとまた叱られるので、ひたひたと滑るように走った。
「ひ、姫さま」
女房たちは、必死で転びそうになりながら息を切らして姫に付いていく。
ドタドタと賑やかに女房たちが渡り廊下を走る音が聞こえ、北の方は、「ああ」とまた頭を抱えた。
このやかましい音の原因は、考えるまでもない。
「おかあさま、お呼びですか」
北の方の予想通り、先頭に現れたのは朱鳥だった。
小言を言うつもりでいたが、人懐っこい笑みを浮かべニッコリと目を細める娘を前にすると、北の方もどこから注意したらいいのかとわからなくなる。軽い目眩に襲われて、フラッと脇息に寄り掛かった。
「大丈夫ですか? おかあさま」
「ええ、大丈夫ですよ。姫、あなたは何をしていたの?」
「天女の舞を練習しておりました」
「適当でいいのですよ。五節の舞姫ならいざしらず、白拍子のような真似をさせるなんて左大臣さまもどうかしていらっしゃる」
「そんな、おかあさま、私は楽しみですよ。以前にも申しましたが私は舞師になりたいんですもの」
「また、そのようなことを。普通ならもうとっくに結婚して子をもうけ、落ち着いている年頃だというのに、あなたはどうしてそうなのですか」
――だって、そんなのつまらないもの。
朱鳥はそう答えたいが、言えば益々母の怒りをかうことになる。
仕方がないので言葉を口の中で留め置いたがその分頬がパンパンに膨れあがった。そのまま上目遣いで母を見ると、母は眉をひそめて睨んでいる。
朱鳥はシュンとして俯き、頬の膨らみを指で押して直した。
「いいですね、今日のお客さまは槙大納言さまです。幸いなことにあの方にはまだ正室がいらっしゃいません。ここは是非、美しい琴の音を聞いて頂いて、よろしいですか?姫」
「嫌でございます!大納言さまは、もうお爺さんではないですか」
「仕方ないでしょう。あなたが選り好みをしているばっかりに、年ばかりとってしまって年頃のお相手はみな北の方がいらっしゃるのだから」
「だから、私は舞師になってひとりで生きていきます! 大納言さまなんて絶対に嫌ですからね。失礼いたします!」
ムッとして立ち上がった朱鳥は、袖を翻して背を向けると御簾に手を掛け、するっと廂に出た。




