妹がほしい 4
「百人一首ですか?」
「そうなんだよ。はい、はい、はい、ときて百人一首」
「すごい変化球で来ましたね」
「ああ、とてつもない魔球だったな。僕としたことが見送りの三振で棒立ちだ」
鈴木がクックックと笑う。
次の日の午後、会議室へと向かうエレベーターの中で、洸はため息をつきながら飛香との会話を鈴木に話して聞かせていた。
「他を忘れても覚えているとは、よほど平安時代が好きなんですね」
「そうなんだろうな。話を合わせてあげたいと思ったが、あいにく僕は平安時代にさほどの興味もないし、よくわからない。それきり会話はなかったよ」
洸は憮然とするが、鈴木は笑いが止まらない。百人一首と言われて固まる洸の姿が目に浮かぶようだった。
「それにしても常務が対処に困るほどとは、なかなか手ごわいですね、飛香さん」
西園寺洸は人の心を掴むことに長けている。
本人がそれを意識しているかどうかは別として、その端正な顔に柔らかい微笑みを浮かべれば、大抵の女性は無条件で心を許すのが普通だ。何しろ彼は、見目麗しい上に、品行方正な御曹司なのだから。
「まぁどうせ、そう話す機会もないだろうし別にかまわないけどね。夕食の時間に帰れなさそうな時はマンションの方に帰ると言っておいたし。もう会うこともないかもしれないな」
さほど気にする様子も見せない上司に、鈴木はフッと苦笑いを浮かべた。
嘘偽りなく、彼はそうするだろう。
藤原碧斗が大事な妹を預ける先に、西園寺家を選んだだけのことはある。
うら若き美人が家にいようがいまいが関係ない。どこまでもマイペースを貫くのが西園寺洸なのだから。
ところが数日後、洸のスケジュールから残業の文字が消えた。
働き過ぎが問題になる世の中である。西園寺ホールディングスも例外ではないのだが、なかなか徹底されない。まずは役員がその手本となるべく率先して定時に帰ろうということになった。
「そんなことを言ってるうちに、ガツガツ仕事をする外資系に持っていかれちゃうんじゃないの」
「それぞれ繁忙期にがんばってもらって、長期休暇を取ってもらう形にしてありますから」
マンションに帰ったのはたったの二日。今日もまた明るいうちに邸へと向かうリムジンの中で、洸のスマートホンがメールの着信を告げる。
着信元は飛香の兄、碧斗。
「またか」
洸がうんざりしたように顔をしかめる。
「どうしました?」
「シスコン碧斗だよ」
西園寺家に飛香が来てからまだ五日しか経っていないが、碧斗からは毎日のようにメールが来る。
「飛香は元気か? 何か困ったことはないか? 全く、うっとうしい奴だ」
忌々しげに、画面を叩きつけるようにして返事を打った。
『なにかあったら必ず!何時だろうが直ぐに連絡するから安心しろ!怒』
強く送信ボタンを押すと、スマートホンを鞄の中にほうり投げた洸は、ムッとしたまま舌を打つ。
「明日もメールがあったら、あいつのメアドは着信拒否にしてやる」
クスっと鈴木が笑う。
「まぁ記憶喪失となると、色々心配なのでしょう。飛香さんの様子はどうですか?」
「母やサワとはいつも楽しそうにしているよ」
「それはよかった」
「どう? 君も一緒に夕食でも」
「いえ、今日はご遠慮しましょう。人が増えて緊張させてしまっては、碧斗に叱られるでしょうから」
今夜、鈴木に決まった予定があるわけではなかった。恋人とも約束はない。
西園寺邸に行っても何も不都合はないのだが、いま口にしたとおり飛香の気持ちをおもんばかって遠慮したのだ。強く誘われれば違ったかもしれないが、洸も同じ気持ちだったのか珍しく無理強いはしなかった。
「飛香さんは日中、何をしているんですか?」
「サワに料理を教わったり、母と出かけたり、サワと本屋に行ったりしてるらしい。なんでも彼女は本が好きで、刺繍や手芸や美術関係の本や雑誌を買っているそうだ」
「手芸はいずれにしろ、美術ですか。さすが碧斗の妹ですね」
飛香の兄、藤原碧斗は華道だけでなく琴や三味線も免許皆伝で、横笛も吹く。更には日本画も描いた。それもそれなりの賞を受賞するほどの腕である。青扇学園にいた頃から頭脳も明晰ではあったが、特に芸術分野に抜きん出ている学生だった。
「それで、その後どうですか? 会話はあります?」
「相変わらずだね。母と彼女は楽しそうに話をして、僕は黙々と食事をするだけ」
その様子を想像してクスクス笑いながら、鈴木はそれでも洸はさほど苦痛でもないのだろうと思った。
なんだかんだ言いながらも彼は結局、邸に帰っている。
高層階のマンションから眺める夜景が気に入っている洸は、帰りが遅いという理由がなくても帰宅にマンションを選ぶことがある。藤原飛香という客の存在が気に入らなければ、当然マンションに帰るだろう。
「若い女の子が家にいると華やいでいいんじゃないですか?」
「まぁ確かに。母もサワも邸に花が咲いたようだと喜んでいるね」
「常務から見てはどうですか? 飛香さんという女性は、どんな感じの方なんです?」
「純粋無垢。そのひと言に尽きるな。記憶を無くしているからかもしれないけどね」
「ほぉ」
「見るもの聞くもの、口にするもの。全てが初めてのことのように感動している。碧斗がシスコンになるのもわからなくはない。あれでは心配だろう、生まれたての子供と変わらない」
女性嫌いという訳ではないが、つね日頃から恋愛というものを毛嫌いしている洸である。そんな彼がこれを機会に"心を奪われる恋をする"、そんなことを面白半分に期待する鈴木だったが、現実は難しいようだ。
肝心の彼の口ぶりから連想させるのは、ひとりの女性としてというよりは幼い女の子でしかない。
望みは薄そうだと、鈴木は早くもあきらめた。
「それはそうと連休中はどうされるんですか?」
月曜の祝日をいれて明日から三連休である。
「軽井沢の別荘にでも行こうかと思っているよ。暑くてうんざりだ」
「皆さんでですか?」
「いや、僕だけ。次のプロジェクトの参考に見たいところもあるし」
「そうですか」
急な仕事が入った時の連絡先やらを確認し、鈴木は自宅マンションの近くで降りた。
「では、失礼いたします」
「おつかれ」
鈴木を見送った洸は、向こうで何をしようと早速思いを巡らせる。友人たちと騒ぐことも好きだが、ひとりの時間をゆっくりと愉しむことも同じくらい気に入っている。
――軽井沢の別荘に行くのは何年ぶりだろう。
別荘の管理人が犬を飼い始めたと聞いた。その犬を連れて、森林を散歩するのもいいなと想像するうちに西園寺邸着いた。




